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ラッキーデーが齎したもの

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「沙羅。変な想像はしないでね。ほら、見て?」

 証拠に真っ白いガーゼに包まれた耳を見せた。傷口は縫うほどまではなかったけれど、思っていたよりひどかった。それにまだ痛みは完全には消えていなくて、思い出したように時々痛む。当分病院通いだし。

「ホントね。痛々しい」

 沙羅が心配そうにわたしの耳を覗き込んだ。
 あの後、わたしも医務室に行ったんだけど、通路を見てびっくりした。床って白っぽいから汚れって目立つんだよね。所々血がついていたってことは、言わない方が賢明だよね。髪が血を吸って滴って走ってきた勢いで、服にも通路にも飛び散ったというのが真相なんだろうけど、もしかして、これも噂の要因の一つだったりして。
 今、思い返しても最悪の一日だよね。憂鬱になってきた。また落ち込みそう。

「とにかくわかったから、元気出して?」

 わたしの大仰なため息を聞いて肩を抱いて慰めてくれた。彼女の優しい笑顔は癒しよね。怪我が落ち着いたら飲みに誘おうかな。


「きゃー」

 突然、どこからか女子社員の黄色い悲鳴が聞こえた。

「御曹司のお出まし?」

 沙羅が声に素早く反応した。立ち上がると通路へと小走りに走っていく。
 はやっ。わたしも呆れながら彼女の後に続いた。

 通路側は吹き抜けになっていて階下の様子がよくわかる。
 見ると、例の御曹司が外回りから帰ってきたのか、ロビーへと姿を現したところだった。立ち止まって男性社員達と話をしているみたいだった。

「かっこいいわね」

 沙羅は手すりからのりださんばかりに見惚れてうっとりとしている。

「そう?」

「そうよ。あの、クールな感じがいいのよね。何にも動じませんって、ポーカーフェイスがたまらないのよ」

 だめだわ。沙羅の目がハートマークになってる。沙羅って御曹司が好きなのよね。
 あんな無表情の男より、喜怒哀楽がはっきりしている人の方がいいけどね。
 わたしは未だ興奮の冷めやらぬ下を眺めた。その時、話が終わったのか男性社員が彼から離れていった。それから何を思ったのか御曹司が通路の方を見上げた。ジッと、見つめた視線の先は……

 えっ! 目が合った? まさかね。ここは五階で、距離もあるし。まさかね。顔だってはっきりわかるわけじゃないし。それはそこ何秒か、御曹司はエレベーターへと消えた。

「ねえ。今こっちを見なかった?」

 沙羅が喜々とした表情でわたしを揺さぶった。その言葉にああ、やっぱりこっちを見たんだ。勘違いではなかったのかもしれない。だからといって、沙羅もいるし、わたしを見たわけでもないだろうし……自意識過剰だよね。

「さあ? わたしには分からなかったけど」

「そう。こっちを見たんだと思ったんだけどね。わたしの勘違いか」

 残念そうに呟く沙羅。見るだけで幸せ。こっちを見てくれただけで幸せって。高嶺の花は更に高嶺の花に恋してる。

「さて、そろそろ帰らないと」

 わたしの言葉に沙羅も思い出したように時計を見た。

「わたしも、買い物を頼まれていたのよ」

「大丈夫なの?」

「余裕を持って出てきてるから、でもそれにも限界はあるものね」

 わたし達はまたねっと手を軽く上げてそれぞれ歩き出した。

「あっ、そうだ。一つ聞いてもいい?」

 沙羅が振り向いて思い出したように声をかけた。

「何?」

「誰にぶつかったの? 男性?」

 唐突に何を聞くのかと思ったら、そこ大事なところ? わたしは首を傾げたけど、

「男性だったけど、さあ? 顔はよく見なかったから、わからない」

 こういう場合、御曹司なんて言ったら、まずい気がする。

「そうなんだ」

 なぜかがっかりする沙羅。

「意味が分かんないんだけど?」

「だって、男性とぶつかってなんて、もしかしたら、恋が生まれるチャンスかもしれないじゃない?」

 わくわくと何かを期待をするような沙羅の表情。
 沙羅ってロマンチスト? あの場面で恋が生まれるなんてあるわけない。第一、わたしの好みじゃないし。それに……

「沙羅、言っとくけど。わたしには彼がいるんだからね。間違ってもそういうことにはならないし、なるつもりもないから」

 はっきりというと、そうだったって彼女が軽く舌を出した。まったく、もう。沙羅ってば何考えてるんだろ。

「じゃあね」

 わたし達は今度こそ別れた。

 やっぱり、御曹司のこと言わなくて正解だったかもね。よほどのことでもない限り、接点はないだろうから。

 高嶺の花は高嶺の花のままで。

 早く、忘れよう。

  


 










 
 

 
 



 
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