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第一話 私のコト忘れないでいてくれますか?

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 第一話 私のコト忘れないでいてくれますか?

 ボクはホームのベンチに座っている。
 ガヤガヤと意味のない雑踏音に包まれて……。
 それはまるで深海に居るような感覚。
 まるで世界と自分の間を厚い海水が隔てているような意識。
 彼女が亡くなってから、ずっと自分の部屋でふさぎ込んでいた。。
 だから、動いているモノを見たのは久しぶりだ。
 駅を行き交う人々を見つめてみる。
 人影は、あたかもそれが当然かの様に忙しそうに動いていた。
 こんな時間帯のせいだからだろう。
 ベンチにぼーっと座っているのはボクだけだった。

 『どこか現実感のない風景』

 それはまるで無音の映画を観ているようだった。
 世界を俯瞰で見つめる傍観者。
 行き交う人々の中には、訝しげにボクを睨みつける者もいた。
 (お前は何故、働かないのか?)
 そんな憎悪にも似た悪意がヒシヒシと伝わって来た。
 多分、ボクの周りの時間軸だけが他と違う理で流れているのだろう。
 そんなボクは、周りから見たら随分と異質な存在に見えるに違いない。

「ふっ」

 ボクはそんな事を考えた刹那、可笑しくなった。
 (考え過ぎだっ)
 ボクなんかに気を止める奴なんて、この世に居やしない。
 美月が死んで、ボクはまた世界に存在しない透明人間に戻っただけだ。
 きっと今のボクの姿なんて誰にも見えて居ないのだろう。
 夜空を見上げなければ、そこに月がある事に気がつかない様に。
 誰も意識しなければ、ボクの存在は無いに等しい。
 (もしかしたら、これも夢の中の出来事で現実じゃないのでは?)
 そんな不安を感じて手にしたスマホを握りしめる。
 何度も読み返したせいで少し水分を含んだ蒼色の画面。
 じっとりと汗を含んだ文章。
 そこには唯一、ボクを世界と結び付けている言葉があった。

 ふぅ~、

 大きく息を吸い込んでから、ボクは再び美月の言葉を読み返した。
 何度このメールを読み返したのだろう。
 その瞬間、駅のホームの埃っぽい匂いが鼻を抜ける。
 その嗅覚が、辛うじてこれが夢ではなく現実だと認識できた。
 
――結希。
  これを読んでいるという事は、きっと私はもう死んでいるのですね。
  付き合い始めた頃、病気のコト秘密にしていてごめんなさい。
  でもそれは結希のせいでもあるんですよ。
  あの頃は、死というモノに押しつぶされて自暴自棄になっていました。
  全てを諦めた私を我がままにしてしまったのは貴方です。
  結希と出会い、会っている時間だけは全てのコトを忘れられました。
  だからちょっとだけ、あとほんの少しだけって……。
  罪悪感を覚えながらも黙って側に居続けました。
  ごめんなさい。
  でも結希と居られた時間は幸せでした。
  トゲトゲしい私の心が穏やかになって、優しい気持ちになれました。
  ありがとう。
  自分の病気のコトを黙っていたのは重いって思われるかもって。
  嫌われたくなかったのです。
  結局デート中に体調が悪くなって病気のコト、バレちゃったけど……。
  入院後は休日の度にお見舞いに来てくれましたね。
  ありがとう。
  仕事で疲れているのにごめんなさい。
  いつも寝ている私の手を握っていてくれてありがとう。
  とっても嬉しかったです。
  でも私は結希へ謝らなければいけないコトがあります。
  実は私には病気以外に、もう一つ結希へ隠していた事があります。
  
 「私のコト忘れないでいてくれますか?」
  
  一度だけ私がそう言った時の事、覚えていますか?

