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グランディ帝国編-第二章
第十話 「砕かれた心」
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「――パァンッ!!」
乾いた平手打ちの音が、静まり返った裏庭に炸裂した。
その一撃は、精神がとうに崩壊寸前だった少年を打ちのめす最後の一撃だった。彼の小さな身体は糸の切れた操り人形のように平衡を失い、数歩よろめいた後、力なく地面へと崩れ落ちた。
痛々しいほど鮮やかな一筋の赤が、彼の口の端から溢れる。
セリーヌは、その場に仁王立ちしたまま、微動だにしなかった。ただ、先程振り抜いたその右手だけが、抑えきれぬほど激しく震えている。その深く底知れぬ紺碧の瞳の中には、氷のような怒りと、骨の髄まで染みるほどの失望が渦巻いていた。
「この……狡猾なクソガキが……!」
彼女の声は、極度の怒りによって微かに震えていた。
エドは肩で口元の血を拭い、淡々と言った。
「私が、狡猾? 結局、あなたは血を流さずにグランディ帝国を手に入れたではありませんか」
セリーヌの眼差しは更に冷たくなった。
「確かに手には入れたわ。だが、毒を盛るというやり方で、街中の罪なき民まで巻き込むなどと、考えたこともなかった!」
「血を流さぬ勝利には、誰かが代価を払わねばなりません」
エドの瞳には、依然として何の揺らぎもなかった。
「公平な取引ではありませんか、統帥殿?」
「まだ言い逃れる気か!」
その「代価」という言葉が、完全にセリーヌの怒りに火をつけた。
「その若さで……これほどまでに、心が歹毒とは!」
彼女の視線が、エドの腰に吊るされた血塗れの頭蓋を捉える。
「一体、何人殺した!?」
「殺すべき者を、殺したまでです。」
「なぜだ!!」
「……復讐だ。」
その言葉は、万トンの錨のように、セリーヌの心の海へと深く、重く沈み込んだ。
「では……」
彼女の声はひどく掠れた。
「最初から……お前は我々を利用して、己自身の復讐を?」
「そうだ。」
「……成し遂げた、と?」
「ああ。」
セリーヌは、苦痛に満ちた表情で、固く目を閉じた。
鋭く、ほとんど息もできぬほどの憐憫の情が、骨の髄まで染みる失望、強烈な嫌悪、そして尽きることのない怒りと、彼女の胸中で激しくせめぎ合っていた。
彼女は激情と右手の震えを無理やり抑えつけ、再び目を開いた時、その瞳は統帥としての氷のような決断力を取り戻していた。
「来い!」
セリーヌの声は威厳を取り戻し、裏庭に響き渡る。
「この人殺しの重罪人を――牢へ!」
最も近くにいた数名の妖狼族の兵士が、すぐさま恭しく命を受け、動き出す。
「はっ!御意のままに、統帥樣!」
セリーヌがこれほどまでに冷徹にエドの罪を問い、収監を命じるのを見て、スレイアはもはや黙ってはいられなかった。
「待って、セリーヌ!それは、あまりにも――」
「スレイア」
セリーヌはただ軽く手を上げるだけで、彼女の言葉を制した。彼女は振り返らず、その声には、底なしの疲労だけが浮かんでいた。
「……後にしてちょうだい。私はまず、スカロディア女王陛下にご報告せねばならない」
その声の響きに含まれた、普段は決して見せることのない僅かな弱さに、スレイアの心臓はどきりと音を立てた。
彼女はその時になってようやく気づいたのだ。セリーヌの、本来であれば塵一つないはずの白い制服に、おびただしい鮮血がべっとりと付着していることに。
その瞬間、彼女はすべてを理解した。先程の裏庭の光景、そして副官たちの口ごもるような態度の理由を。セリーヌは、誰かのために、最後の弔いを行っていたのだ……。
「……わかったわ、セリーヌ。」
スレイアの声は、無意識のうちにずっと柔らかくなり、理解と労りに満ちていた。「報告を終えたら、ゆっくり休んで。後で、また来るから」
彼女は踵を返し、去り際に、最後に一度だけ、あの少年の背中を見た。数名の兵士に連行され、虚ろな眼差しのまま、生ける屍のように牢へと向かう――エドの背中を。
一言では言い表せぬ複雑な感情が、彼女の金色の瞳に一瞬よぎる。そして、彼女はもう留まらなかった。
