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血の味がした。
口の中を切ったのか、あるいは内臓のどこかが悲鳴を上げているのか。
四〇歳になったばかりの俺、水澄透の身体は、すでに老婆のように枯れ果てていた。
「おい、遅いぞ。いつまで待たせる気だ?」
リビングから響く鋭い声に、俺の背筋が反射的に跳ねる。
恐怖。長年の生活で刷り込まれた、パブロフの犬のような反応だった。
「す、すぐに……」
震える手でワインボトルの栓を抜く。
ここは都内の一等地にあるタワーマンションの最上階。本来なら、俺と妻の愛の巣になるはずだった場所だ。
だが今の俺に許されたスペースは、キッチンの隅にある一畳ほどの家事室のみ。
広いリビングでは、今日もまた「女子会」と称した宴が開かれていた。
重い足をひきずり、リビングへと向かう。
煌びやかなシャンデリアの下、三人の女性が優雅にソファに腰掛けている。
中央に座るのは、俺の妻である天堂真理愛(てんどうまりあ)。
モデルのように整った容姿と、人をゴミ屑のように見る冷徹な瞳を持つ女。
その隣で猫のように微笑むのは、幼馴染の小日向(こひなた)くるみ。
小さい頃から俺の世話を焼くふりをして、俺の人間関係をすべて遮断してきた元凶。
そして、学生時代からの友人である女たち。
かつては俺の容姿を褒め称えていた彼女たちも、今では俺をただの「動く財布」か「ストレス発散の道具」としか見ていない。
「……お待たせ、しました」
真理愛のグラスにワインを注ごうとした、その時だった。
数日前の暴行で痛めた脇腹に、激痛が走った。
「あ……っ」
指先から力が抜け、重厚なボトルが手から滑り落ちる。
ガシャアンッ!
硬質な音と共に、真紅の液体が真っ白な毛足の長い絨毯に広がっていった。
静寂。
世界が凍りついたような数秒の後、真理愛の低い声が響いた。
「……お前、死にたいの?」
謝罪の言葉を口にするよりも早く、強烈な衝撃が俺の顔面を襲った。
真理愛が投げつけたクリスタルの灰皿だ。
額が割れ、熱い液体が視界を塞ぐ。
「ご、ごめんなさい、ごめんなさ――」
「謝って済むなら警察はいらないのよ! この絨毯、いくらすると思ってるの!?」
倒れ込んだ俺の腹部に、真理愛のピンヒールが突き刺さる。
鋭いヒールの切っ先が肉を抉り、俺は声にならない悲鳴を上げて床を転げ回った。
「キャハハ! ちょっと真理愛、やりすぎ! ウケるんだけど!」
「透、顔ぐちゃぐちゃじゃん。あーあ、昔はイケメンだったのにねぇ」
友人たちがスマホを向け、痙攣する俺を撮影し始める。フラッシュが焚かれるたび、惨めな自分が記録されていく。
「もう、透くんってば」
ふわり、と甘い香水が鼻をくすぐった。
くるみが、倒れている俺の耳元に顔を寄せる。慈悲深い聖母のような声色だった。
「どうして真理愛ちゃんを怒らせるようなことばかりするの? 透くんがグズだから、みんな不快な思いをしてるんだよ? ねえ、反省してる?」
「は、い……反省、して……」
「口だけだよね、いつも。本当に役に立たないんだから」
くるみはそう言うと、冷めきった瞳で俺を見下ろし、持っていたワインの中身を俺の頭から浴びせかけた。
冷たい液体と、熱い血が混ざり合って首筋を伝う。
心と体の限界を、何かがプツリと超えた音がした。
ドクン、と心臓が早鐘を打つ。
次いで襲ってきたのは、胸を万力で締め上げられるような激痛だった。
「あ、が……っ!?」
胸元と喉を掻きむしり、俺は床でもがいた。空気が吸えない。視界が急速に白濁していく。
演技ではない。本当に、命が尽きようとしている。
助けてくれ。誰か、救急車を。
俺は必死に手を伸ばした。その手は、真理愛の足首に触れた。
「ひっ、汚い! 触らないでよ!」
ベシッ、と無慈悲に手を蹴り払われる。
「ねえ、様子変じゃない?」
「どうせ演技でしょ? こいつ、前も胃が痛いとか言って仕事サボろうとしたし」
「ていうか、死ぬならベランダで死んでほしいよね。ここ、掃除したばっかりなのに」
………………遠のく意識の中で、彼女たちの会話が聞こえる。
…誰一人として、俺の心配をしていない。
…誰一人として、救急車を呼ぼうとしない。
ああ、俺の人生は何だったんだ。
人に優しくあれと言われ、争いを避け、言われるがままに生きてきた。
その結果が、これか。
ゴミのように扱われ、嘲笑されながら死ぬのが、
俺の結末なのか。
薄れゆく視界の端で、彼女たちの顔が見えた。
――笑っていた。
真理愛も、くるみも、他の女たちも。
俺が苦しみ、命を散らそうとしている様を、面白い見世物でも見るかのように。あるいは、ようやく厄介払物がいなくなると安堵するように、口元を歪めて笑っていた。
…………………許さない。
後悔よりも先に、どす黒い感情が胸の奥で爆発した。
…………………許さない、許さない、許さない、許さない、許さない、許さない、許さない……!