  いつもお見舞いに来てくれる度に私が死んだらって話しましたね。
  すると、いつも少し困り顔で黙って強く私の手を握ってくれました。
  私のコトは忘れて他に素敵な人を見つけて幸せになってって言う度に
  そんなコト言うなって結希は怒ったけど……ホントは嬉しかったんだ。
  でも私を忘れて幸せになって欲しいって気持ちはホントです。
  ……でも……もし……私が死んで……
  一週間たっても私の存在が残っていたら……。

  草江駅 十二時 上りホームの一番奥のベンチ――

 手紙は突然、そこで終わっていた。
 ここまでで終わりなのか?
 まだ書きかけなのか?
 誰かが続きを何らかの方法で削除したのか?
 ボクには分からない。
 だけど確かなコトが一つある。
 美月が亡くなってから今日まで
 一瞬たりとも美月のコトを忘れた事などなかったコト。
 彼女はボクのモノクロ世界に色をくれた人だから……。
 美月がこの世界から消えたと知った瞬間、再びボクの世界は色を失った。
 何もかもが、どうでもよくなった。
 契約していた仕事も全てキャンセルした。
 部屋に引きこもり、ロクに食べる物も食べず死んだように眠り続けた。
 次第にあらゆる五感の感覚が失しなわれて行った。
 このまま死んでもいいとさえ思った。
 それでもあの部屋から出たのは美月のメールが気になったから。
 この文章で彼女は秘密を持っていたと告白している。
 ボクにはそれが何のコトなのかさっぱり見当がつかない。
 思えばボクは美月のプライベートなコトを何も知らなかった。
 街で偶然に出会って連絡先を交換して……入院先の病室へ通って……。
 いつもの様に見舞いに行ったらもうベットには美月の姿はなかった。
 故人の遺志なのか、別の力が働いていたのか葬式には参列出来なかった。
 彼女の見ている前で他の女を抱く。
 あんなコトをしたボクを美月は許せなかったのかもしれない。
 ボクを全裸で誘惑した『あの女』の名前が香澄だと知ったのは葬儀の時。
 小桜財閥の秘書らしい。

 「帰りなさいっ、
  ここは貴方のような人間が参加できる場所ではないわ」

 その女は、そう恫喝しボクに自分の名刺を押しつけた。
 睨みつけるボクに目線で渡した名刺を指さした。

 『美月は殺された。
  これ以上関われば、貴方の命も危険。
  だから彼女との関係を誰にも話すな。
  そして誰も信じるな』
 
 そう名刺には殴り書きされていた。
 葬儀場から追い出された後日、ボクは財閥について調べてみた。
 関東の有名テーマバーク周辺の鉄道運営で財をなしている財閥らしい。
 ボクの仕事が駅ピアノの調律だから、案外近くに居たのかもしれない。
 駅財閥のお嬢様と駅ピアノの調律師。
 同じエリアに住んでいても天と地程の格差があった。
 そんなコトはどうでもいいけど……。
 葬儀が行われている以上、美月が亡くなったのは間違いない。
 それが病死か他殺かは別として……。
 だからこのメールはきっと時間指定メールなのだろう。
 小桜財閥の秘書 香澄の言葉を借りるとするならば……。
 彼女は何者かに殺された。
 身の危険を感じた美月は予めボクへの遺言を用意していた。
 もしかしたら毎日、送信指定日時を伸ばしていたのかもしれない。
 だとしたら最後の場所指定にはどんな意味があるのだろうか?

