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平成ボックス
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《起》
起床ベルが鳴った。
午前六時半……「ウソだろ、さっき寝たばっかりなのに……」
今埜大介は、絶望の表情で体を起こした。暖房を付けたまま寝たが、底冷えする自然の冷気には敵わない。
「さむっ……」
思わず、体を震わす。
カレンダーを見ると、まだ水曜日。しかし、土日を迎えたところで、休めるわけではない。もう、何日間連勤しているんだ……。ため息しか出てこない。
大介の《務め》は、郵便配達員。
年末のこの季節は、恐ろしいほどの仕事量だ。本来の郵便物とは異なる配達品を、同僚と手分けして配っているのだが、これがかなりのくせ者だ。受取人のサインが必要なもの、本人確認が必要なもの、ポストに入りきらないもの、みんなで手分けしても終わる見込みはない。
どれだけ残業しても、残業手当は一日三十分しか付かない。まさにブラック企業の代表のような職場だ。
おまけに、年賀はがきの自爆買い。人と接する時間がないほど働かせて、どこに年賀状を送れというのだ、何百枚も。日本の伝統ある文化が、悪しき習慣となっている現状。それでも逃げることもできない。
意識が朦朧としながら支度した。ここ数年、朝食も摂っていない。ギリギリまで眠っていたいのだ。とにかく休みたい、体を休めたい。
フラフラになりながら、アパートを出て、凍てつくような寒さの中、自転車を漕いで職場にやってきた。
もうすでに何人かが作業を始めていた。暖房と人の熱気で、窓ガラスが曇っている。この内外の温度差も辛い。腕をまくって仕分けをすると思えば、配達のときは、厚手の防寒ジャンパーを着なければならない。
職場は、夜勤で一晩中仕分け作業をしている者もおり、殺伐とした空気が漂っている中、無駄な朝礼が始まる。上司がイライラしながら、年賀状がまだ大量に売れ残っている、と説教をする。みんなよく堪えていると思う。よくこれで暴動が起こらないものだと感心するが、正直逆らう気力もはぎ取られてしまっているのが現状だ。
さて、今日は昼飯にありつくことぐらいはできるだろうか……。
《承》
散々勤務したのに、それでも帰宅時にはうしろ髪を引かれる思いで職場を出る。家に着いたのは午後十一時だった。
息が白くなるような寒い部屋。暖房を付け腰を降ろす。目の前にあるテレビは何のために置いてあるのか……、ここ数週間電源を入れた覚えさえもない。
台所を見ると、たまった洗い物が山をつくっているが、片付ける気も起きない。
コンビニで買ってきた弁当を流し込みため息をつく。早く布団に包まれたいが、シャワーを浴びなければ……。そう思っているうちに寝落ちしてしまった。
深夜に一度目を覚ましたが、もうシャワーを浴びる気力もなく、そのまま布団にくるまった。
午前六時半、また、起床ベルが鳴った。
上半身を起こし、頭を抱える。
「あぁ、もうイヤだ……」
こぼす言葉には力がない。服を着替える必要もなかった。そのまま寝落ちしてしまっていたからだ。
《転》
大介は、一日の業務を片付け、夕方五時、遅配分を取りに行くためいったん局に戻る。そして、同僚とともに、住所を頼りに未配達分の仕分けを始める。
自分の業務外の仕事だが、協力してやらなければ、捌ききれない。お互い様だ。時計を見ると、午後六時になる直前だった。
何時に帰れることやら……
大介が、半ばふて腐れていると、突然、視界が真っ暗になった。停電というレベルの暗さではない。本当の闇の中だ。
それに驚いたのは自分だけ? 周りからは一切の声さえ聞こえない。無音だ。
心地よい風が顔に当たり始めた。
俺は横たわっている? 体が液体に浸かっている……。
それが分かると、急に息が苦しく感じた。ノドに差し込まれているホースを抜き出し、嗚咽を吐いた。
「ゲホ、ゲホ」
声を出すと、反響した。真っ暗なままだ。
そうだ。思い出した……四年経ったんだ。終わったんだ……。
《結》
大阪での万博を終え数年もすると、日本の社会はスピードを上げて格差を広げた。無駄な税金の垂れ流しが庶民を苦しめた証拠だ。
貧困層が国民の八割以上を占め、もはや国という呈を為していなかった。犯罪は増加の一途をたどる。