俺はお前たちにこんなにも…!!!
お前たちは俺を食い物にし、尊厳を踏みにじり、最後には殺した。
(もしも……もしも、もう一度やり直せるなら)
俺は神に祈った。救済などいらない。欲しいのは断罪の剣だ。
(こいつらを、地獄へ突き落としてやる。俺が味わった以上の苦痛と屈辱を、必ず――)
殺意という名の執着だけを残し、俺の意識は闇へと落ちていった。
~~~~~~~~~~~~
「――い、おい深澄! 起きろ!」
頭を揺さぶられる感覚に、俺はハッと息を吸い込んだ。
激痛はない。胸の苦しみもない。
恐る恐る目を開けると、そこには古びた木造の天井と、チョークの粉が舞う教室があった。
「授業中に寝るとはいい度胸だな。顔を洗ってこい」
目の前に立っていたのは、不機嫌そうな顔をした中年男性。
見覚えがある。あれは、中学時代の担任教師だ。
「え……?」
俺は呆然と自分の手を見た。
節くれ立ち、傷だらけだったはずの手は、白く滑らかな少年のものに戻っていた。
黒板の端に書かれた日付が目に入る。
一九九九年、五月。
俺がまだ、一五歳だった頃の日付だ。
周囲を見渡す。
教室の前方の席で、背中を向けている少女。その艶やかな黒髪に見間違いようもなかった。
小日向くるみ。
そして、その隣には、まだ幼さの残る天堂真理愛の姿もあった。
心臓が大きく跳ねる。
恐怖ではない。
これは、歓喜の鼓動だ。
俺の唇が、自然と三日月のような形に歪んだ。
地獄の底から、俺は這い上がってきたのだ。
復讐を、始めるために。
口の中を切ったのか、あるいは内臓のどこかが悲鳴を上げているのか。
四〇歳になったばかりの俺、水澄透の身体は、すでに老婆のように枯れ果てていた。
「おい、遅いぞ。いつまで待たせる気だ?」
リビングから響く鋭い声に、俺の背筋が反射的に跳ねる。
恐怖。長年の生活で刷り込まれた、パブロフの犬のような反応だった。
「す、すぐに……」
震える手でワインボトルの栓を抜く。
ここは都内の一等地にあるタワーマンションの最上階。本来なら、俺と妻の愛の巣になるはずだった場所だ。
だが今の俺に許されたスペースは、キッチンの隅にある一畳ほどの家事室のみ。
広いリビングでは、今日もまた「女子会」と称した宴が開かれていた。
重い足をひきずり、リビングへと向かう。
煌びやかなシャンデリアの下、三人の女性が優雅にソファに腰掛けている。
中央に座るのは、俺の妻である天堂真理愛(てんどうまりあ)。
モデルのように整った容姿と、人をゴミ屑のように見る冷徹な瞳を持つ女。
その隣で猫のように微笑むのは、幼馴染の小日向(こひなた)くるみ。
小さい頃から俺の世話を焼くふりをして、俺の人間関係をすべて遮断してきた元凶。
そして、学生時代からの友人である女たち。
かつては俺の容姿を褒め称えていた彼女たちも、今では俺をただの「動く財布」か「ストレス発散の道具」としか見ていない。
「……お待たせ、しました」
真理愛のグラスにワインを注ごうとした、その時だった。
数日前の暴行で痛めた脇腹に、激痛が走った。
「あ……っ」
指先から力が抜け、重厚なボトルが手から滑り落ちる。
ガシャアンッ!