 ピロロン パロロン

 突然の音楽にボクの意識が現実世界へ引き戻される。
 軽快な電子音と共に向かいの路線に電車が滑り込むように入って来た。
 
 プシュー

 空気音と共にドアが開き大量の人込みが流れて行く。
 人波をぼんやりと眺めていると突然にソレは視界に飛び込んで来た。
 (……っ、美月?)
 ボクは思わずベンチから跳ね上がった。
 急激に血流が流れ、ドキドキと鼓動が高鳴り、体が熱くなるのを感じる。
 軽快な電車発車の音楽が響き渡る中、頭のモヤモヤが急速に晴れて行く。
 そこには紛れもなく、亡くなった筈の美月の姿があった。
 紺のフレアスカートにデニムのシャツ。
 白のバケットハット。 
 彼女が涼し気な表情でこちらを見つめていた。


「美月っ」

 ボクは必死に叫んで手を振る。
 だけど、その声は雑踏音にかき消されて向こうのホームまでは届かない。
 (くそっ)
 その瞬間、ボクは思わず走り出した。
 ガシガシと体が逆流にぶつかる。
 構わず階段を飛び降りる。
 そして踵を返し上りの階段を二段飛ばしで駆け上がる。

「はぁ、はぁ、美月は?」

 逆流に流されながらも必死に掻き分けてキョロキョロと辺りを探す。
 やがて激流が通り過ぎてホームもまばらになって来た。
 だが、もうそこには彼女の姿はなかった。
 (生きていたっ、美月は生きていた。)
 どっと涙が込み上げる。
 さっき見た風景が願望による幻でなければ間違いなくアレは美月だった。
 そう思った瞬間、ボクのモノクロ世界にコンテナブルーの光が射した。

 ピロロン パロロン
 ピィー プシュー

 ハッとしてその音に振り返る。
 見ると先程まで座っていたホームから電車がガタゴトと動き出していた。
 急に肌に纏わりつくような暑さを感じた。
 どこか息苦しさとギラギラした強い日差しを感じる。
 そしてボクの中で、匂いと共に五感が騒めき始めた。
 遠ざかる電車の駆動音に混じり、ガラガラと運命の音が聞こえる。
 ボクが死んだハズの美月を探し始めたのは、そんな春の日のコトだった。

   *

 草江駅 十二時 上りホームの一番奥のベンチ

 ボクは今日もこのホームのベンチに座っていた。
 以前と違い、もうベンチに座っていても深海に沈んでいる感覚はない。
 (もう一度、小桜 美月に会いたい。)
 その衝動だけがボクを突き動かしていた。
 亡くなった筈の美月を見つけて一週間。
 毎日この駅へ通っているが、未だに美月の姿を見つけられないでいる。
 時間帯を変えてもダメ。
 改札口で待ち構えた事もある。
 何の成果も出せないまま無意味に時間だけが過ぎて行った。
 こうも出会えないとあの時の美月が幻だったのかとさえ思えてくる。
 イマジナリーフレンド。
 この世界にはそんな存在があるらしい。
 主に幼少期に見られる現象。
 実際には存在しない想像上の友達が現れるらしい。
 (あの時の美月の姿はボクの妄想の産物なのか?)
 そんな事も考えた。
 亡くなった人間が街を歩いている筈がない。
 頭では理解していた。
 でも彼女との思い出が、息づかいが、温もりが……
 あの時見かけた彼女の存在を確かなモノだと言っていた。
 それに美月の残したあの言葉。

 ……でも……もし……
 私が死んで一週間たっても私の存在が残っていたら……。
 草江駅 十二時 上りホームの一番奥のベンチ

 美月が生前にわざわざ指定した場所と時刻で彼女は現れた。
 想像上の幻はそんな事をしやしない。
 それに確かにメールはボクの手に実際に存在する物質としてここにある。
 それは紛れもなく美月がこの世に存在した証拠。
 ボクへの何らかのメッセージだった。
 自分を勇気づける様に手にしたスマホを握りしめ、その感触を確かめた。

 相変わらず駅のホームでは忙しそうに人々が騒めいている。
 ガヤガヤと意味のない雑踏音。
 埃まみれな匂い。
 握りしめたスマホの感触。
 失いそうになった五感が徐々に再び戻ってくる。
 仕事で何度もこの駅には来ていた。
 でもホームのベンチに座った事は今まで一度も無かった。
 そう、思えば、彼女との出会いもこの駅だった。

