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箱庭 1
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「姫さま、サーデグ殿が見えましたよ」
侍女が中庭にたたずむユェジー姫のところまで案内してくれた。ユェジー姫は中庭に絨毯を敷き、螺鈿の小卓のうえにお茶の用意をして待っていた。
涼しく過ごすために、もう錦は着ていない。襟のない長袖の麻のブラウスに、ゆったりとしたパンツを組み合わせ、胸の下で幅広のサッシュを巻いて止めている。こちらの女性たちが好んで着ているような華やかな柄ではないけれど、うす水色の布地は姫の清楚さによく似あっている。
「姫さま、ここしばらくお暇していたこと、申し訳ございません」
ウードを抱え、膝をついて詫びをこめて挨拶をすると、わたしの若いお師匠さまはぷいっと横を向くと、そのまま絨毯のうえのクッションの山にすとんと腰を下ろす。
「このところ、およびがかかることが多くなりまして……」
姫さまから教わった異国の歌は好意的に受け止められ、わたしは他の妃や姫たちからしきりにお声がかかるようになった。
姫はわたしをちらりと見ると、小さく何かをつぶやいた。お国の言葉らしく、わたしは分からず首をかしげた。
「……四日も来なかった、と」
菓子を運んできた侍女がぽつりと言った。
「わかるのか?」
「ええ、わずかですが。わたくしの母方の祖父は、姫さまと同じ東の生まれでしたから」
今まで侍女の顔をつぶさに見ることはなかったが、あらためて見ると二重で切れ上がった瞳や顔立ちに、こちらにはない東国の風情が漂っていた。
「亡くなった弟は、わたくしよりももっと東の民に似た顔をしておりましたよ」
少ない言葉から、侍女の身の上がなんとはなしに察することができた。おそらくは、王が力ずくで手に入れたオアシスから捕虜か奴隷として連れてこられたのだろう。美貌を買われて後宮に入ったのかもしれない。
「いくらか姫さまのお言葉がわかることで、お役目を得ました」
わたしの思惑など知る由もなく、侍女はお茶を入れながら話した。蜂蜜と木の実の菓子をのせた皿を、そっぽを向いたままの姫まえに差し出すと、わたしに目で合図をよこした。
わたしはうなずき、いまだ頬をふくらませて明後日の方角を見る姫さまの前に座り、ウードを弾き始めた。あえて歌わず、ウードを弾くことだけに専念する。わたしの手並みなど、姫さまの前では凡々たるものだけれど、それでも曲を奏でるときの嬉しさは変わらない。
いつしか姫さまの即興的な歌声がウードの調べと絡み合う。澄み切った青空のような高音が、さながらそよ風のように耳に心地よい。
そのまま、姫さまが近ごろ好む歌へと旋律を移していくと、さっきまでの不機嫌な顔はどこへやら、だ。
姫さまの長い髪は、きれいに編まれている。相変わらずの簪で留めてはあるが、輿入れのときに持参された首飾りや指輪で身を飾られるようになった。
しっかりとお食事を摂るようになり、とがった顎も頬骨も目立たなくなった。まろやかな輪郭へとなられたが、それいじょうに表情が豊かになった。
わたしを導いてくださったときのように、踊るようなしぐさで歌を歌う姫さまは、まるで舞台に立っているかのようだ。
一曲歌い終わるときには、姫さまの眉間のしわは消え、さっきまでの不機嫌を恥じるようにうつむき、首飾りの鎖を指に絡めた。
「ご機嫌うるわしゅうございます」
しゃらん、と弦を鳴らすと姫さまは気恥ずかしげに微笑んで、両手を差し出す。わたしはウードを手渡す。
ウードは姫の腕の中で、歌いだす。
花茶に蜂蜜と木の実の菓子、柘榴や西瓜。麵麭に羊肉の串焼き。卓のうえには所せましと軽食まで用意されている。以前は、昼のお休み前にはお暇していたが、近ごろは閉門の鐘が聞こえるまで姫の居室にお邪魔していることが多くなった。
姫はもう侍女の前で歌うことを躊躇しない。
ウードを弾き、歌う歌は、故国のものであったり、わたしから聞きおぼえたものであったりする。