その身を軽やかに宙へと躍らせ、一筋の流光となって、宮殿の正門の方角へと、疾風の如く飛び去っていった。
乾いた平手打ちの音が、静まり返った裏庭に炸裂した。
その一撃は、精神がとうに崩壊寸前だった少年を打ちのめす最後の一撃だった。彼の小さな身体は糸の切れた操り人形のように平衡を失い、数歩よろめいた後、力なく地面へと崩れ落ちた。
痛々しいほど鮮やかな一筋の赤が、彼の口の端から溢れる。
セリーヌは、その場に仁王立ちしたまま、微動だにしなかった。ただ、先程振り抜いたその右手だけが、抑えきれぬほど激しく震えている。その深く底知れぬ紺碧の瞳の中には、氷のような怒りと、骨の髄まで染みるほどの失望が渦巻いていた。
「この……狡猾なクソガキが……!」
彼女の声は、極度の怒りによって微かに震えていた。
エドは肩で口元の血を拭い、淡々と言った。
「私が、狡猾? 結局、あなたは血を流さずにグランディ帝国を手に入れたではありませんか」
セリーヌの眼差しは更に冷たくなった。
「確かに手には入れたわ。だが、毒を盛るというやり方で、街中の罪なき民まで巻き込むなどと、考えたこともなかった!」
「血を流さぬ勝利には、誰かが代価を払わねばなりません」
エドの瞳には、依然として何の揺らぎもなかった。
「公平な取引ではありませんか、統帥殿?」
「まだ言い逃れる気か!」
その「代価」という言葉が、完全にセリーヌの怒りに火をつけた。
「その若さで……これほどまでに、心が歹毒とは!」
彼女の視線が、エドの腰に吊るされた血塗れの頭蓋を捉える。
「一体、何人殺した!?」
「殺すべき者を、殺したまでです。」
「なぜだ!!」
「……復讐だ。」
その言葉は、万トンの錨のように、セリーヌの心の海へと深く、重く沈み込んだ。
「では……」
彼女の声はひどく掠れた。
「最初から……お前は我々を利用して、己自身の復讐を?」
「そうだ。」
「……成し遂げた、と?」
「ああ。」
セリーヌは、苦痛に満ちた表情で、固く目を閉じた。
鋭く、ほとんど息もできぬほどの憐憫の情が、骨の髄まで染みる失望、強烈な嫌悪、そして尽きることのない怒りと、彼女の胸中で激しくせめぎ合っていた。
彼女は激情と右手の震えを無理やり抑えつけ、再び目を開いた時、その瞳は統帥としての氷のような決断力を取り戻していた。
「来い!」
セリーヌの声は威厳を取り戻し、裏庭に響き渡る。
「この人殺しの重罪人を――牢へ!」
最も近くにいた数名の妖狼族の兵士が、すぐさま恭しく命を受け、動き出す。
「はっ!御意のままに、統帥樣!」
セリーヌがこれほどまでに冷徹にエドの罪を問い、収監を命じるのを見て、スレイアはもはや黙ってはいられなかった。
「待って、セリーヌ!それは、あまりにも――」
「スレイア」
セリーヌはただ軽く手を上げるだけで、彼女の言葉を制した。彼女は振り返らず、その声には、底なしの疲労だけが浮かんでいた。
「……後にしてちょうだい。私はまず、スカロディア女王陛下にご報告せねばならない」
その声の響きに含まれた、普段は決して見せることのない僅かな弱さに、スレイアの心臓はどきりと音を立てた。
彼女はその時になってようやく気づいたのだ。セリーヌの、本来であれば塵一つないはずの白い制服に、おびただしい鮮血がべっとりと付着していることに。
その瞬間、彼女はすべてを理解した。先程の裏庭の光景、そして副官たちの口ごもるような態度の理由を。セリーヌは、誰かのために、最後の弔いを行っていたのだ……。
「……わかったわ、セリーヌ。」
スレイアの声は、無意識のうちにずっと柔らかくなり、理解と労りに満ちていた。「報告を終えたら、ゆっくり休んで。後で、また来るから」
彼女は踵を返し、去り際に、最後に一度だけ、あの少年の背中を見た。数名の兵士に連行され、虚ろな眼差しのまま、生ける屍のように牢へと向かう――エドの背中を。
一言では言い表せぬ複雑な感情が、彼女の金色の瞳に一瞬よぎる。そして、彼女はもう留まらなかった。
その身を軽やかに宙へと躍らせ、一筋の流光となって、宮殿の正門の方角へと、疾風の如く飛び去っていった。
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