 ボクは音大の調律科を経てフリーの調律師をしている。
 子供の頃は神童などと煽てられ、コンクールを総なめにしたりした。
 いよいよ将来が約束されかけた時にあの事件が起こった。
 よりによって『あのコンクール』へエントリーされたのだ。
 それは恩師の推薦枠でのエントリーだった。
 ボクは、それを断った。
 著名な恩師の推薦を断る。
 それはこの世界からの追放を意味していた。
 それからボクは大好きだったピアノを捨てた。
 それが今では、奇妙な縁と大学の先輩の紹介もあって……
 駅ピアノの管理会社『リグラージュ』と調律契約を結んでいた。
 調律料金は1件につき一万三千円。
 不定期な日銭を稼ぐ日雇い暮らしだ。

 再びピアノに興味を持ったのは、高校三年生の時だった。
 偶然立ち寄った商業施設のホール。
 そこのストリートピアノで元自衛官がある曲を弾いていた。
 その音色は悲し気で、切なげで……情熱的で祈りの様でもあった。
 ボクはその調べに何故か自然と涙が溢れてきたのを覚えている。
 譜面通りに弾く事しか許されなかった過去にドカンと風穴を開けた。 
 言葉以上に伝わるモノ……。
 (いつか自分も他人の魂を揺さぶれるような存在になりたい。)
 翌日から、またピアノを始めた。
 でもその事に気がつくのが遅すぎた。
 気がつけばもう十七歳……歳をとり過ぎていた。
 遅いスタートのボクが今更ピアニストになれる筈もなく……。
 必死に努力して音大に入学するもフリーの調律師になるのが精一杯。
 ただ何故か耳だけは生まれながらに良いらしい。
 『絶対音感』
 教授から称賛されたのはその一点だけ。
 だけど耳が良い学生なんて音大には幾らでも居た。
 唯一演奏できる曲は一曲のみ。
 あの時に感銘をうけた元自衛官が弾いていたアノ曲。
 『戦場のメリー・クリスマス』
 それだけをひたすら研ぎ澄まして何度も弾いた。
 調律後に必ず魂を賭けて一曲それを弾く。
 いつしかそれがボクの儀式になっていた。
 だが月日が過ぎるにつれてその魂も擦り切れて……
 ボクの世界の色は褪せて行った。

 『途方もない程の孤独感』

 もがけばもがく程に五感が周囲に溶けだし失われて行く気がした。
 一度そうなると手に負えない。
 何もかもが嫌になり、全てを肯定出来なくなった。
 そう、自分の存在自身ですら……。
 意味もない不安と苛立ち。
 世界を呪う日々が続いた。
 
 そんなある雨の日、傘を忘れて駅で雨宿りをしていた事があった。
 その日は仕事でトラブルが続き、気が滅入った挙句の突然の雨。
 世界の全てがボクに牙を剥いてゲラゲラと嘲笑っている。
 そんな気がした一日だった。

「くそっ、雨かよ最悪だ。
 空よ早く止んでくれっ、泣きたいのはこっちだよ。」

 恨めしそうに両手を広げて天を仰ぐ。
 雨雲へ独り叫んでいると隣からクス、クスと笑い声が聞こえた。
 ぎょっとして視線を向けると見知らぬ女性が口に手を当てて笑っている。
 誰も居ないと思っていたボクは恥ずかしくなって思わず下を向いた。
(うぉ、誰か居たのかよ。
 見られた? 最悪だよ。)

 バサッ

 勢いよく傘が開く音が聞こえた。
 音に釣られて振り向くと女性はボクに微笑みながら傘を差し出していた。
 見知らぬ女性の突然の行為。
 面食らっていると再び、クスクス笑いながらこう言った。