犯罪の中でも、生きていくためにしょうがなく窃盗や万引きをするものを生活犯罪と呼ぶようにもなった。もはや、国民の中から生活犯罪者ではない者を探すことが困難なほど、人々の生活は切迫していた。
二〇四〇年代、犯罪者は増えるが、施設や刑務官は足りないままであった。しかも、刑務官の立場でありながら、生きていくために生活犯罪を犯す者さえもいた。
そこで、政府は軽犯罪を犯した者には、懲役刑ではなく、VRによる体験刑を与えることにした。
人々は、それを通称『平成ボックス』と呼んだ。
これは『アイソレーション・タンク』という一人用のカプセルに人間と同じ比重の溶液を満たすことで、体が浮いた状態にする。さらに聴覚と視覚を遮ることで、囚人を外部から隔離する。あらゆる接触を断ち切った無の状態にするものである。
そして、囚人の意識にVR装置からの映像を流し込み、懲役に変わる刑を体験させるのだ。
タンクはカプセルホテルのように並べておけばいい。刑務官も目を尖らせて、次から次へ送られてくる囚人を監視する必要もない。これで施設の問題も、監視する刑務官の人数もカバーすることができた。
さらに、冬眠状態にしておくことで、栄養分を体内に流し込むだけで、食事の制限もできた。
しかし、この制度は、囚人に対して、あくまでも更正のチャンスを与えるための刑であるので、そのVRの内容は、懲役刑に変わるものでなくてはならない。ただの残虐なもの、刺激の強いものなど、悪趣味なものではいけないのだ。根底にはあくまでも更正がある。
そこで、採用されたのが二〇一〇年代の日本の職場であった。ブラック企業、社畜などという言葉が溢れ、日本が没落し始めるきっかけとなったころの社会である。
郵便局、銀行、配送会社、運送会社、不動産会社、教育現場など、枚挙に暇がない。囚人がどのVRを体験できるかは、分からない。それはランダムに与えられるので、希望の職種とは限らない。
生活犯罪を犯した今埜大介も『平成ボックス』に収監され、その中で郵便局員を体験した。四年間の《務め》を終え、今日が出所する日だ。
大介が思わずこぼす。
「二〇一〇年代の日本って……」
もう間もなく娑婆の空気が吸えるのだが、心は冴えない……。
起床ベルが鳴った。
午前六時半……「ウソだろ、さっき寝たばっかりなのに……」
今埜大介は、絶望の表情で体を起こした。暖房を付けたまま寝たが、底冷えする自然の冷気には敵わない。
「さむっ……」
思わず、体を震わす。
カレンダーを見ると、まだ水曜日。しかし、土日を迎えたところで、休めるわけではない。もう、何日間連勤しているんだ……。ため息しか出てこない。
大介の《務め》は、郵便配達員。
年末のこの季節は、恐ろしいほどの仕事量だ。本来の郵便物とは異なる配達品を、同僚と手分けして配っているのだが、これがかなりのくせ者だ。受取人のサインが必要なもの、本人確認が必要なもの、ポストに入りきらないもの、みんなで手分けしても終わる見込みはない。
どれだけ残業しても、残業手当は一日三十分しか付かない。まさにブラック企業の代表のような職場だ。
おまけに、年賀はがきの自爆買い。人と接する時間がないほど働かせて、どこに年賀状を送れというのだ、何百枚も。日本の伝統ある文化が、悪しき習慣となっている現状。それでも逃げることもできない。
意識が朦朧としながら支度した。ここ数年、朝食も摂っていない。ギリギリまで眠っていたいのだ。とにかく休みたい、体を休めたい。
フラフラになりながら、アパートを出て、凍てつくような寒さの中、自転車を漕いで職場にやってきた。
もうすでに何人かが作業を始めていた。暖房と人の熱気で、窓ガラスが曇っている。この内外の温度差も辛い。腕をまくって仕分けをすると思えば、配達のときは、厚手の防寒ジャンパーを着なければならない。
職場は、夜勤で一晩中仕分け作業をしている者もおり、殺伐とした空気が漂っている中、無駄な朝礼が始まる。上司がイライラしながら、年賀状がまだ大量に売れ残っている、と説教をする。みんなよく堪えていると思う。よくこれで暴動が起こらないものだと感心するが、正直逆らう気力もはぎ取られてしまっているのが現状だ。
さて、今日は昼飯にありつくことぐらいはできるだろうか……。
《承》