硬質な音と共に、真紅の液体が真っ白な毛足の長い絨毯に広がっていった。
静寂。
世界が凍りついたような数秒の後、真理愛の低い声が響いた。
「……お前、死にたいの?」
謝罪の言葉を口にするよりも早く、強烈な衝撃が俺の顔面を襲った。
真理愛が投げつけたクリスタルの灰皿だ。
額が割れ、熱い液体が視界を塞ぐ。
「ご、ごめんなさい、ごめんなさ――」
「謝って済むなら警察はいらないのよ! この絨毯、いくらすると思ってるの!?」
倒れ込んだ俺の腹部に、真理愛のピンヒールが突き刺さる。
鋭いヒールの切っ先が肉を抉り、俺は声にならない悲鳴を上げて床を転げ回った。
「キャハハ! ちょっと真理愛、やりすぎ! ウケるんだけど!」
「透、顔ぐちゃぐちゃじゃん。あーあ、昔はイケメンだったのにねぇ」
友人たちがスマホを向け、痙攣する俺を撮影し始める。フラッシュが焚かれるたび、惨めな自分が記録されていく。
「もう、透くんってば」
ふわり、と甘い香水が鼻をくすぐった。
くるみが、倒れている俺の耳元に顔を寄せる。慈悲深い聖母のような声色だった。
「どうして真理愛ちゃんを怒らせるようなことばかりするの? 透くんがグズだから、みんな不快な思いをしてるんだよ? ねえ、反省してる?」
「は、い……反省、して……」
「口だけだよね、いつも。本当に役に立たないんだから」
くるみはそう言うと、冷めきった瞳で俺を見下ろし、持っていたワインの中身を俺の頭から浴びせかけた。
冷たい液体と、熱い血が混ざり合って首筋を伝う。
心と体の限界を、何かがプツリと超えた音がした。
ドクン、と心臓が早鐘を打つ。
次いで襲ってきたのは、胸を万力で締め上げられるような激痛だった。
「あ、が……っ!?」
胸元と喉を掻きむしり、俺は床でもがいた。空気が吸えない。視界が急速に白濁していく。
演技ではない。本当に、命が尽きようとしている。
助けてくれ。誰か、救急車を。
俺は必死に手を伸ばした。その手は、真理愛の足首に触れた。
「ひっ、汚い! 触らないでよ!」
ベシッ、と無慈悲に手を蹴り払われる。
「ねえ、様子変じゃない?」
「どうせ演技でしょ? こいつ、前も胃が痛いとか言って仕事サボろうとしたし」
「ていうか、死ぬならベランダで死んでほしいよね。ここ、掃除したばっかりなのに」
………………遠のく意識の中で、彼女たちの会話が聞こえる。
…誰一人として、俺の心配をしていない。
…誰一人として、救急車を呼ぼうとしない。
ああ、俺の人生は何だったんだ。
人に優しくあれと言われ、争いを避け、言われるがままに生きてきた。
その結果が、これか。
ゴミのように扱われ、嘲笑されながら死ぬのが、
俺の結末なのか。
薄れゆく視界の端で、彼女たちの顔が見えた。
――笑っていた。
真理愛も、くるみも、他の女たちも。
俺が苦しみ、命を散らそうとしている様を、面白い見世物でも見るかのように。あるいは、ようやく厄介払物がいなくなると安堵するように、口元を歪めて笑っていた。
…………………許さない。
後悔よりも先に、どす黒い感情が胸の奥で爆発した。
…………………許さない、許さない、許さない、許さない、許さない、許さない、許さない……!
俺はお前たちにこんなにも…!!!
お前たちは俺を食い物にし、尊厳を踏みにじり、最後には殺した。
(もしも……もしも、もう一度やり直せるなら)
俺は神に祈った。救済などいらない。欲しいのは断罪の剣だ。
(こいつらを、地獄へ突き落としてやる。俺が味わった以上の苦痛と屈辱を、必ず――)
殺意という名の執着だけを残し、俺の意識は闇へと落ちていった。
~~~~~~~~~~~~
「――い、おい深澄! 起きろ!」
頭を揺さぶられる感覚に、俺はハッと息を吸い込んだ。
激痛はない。胸の苦しみもない。
恐る恐る目を開けると、そこには古びた木造の天井と、チョークの粉が舞う教室があった。
「授業中に寝るとはいい度胸だな。顔を洗ってこい」
目の前に立っていたのは、不機嫌そうな顔をした中年男性。
見覚えがある。あれは、中学時代の担任教師だ。
「え……?」
俺は呆然と自分の手を見た。
節くれ立ち、傷だらけだったはずの手は、白く滑らかな少年のものに戻っていた。
黒板の端に書かれた日付が目に入る。
一九九九年、五月。
俺がまだ、一五歳だった頃の日付だ。
周囲を見渡す。
教室の前方の席で、背中を向けている少女。その艶やかな黒髪に見間違いようもなかった。
小日向くるみ。
そして、その隣には、まだ幼さの残る天堂真理愛の姿もあった。
心臓が大きく跳ねる。
恐怖ではない。
これは、歓喜の鼓動だ。
俺の唇が、自然と三日月のような形に歪んだ。
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