「何があったか知りませんが、凄い悲嘆ぶりですね。
 いくら空を恨んでも止みませんよ。
  でもキミが思っている程、世の中は悪意ばかりでもないんです。
 私は雨に濡れたくない時は、今日は濡れなさいって自分に命令するの。
 ずぶ濡れに雨に打たれれば命令通りで成功。
 逆にたまたま雨が止めば、元の心配は解決したのだから、やっぱり成功。
  ねっ、雨も悪くないでしょ?
 はいっ、
 でも今日は、この傘をどうぞ。」

 キャッ バシャバシャ

 そう笑い彼女は名前も言わずにボクに傘を押しつけた。
 そしてカバンを傘代わりに雨の中へ走り出して行った。

 (……っ)

 突然の出来事に思考がついて行かずに立ち尽くす。
 やっとその行為の意味に気がついた瞬間。
 ボクの最悪な一日は少しだけ気分の良い一日に変化した。

(世の中には親切な人がいるものだ。)

 その女性の奇妙な持論に首を傾げながらも何となく心が安らいだ。
 もし彼女の様に、自分に孤独で居なさいと命令したら……
 どんな気持ちで過ごせるのだろうか?
 都会へ出てきて初めて人の優しさに触れた気がした。
 そして御礼の一言も言えなかった自分の無礼を後悔した。
 都会の女性と田舎出身のボクではこうも心のゆとりが違うのか?
 その日から暫くの間、傘を返そうと晴れの日も傘を持ち歩いた。
 だが結局その女性と再び出会う事はなかった。

 月も変わり、諦めて傘も持ち歩かなくなったある頃……。
 その再会は突然にやって来た。
 行きつけのカフェのカウンターでいつものようにコーヒーを注文する。

「すみません。カプチーノを一つ。」
「すみません。カプチーノを一つ。」

 同時に同じ注文。
 思わず隣を見ると向こうもこちらを振り向き瞳が合った。

(えっ!)

 それは、まさに以前、雨の日に傘を貸して走り去った女性だった。
 奇跡的な偶然の出会い。
 ボクはお礼をしたいからと強引に二人分の会計をした。
 そして自然とそのまま二人で話し込む。
 すっかりと打ち解けたボク達は雨の日の叫びの話題になった。

「でも可笑しかったな。
 だってあの日、結希さんたら両手を広げて独り叫んでるんだもん。
 なんか おぉぉ、ジーザスって感じで♪」

「言わないでよ、美月さん。
 ホントにあの日はトラブル続きで暗黒面に取り込まれていたんだって。」

 茶化されたボクは少し恥ずかしかった。
 (でも、どこか楽しい。)
 調子に乗ってあの雨の日にどれだけ不幸が続いたのか自虐的に話した。
 彼女はウンウンと何度も頷いてボクの話を熱心に聴いてくれた。
 時には笑い、時には突然泣き出したりもした。

「何で美月さんが泣くんだよ。
 辛かったはボクだぜ。」

 ボクが笑いながらツッコむと美月は手で涙を拭って言った。

「だって悔しいんだもん。
 結希さんっ、頑張ったんだね。」

 その言葉に何だか今までの我慢が救われた気がした。
 それがきっかけでボク達は連絡先を交換し付き合い始めた。

 『知り合いでもなく名乗りもしない女性』から『小桜 美月』へ

 そんな彼女と距離が縮むのに時間はかからなかった。
 待ち合わせは決まって駅ピアノ。
 ボクの調律の仕事をいつも彼女は少し離れた距離で楽し気に眺めている。
 調律が終わるとボクは決まって告白の代わりにアノ曲を祈る様に弾いた。

 ボーン、ボーン、ボーン

 レクイエムの様に必ず三回、低い音を鳴らす。
 それから、ゆっくりと祈りを込めてピアニシモで奏ていく。
 (魔法の時間が終わらないように……)