四方を壁で囲まれ、棗椰子が数本植えられた中庭の木陰で、飽かず歌った。
姫の声は枯れることのない泉のように、いつまでも歌い続けた。今まで抑えていたものが、解き放たれたように。
わたしの声も音域が広がり、前いじょうに音を操れるようになったと感じられて嬉しかった。
姫さまも、そんなわたしを喜んでくださっているように思われた。
「すっかり明るくなられて」
侍女がお茶の替えを用意しながら、そう言った。
「最近は、ご自分からご衣裳や首飾りを選ばれたりするのですよ。まえはこちらに任せっきりだったのに」
若い娘たちのように、ご自身の好きな服をまとい、首飾りや耳飾りで身を飾る。外へ出かける自由はなくとも、姫はここでの暮らしに楽しみを見つけられたようだ。
長らく一人きりで姫さまの世話をしてきた侍女からすれば、嬉しい変化だろう。
「姫さまが歌われることは……」
「あら、わたしくには何も聞こえませんわ。さっきから聞こえている、これはきっと小鳥の声。二羽の美しい小鳥たちの歌でしょう?」
侍女はにっこりと微笑むと、空いた皿を下げて行った。よくできた侍女のようだ。
「姫さま、こんど街が見下ろせる塔へと参りましょう」
後宮の女性たちが外を見られるように造られた塔へと、姫さまをお誘いした。姫さまは戸惑うように、わずかに地面へと視線を投げた。
姫さまが、部屋から出ないわけは、少なからずわかっていた。後宮にいる着飾った妃や姫、侍女たちにすら気おくれするようなのだ。来た当初の聞くに堪えない風評など、姫さまの耳にまで届いていたと思われた。分からないふりをしていただけで、姫はこちらの言葉を理解していたのだから。
「姫さま、出かけましょう」
わたしは、立ち上がると、庭に咲く白や黄色の花々を摘んだ。
「姫さま」
ほら、とわたしは摘んできた花を、姫さまの髪へ所せましと飾った。とつぜんのことに、目を白黒させながら慌ててわたしの手を止めさせようとしたが、そうするまえに、花はすべて姫さまへの簪となった。
「まあ、なんて愛らしい」
侍女のすなおな言葉に、姫は赤くなった頬に手をあててうつむいた。
「ご案内してさしあげたいのです」
姫さまは、ただうなずかれた。
侍女が中庭にたたずむユェジー姫のところまで案内してくれた。ユェジー姫は中庭に絨毯を敷き、螺鈿の小卓のうえにお茶の用意をして待っていた。
涼しく過ごすために、もう錦は着ていない。襟のない長袖の麻のブラウスに、ゆったりとしたパンツを組み合わせ、胸の下で幅広のサッシュを巻いて止めている。こちらの女性たちが好んで着ているような華やかな柄ではないけれど、うす水色の布地は姫の清楚さによく似あっている。
「姫さま、ここしばらくお暇していたこと、申し訳ございません」
ウードを抱え、膝をついて詫びをこめて挨拶をすると、わたしの若いお師匠さまはぷいっと横を向くと、そのまま絨毯のうえのクッションの山にすとんと腰を下ろす。
「このところ、およびがかかることが多くなりまして……」
姫さまから教わった異国の歌は好意的に受け止められ、わたしは他の妃や姫たちからしきりにお声がかかるようになった。
姫はわたしをちらりと見ると、小さく何かをつぶやいた。お国の言葉らしく、わたしは分からず首をかしげた。
「……四日も来なかった、と」
菓子を運んできた侍女がぽつりと言った。
「わかるのか?」
「ええ、わずかですが。わたくしの母方の祖父は、姫さまと同じ東の生まれでしたから」
今まで侍女の顔をつぶさに見ることはなかったが、あらためて見ると二重で切れ上がった瞳や顔立ちに、こちらにはない東国の風情が漂っていた。
「亡くなった弟は、わたくしよりももっと東の民に似た顔をしておりましたよ」
少ない言葉から、侍女の身の上がなんとはなしに察することができた。おそらくは、王が力ずくで手に入れたオアシスから捕虜か奴隷として連れてこられたのだろう。美貌を買われて後宮に入ったのかもしれない。
「いくらか姫さまのお言葉がわかることで、お役目を得ました」
わたしの思惑など知る由もなく、侍女はお茶を入れながら話した。蜂蜜と木の実の菓子をのせた皿を、そっぽを向いたままの姫まえに差し出すと、わたしに目で合図をよこした。
