揺らぎの交差点

ゆらぎ

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【最終章|静かな祈り】

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その日、街の空はどこまでも高かった。

雲ひとつない澄んだ青空の下、尚哉と凜は並んで歩いていた。

駅前から少し外れた、川沿いの細い道。
草の匂いが風に混じり、季節がゆっくりと巡ろうとしていた。

ふたりは、言葉少なに歩いていた。

でもそれは、もう“沈黙”ではなかった。

名を知り、手紙を交わし、過去と現在を繋いだあとの静けさは、
まるで“祈り”のようにふたりを包み込んでいた。

「また、来てくれますか?」

ふいに凜が問いかけた。

尚哉は少し歩を緩め、彼女の顔を見た。

「もちろん。」

それだけのやりとりに、必要以上の感情はなかった。

けれど、言葉の裏側に流れていた“願い”と“肯定”は、
どんな言葉よりも大きく、あたたかかった。

ふたりの影が、夕陽に照らされて地面に長く伸びていた。

それがまるで、別々に生きてきた時間と、
これからひとつになる未来のように思えた。

尚哉はふと、歩みを止めた。

凜も立ち止まり、彼の視線の先を追う。

そこには、川沿いの木陰に設けられた、小さな木製のベンチがあった。

「少し、座ろうか。」

凜が頷く。

ふたりは肩を並べて腰を下ろした。

風が静かに吹き、枝葉がさわさわと揺れる音が心地よく耳を撫でる。

「名前を知るって、不思議ですね。」

凜が呟く。

「たったそれだけで、世界が少しだけ優しくなる。」

尚哉は、そっと彼女の言葉に微笑を重ねた。

「君の名前を知って、ようやく“いま”が始まった気がするよ。」

沈黙ではない静けさが、ふたりを包んでいた。

それは、どんな手紙にも書ききれなかった“現在”という物語のはじまりだった。

町立図書館の小さな読書スペース。

午後の柔らかな光が差し込み、机の上には二冊の文庫本とノートパソコン、
そして数枚の原稿用紙が散らばっていた。

尚哉と凜は、向かい合わせに座っていた。

「じゃあ、この掌編は“巻頭”に置こう。読む人の心に最初に届いてほしい。」

尚哉が指差した原稿には、凜の手による短い物語が綴られていた。

凜は、少しだけ照れたように笑う。

「最初って、責任重大ですね。」

「うん。でも、はじまりは君がいいと思った。」

その言葉に、凜は静かにうなずいた。

ふたりのあいだには、資料のやり取りや修正案が静かに交わされていた。

尚哉は時折、凜の表情を見ながら、彼女が考えていることを汲み取ろうとする。
凜もまた、尚哉が選ぶ言葉のニュアンスを、丁寧に読み取っていく。

「……こういう時間って、いいですね。」

凜がぽつりとつぶやいた。

尚哉は原稿に視線を落としたまま、軽く頷いた。

「言葉を選ぶって、誰かを想うことと似てるから。」

ふたりの手元で原稿用紙がふわりと揺れ、
その下を一筋の風が抜けていく。

“物語”がふたりの間で編まれていく感触。

それはもう、過去を埋める行為ではなく、
未来を共に創るための、小さな共同作業だった。

数時間後──
ページレイアウトも整い、文芸小冊子の最終案がようやく形になった。

画面に表示された表紙デザインの隅には、ふたりの名前が並んでいた。

 ──編集:藤井尚哉・小田切凜

それを見た凜は、小さな声で言った。

「なんだか、不思議ですね……名前が並ぶだけで、ちょっと誇らしい。」

尚哉は画面を眺めながら、穏やかに頷いた。

「これからも、何かを一緒に作っていけたらいいね。」

凜は、その言葉に答える代わりに、そっとペンを手に取った。

そしてノートの余白に、たった一行だけ書き添えた。

 ──「きっと、“最初の物語”になる。」

風がまた、ページの端を揺らしていた。

小冊子の発刊日。

町立図書館の一角に設けられた特設コーナーには、小さな文芸誌が並んでいた。
表紙には、凜が撮影した木漏れ日の写真が使われている。
光が差し込む木々の間に、風の気配が映りこんでいた。

「本当に、出たんですね。」

凜が呟く。

隣で尚哉もまた、一冊を手に取りながら目を細めた。

訪れる人々が手に取り、ページをめくる。

そのなかには──
尚哉が書いた「最後の手紙」も、凜が綴った掌編も、
まるで“過去のふたり”が交わした声の記録のように載っていた。

ページの最後には、こんな一文が添えられていた。

 ──「風が通りすぎたあとに、言葉が残ることがある。
    そんな言葉を、僕らは“手紙”と呼ぶのかもしれない。」

ふたりは、展示棚のそばに並んで立った。

もう手紙は交わさなくてもいい。

言葉は、今ここにある。

凜がふと空を見上げた。

風が吹き抜ける。

木々がざわめき、光が揺れた。

「……ねえ、尚哉さん。風って、見えるんですね。」

尚哉はその言葉に、少しだけ驚いたように笑った。

「うん、見えるね。」

ふたりの視線が重なったそのとき──
すべての時間が、まるで一冊の本のように綴じられたようだった。

けれどその背表紙には、まだタイトルが書かれていない。

これからふたりが、その続きを書いていくのだろう。

風がまた、そっとページをめくるように吹き抜けていった。

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