 ボクの気持ちが彼女に伝わったのかどうかは分からない。
 でも、彼女は決まってウンウンと二度頷いた。
 そして演奏が終わると幸せそうな表情を浮かべている。
 
「結希のその曲、大好きっ。
 聴いているとなんか優しい気持ちになれて嬉しい。」

 演奏が終わると決まって彼女はそう言ってボクの腕に抱きついた。
 (どうして美月は、こんなボクに好意を持ってくれるのだろう。)
 全く自分に自信のないボクは不思議でならなかった。

 ボクは身長が高く、黒髪短髪。
 細身で美形。
 自分で言うのも何だが、昔から女性にはかなりモテて来た。
 愛用の黒縁メガネが実際よりも知的に魅せていたのかもしれない。
 まぁ、音楽には演奏者を二割増しで魅力的に見せる魔力がある。
 美月と居るとそれまでのどうしようもない孤独感を忘れられた。
 でもそれは同時に失う事の怖さでもあった。 
 (深入りすると戻れなくなる。)
 そんな無意識の警告を暗示するかのようにそれは突然にやって来た。
 
 美月が倒れたのである。

 ゼェゼェと息苦しそうにする彼女。
 半ばパニック状態で、救急車を呼ぼうと慌てるボクを彼女は止めた。
 
「いつもの発作っ、
 大丈夫だから……。」

 そう言って微笑むとここへ連絡するようにと番号を告げた。
 小桜財閥の秘書 香澄と会ったのはこの時が最初だった。
 まあ、その時は美月が財閥令嬢で……
 『あの女』が秘書だとは知らなかったけど。
 香澄は連絡を受け駆けつけると手際よく美月を病室へ運んだ。
 訊けば美月はボクに会う為に勝手に病室を抜け出していたのだという。
 専用通用口からの特別個室。
 専属の看護師に豪華な設備。
 田舎者のボクでも美月の家が裕福で特別な存在だという事に気がついた。
 (彼女はどこかのお姫様なのでは?)
 そんな疑問が頭を過った。
 でも、触れられたくなさそうな美月の表情を見て訊ねるのをやめた。
 (ボクにとっては美月は美月だ。)
 他はどうでもよかった。
 (いやっ、違う。)
 本当は彼女の素性を知ったら魔法が解けて……
 そして二度と会えなくなる気がして怖かったのだ。
 それからはもう美月が病室をこっそりと抜け出す事は無くなった。
 目に見えて美月の病状が悪化したのだ。
 どんどん痩せて行き、ぼんやりとする事が多くなった。
 
「また結希のピアノ聴きたいな。」

 見舞いに行く度に、美月は懐かしそうにそればかり言うようになった。

「大丈夫。
 直ぐに良くなって、また聴けるさ。」

 その時ボクは、初めて美月に嘘をついた。

 ボクは洗い立てのシーツの香りが好きだ。
 シーツの上へ手を滑らせて彼女の肌に触れる。
 なめらかな肌がそっとやさしくボクを撫で返す。
 そんな感触をぼんやりと楽しんでいると突然に声をかけられた。
 驚いて見上げる。
 気がつくと目の前で眠っていた筈の彼女が嬉しそうに微笑んでいた。

「私のコト忘れないでいてくれますか?」

 いつも笑顔で元気な美月が、たった一度だけ。
 不安げに涙を浮かべて言った言葉。
 それは今まで一度も見た事がない悲しそうな瞳だった。
 そう言って彼女は突然に姿を消した。
 ザァーと言う雨音に気づき彼女越しに窓を見る。
 少しだけカーテンの開いた外では雨雲がぐんぐんと空を流れていた。

 突然に姿を消した彼女を探す事、数週間。
 ボクは万策尽きていた。
 (小桜 美月にもう一度会いたい。)
 その思いだけが今のボクを突き動かしている。
 少しでも手掛かりが欲しくて入院していた病室を久しぶりに訪ねてみた。