わたしはうなずき、いまだ頬をふくらませて明後日の方角を見る姫さまの前に座り、ウードを弾き始めた。あえて歌わず、ウードを弾くことだけに専念する。わたしの手並みなど、姫さまの前では凡々たるものだけれど、それでも曲を奏でるときの嬉しさは変わらない。
いつしか姫さまの即興的な歌声がウードの調べと絡み合う。澄み切った青空のような高音が、さながらそよ風のように耳に心地よい。
そのまま、姫さまが近ごろ好む歌へと旋律を移していくと、さっきまでの不機嫌な顔はどこへやら、だ。
姫さまの長い髪は、きれいに編まれている。相変わらずの簪で留めてはあるが、輿入れのときに持参された首飾りや指輪で身を飾られるようになった。
しっかりとお食事を摂るようになり、とがった顎も頬骨も目立たなくなった。まろやかな輪郭へとなられたが、それいじょうに表情が豊かになった。
わたしを導いてくださったときのように、踊るようなしぐさで歌を歌う姫さまは、まるで舞台に立っているかのようだ。
一曲歌い終わるときには、姫さまの眉間のしわは消え、さっきまでの不機嫌を恥じるようにうつむき、首飾りの鎖を指に絡めた。
「ご機嫌うるわしゅうございます」
しゃらん、と弦を鳴らすと姫さまは気恥ずかしげに微笑んで、両手を差し出す。わたしはウードを手渡す。
ウードは姫の腕の中で、歌いだす。
花茶に蜂蜜と木の実の菓子、柘榴や西瓜。麵麭に羊肉の串焼き。卓のうえには所せましと軽食まで用意されている。以前は、昼のお休み前にはお暇していたが、近ごろは閉門の鐘が聞こえるまで姫の居室にお邪魔していることが多くなった。
姫はもう侍女の前で歌うことを躊躇しない。
ウードを弾き、歌う歌は、故国のものであったり、わたしから聞きおぼえたものであったりする。
四方を壁で囲まれ、棗椰子が数本植えられた中庭の木陰で、飽かず歌った。
姫の声は枯れることのない泉のように、いつまでも歌い続けた。今まで抑えていたものが、解き放たれたように。
わたしの声も音域が広がり、前いじょうに音を操れるようになったと感じられて嬉しかった。
姫さまも、そんなわたしを喜んでくださっているように思われた。
「すっかり明るくなられて」
侍女がお茶の替えを用意しながら、そう言った。
「最近は、ご自分からご衣裳や首飾りを選ばれたりするのですよ。まえはこちらに任せっきりだったのに」
若い娘たちのように、ご自身の好きな服をまとい、首飾りや耳飾りで身を飾る。外へ出かける自由はなくとも、姫はここでの暮らしに楽しみを見つけられたようだ。
長らく一人きりで姫さまの世話をしてきた侍女からすれば、嬉しい変化だろう。
「姫さまが歌われることは……」
「あら、わたしくには何も聞こえませんわ。さっきから聞こえている、これはきっと小鳥の声。二羽の美しい小鳥たちの歌でしょう?」
侍女はにっこりと微笑むと、空いた皿を下げて行った。よくできた侍女のようだ。
「姫さま、こんど街が見下ろせる塔へと参りましょう」
後宮の女性たちが外を見られるように造られた塔へと、姫さまをお誘いした。姫さまは戸惑うように、わずかに地面へと視線を投げた。
姫さまが、部屋から出ないわけは、少なからずわかっていた。後宮にいる着飾った妃や姫、侍女たちにすら気おくれするようなのだ。来た当初の聞くに堪えない風評など、姫さまの耳にまで届いていたと思われた。分からないふりをしていただけで、姫はこちらの言葉を理解していたのだから。
「姫さま、出かけましょう」
わたしは、立ち上がると、庭に咲く白や黄色の花々を摘んだ。
「姫さま」
ほら、とわたしは摘んできた花を、姫さまの髪へ所せましと飾った。とつぜんのことに、目を白黒させながら慌ててわたしの手を止めさせようとしたが、そうするまえに、花はすべて姫さまへの簪となった。
「まあ、なんて愛らしい」
侍女のすなおな言葉に、姫は赤くなった頬に手をあててうつむいた。
「ご案内してさしあげたいのです」
姫さまは、ただうなずかれた。
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