散々勤務したのに、それでも帰宅時にはうしろ髪を引かれる思いで職場を出る。家に着いたのは午後十一時だった。
息が白くなるような寒い部屋。暖房を付け腰を降ろす。目の前にあるテレビは何のために置いてあるのか……、ここ数週間電源を入れた覚えさえもない。
台所を見ると、たまった洗い物が山をつくっているが、片付ける気も起きない。
コンビニで買ってきた弁当を流し込みため息をつく。早く布団に包まれたいが、シャワーを浴びなければ……。そう思っているうちに寝落ちしてしまった。
深夜に一度目を覚ましたが、もうシャワーを浴びる気力もなく、そのまま布団にくるまった。
午前六時半、また、起床ベルが鳴った。
上半身を起こし、頭を抱える。
「あぁ、もうイヤだ……」
こぼす言葉には力がない。服を着替える必要もなかった。そのまま寝落ちしてしまっていたからだ。
《転》
大介は、一日の業務を片付け、夕方五時、遅配分を取りに行くためいったん局に戻る。そして、同僚とともに、住所を頼りに未配達分の仕分けを始める。
自分の業務外の仕事だが、協力してやらなければ、捌ききれない。お互い様だ。時計を見ると、午後六時になる直前だった。
何時に帰れることやら……
大介が、半ばふて腐れていると、突然、視界が真っ暗になった。停電というレベルの暗さではない。本当の闇の中だ。
それに驚いたのは自分だけ? 周りからは一切の声さえ聞こえない。無音だ。
心地よい風が顔に当たり始めた。
俺は横たわっている? 体が液体に浸かっている……。
それが分かると、急に息が苦しく感じた。ノドに差し込まれているホースを抜き出し、嗚咽を吐いた。
「ゲホ、ゲホ」
声を出すと、反響した。真っ暗なままだ。
そうだ。思い出した……四年経ったんだ。終わったんだ……。
《結》
大阪での万博を終え数年もすると、日本の社会はスピードを上げて格差を広げた。無駄な税金の垂れ流しが庶民を苦しめた証拠だ。
貧困層が国民の八割以上を占め、もはや国という呈を為していなかった。犯罪は増加の一途をたどる。
犯罪の中でも、生きていくためにしょうがなく窃盗や万引きをするものを生活犯罪と呼ぶようにもなった。もはや、国民の中から生活犯罪者ではない者を探すことが困難なほど、人々の生活は切迫していた。
二〇四〇年代、犯罪者は増えるが、施設や刑務官は足りないままであった。しかも、刑務官の立場でありながら、生きていくために生活犯罪を犯す者さえもいた。
そこで、政府は軽犯罪を犯した者には、懲役刑ではなく、VRによる体験刑を与えることにした。
人々は、それを通称『平成ボックス』と呼んだ。
これは『アイソレーション・タンク』という一人用のカプセルに人間と同じ比重の溶液を満たすことで、体が浮いた状態にする。さらに聴覚と視覚を遮ることで、囚人を外部から隔離する。あらゆる接触を断ち切った無の状態にするものである。
そして、囚人の意識にVR装置からの映像を流し込み、懲役に変わる刑を体験させるのだ。
タンクはカプセルホテルのように並べておけばいい。刑務官も目を尖らせて、次から次へ送られてくる囚人を監視する必要もない。これで施設の問題も、監視する刑務官の人数もカバーすることができた。
さらに、冬眠状態にしておくことで、栄養分を体内に流し込むだけで、食事の制限もできた。
しかし、この制度は、囚人に対して、あくまでも更正のチャンスを与えるための刑であるので、そのVRの内容は、懲役刑に変わるものでなくてはならない。ただの残虐なもの、刺激の強いものなど、悪趣味なものではいけないのだ。根底にはあくまでも更正がある。
そこで、採用されたのが二〇一〇年代の日本の職場であった。ブラック企業、社畜などという言葉が溢れ、日本が没落し始めるきっかけとなったころの社会である。
郵便局、銀行、配送会社、運送会社、不動産会社、教育現場など、枚挙に暇がない。囚人がどのVRを体験できるかは、分からない。それはランダムに与えられるので、希望の職種とは限らない。
生活犯罪を犯した今埜大介も『平成ボックス』に収監され、その中で郵便局員を体験した。四年間の《務め》を終え、今日が出所する日だ。
大介が思わずこぼす。
「二〇一〇年代の日本って……」
もう間もなく娑婆の空気が吸えるのだが、心は冴えない……。
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