 ガチャ ガチャ

 (……っ、これは一体どうゆう事だっ?)
 何故か専用通用口が施錠されている。
 通路には明かりが無く、人の気配が全くしなかった。
 (定休日? まさかっ、
  病院に定休日等ある筈がない。
  落ち着けっ)
 自分の浅はかさに思わず苦笑する。
 この所、疲れで少し思考が変になっているに違いない。
 仕方がなく表に廻ってみるが、そこに病院の姿はなかった。
 (……)
 取り敢えず側に居た人に訊いてみる。

「あのすみません。
 ここにあった病院の事でお尋ねしたいのですが。」

「えっ、病院?
 この辺りには病院なんてありませんよ。」

 (……っ)
 訳が分からず辺りの人達に訊きまくる。

「あのすみません。
 ここにあった病院の事でお尋ねしたいのですが。」

「病院?
 あんた何言ってるんだい。
 ここに病院なんてないよ。
 ここはずっと空きオフィスだよ。」

「えっ、そんな筈はない。
 ここに病院ありましたよね?」

 思わずボクは声を荒げた。

「誰かっ、ここにあった病院の事っ、知りませんか?」

「ちゅっと、あなた何ですか?」

 今にも掴みかかりそうなボクの手を訝しげに振り払う。
(そんなっ、馬鹿な)
 不思議な事に誰に訊いても病院なんて無いという。
 あれだけ通った美月の病室。
 あれだけの医療設備が整っているのに病院が存在しないなんて……。

 ボクはどうしても確かめたくて……
 キョロキョロと辺りを見回すと勝手に敷地へ飛び込んだ。
 ぐるっと回り込み美月の病室があった辺りを探す。
 やっと病室へ辿り着いたが窓は全て閉まっていた。
 必死に両手をかざして窓越しに中を盗み見る。

 殺風景な何もない部屋。

 そこはもぬけの殻だった。
 どうしても納得が出来ない。
 市役所で土地台帳を調べ土地の所有者を訊ねてみたりもした。
 だけど病院など知らないの一言で門前払い。
 結局、手掛かりは何も掴めなかった。
 
「そんな馬鹿なっ、
 そうだっ、香澄さん。」

 ボクは香澄さんの連絡先のメモを貰った事を思い出し電話をしてみる。
 
 プルルルル プルルルル

 (頼むっ、出てくれ。)

 プルルルル プルルルル プルルルル

 永遠に呼び出し音が続く。
 ボクの心が絶望で潰されそうになった頃にその声は聞こえた。

「……もしもし?」

 明らかに警戒気なその声にボクは慌てて取り繕う。

「あっ、あの突然すみませんっ、
 以前に美月が倒れた時にお世話になった結希です。
 ボクの事、覚えてますか?
 美月に何かあったらと以前、香澄さんから連絡先を貰って……」

「……美月?
 誰ですか?
 結希さん?
 知りません。
 誰かとお間違えでは?」

 ブツッ

(えっ……)
 そう言って電話は切れた。
 
 何だか頭がおかしくなりそうだ。
 どこに行っても、誰に訊いても病院など存在しないと言う。
 それどころか美月の姿を見たという人間が一人もいないのだ。
 駅ピアノ前の通りすがりの人達に訊ねても知らない。
 一緒に行ったカフェの店員に訊いても覚えていないと言う。
 これだけの人達に存在しないと言われると自分の記憶が揺らいでくる。
 ボクは存在しない妄想の女性と恋に落ちていたのだろうか?
 (いやっ、違う)
 それでは、このドキドキの理由がつかない。
 ボクは締め付けられそうな胸を握りしめた。
 ほのかに温かい感触が確かに美月がこの世に存在した事を証明していた。
 この体温を感じる五感だけが、記憶が現実だと認識させる。
 今となっては、温もりだけがボクと世界を繋ぎとめる唯一のモノだった。
 
 『あの女』香澄から電話で呼び出されたのは翌日だった。

 彼女が突然倒れるまで、財閥のお嬢様だと言う事は知らなかった。
 突然、病室から姿を消した彼女を探して、探して、やっと見つけた屋敷。
 応接間で現れた『あの女』は突然全裸になると言った。

 「あの娘に会いたかったら、ここで私を抱きなさいっ」

 「……っ」

 ボクは、その女を抱いた。
 乱暴に全裸の女をカーペットの上へ押し倒して
 あらゆる不安をかき消すかのように夢中で抱いた。
 彼女に見られているとも知らないで……。

 彼女の部屋に通された時……
 久しぶりに会った彼女は口元に手を当てて微かに震えていた。
 ベット脇のモニターには応接間が映し出されていた。

 「どうして?」

 そう小さな声で呟いた。

 それっきり彼女とは会っていない。
 彼女が死んだと聞いたのは、その一か月後のコトだった。
 それからの事はあまり覚えていない。

 失意の中で突然届いた彼女からのメール。
 指定された駅で一度だけ見かけた死んだハズの彼女の姿。
 それっきり彼女の姿を見かけるコトはなかった。
 再びボクの世界は色を失い。
 抜け殻の様に、ただ街中を彷徨う日々が続いた。


   *


 ファ、ファ、ザワザワ

 一か月後、失意のボクは街で見知らぬ男性に声をかけられた。

 「あのっ、結希さんですか?」

 自分の名前を久しぶりに聞く。
 突然の声かけに驚いて振り向くと、そこには見知らぬ青年が立っていた。

 「はぁ、はぁ、
  やっと出会えた。」

 そう言うと青年は膝に手をついて息を切らした。
(……誰だ?)
 不審顔に気がついたのか、青年は立ち上がると慌てて帽子を取った。

 「すみません。
  俺、涼介と言います。」

 「……っ。」

 その顔立を見た瞬間、ボクは絶句した。
 病気で亡くなった彼女、美月にそっくりだった。
 心の片隅に押し込んでいた彼女との思い出に涙が溢れ出そうになる。

 「結希さん?
  すみません。俺、何か失礼なコトしましたか?」

 そう言って涼介が不安気に髪をかき上げた。
 その話し方も髪をかき上げる仕草も全てが彼女を思い起こさせた。

 「いや、すみません知り合いに似ていたもので……。
  どちら様ですか?
  どうしてボクの名前を?」

 涙と動揺を隠すようにそう言うと涼介は少し悲しそうな表情を浮かべた。
 そして少しだけ切ない表情を浮かべた後で瞳に決意が宿った。

 「結希さんっ、俺の全てになって下さい。
  結希さんの心を埋める為なら俺っ、
  何でもしますから……」

 そう言って涼介は深々と頭を下げた。

 (……っ、なんだコイツ。
  ボクをからかってんのか?)

 ボクは大切な美月との思い出を汚された気がして何だが腹が立った。

 「悪戯なら他でやってくれ。
  悪いがボクは今、そんなお遊びに構ってる気分じゃないんだ。」

 そう言って無言で立ち去るボクに、涼介は背中越しに声をかけた。

 「小桜 美月の秘密、知りたくないですか?」

 「何っ?」

 思わぬ言葉に思わず振り返る。
 その冷たい視線は先程の好青年とはまるで別人だった。
 涼介のその表情は冷たく、そして挑戦的だった。

 「小桜 美月の秘密、知りたくないですか?」

 涼介はもう一度、真っすぐにボクの瞳を見つめてそう言った。

 ドクンッ

 まるでその言葉が合図の様だった。
 何も感じられなくなっていたボクの五感が再び目覚めはじめた。
 ドクドクと心臓が高鳴る。
 全身にまた血が通い始め、運命が騒がしく音を立て始めた。

 『小桜 美月の秘密、知りたくないですか?』

 これがボクと涼介との初めての出会い。
 そして彼との秘密の関係へ堕ちていく始まりだった。 
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