メイストーム

ビター

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 ……結局、誰にでも身体を許すのね。そんなことを続けてごらんなさい、いまに刺されるわ。父のようにねー
 彼女の声が耳元でしたようで、雄高はベッドから跳ね起きた。暗がりの中で、自分がどこにいるのかすら、咄嗟に思い出せず雄高は狼狽した。鼓動が激しく鳴り続いている。胸に手をあて、何度も大きく息をする。
 ここは、マンションの六畳の部屋。見慣れた家具と、本に囲まれた砦だ。隣からかすかに史彦の寝息が聞こえる。出張から戻った史彦はよほど疲れたのか、着替えもそこそこにベッドへ倒れ込んでしまった。
 雄高の記憶は完全に戻った。動悸も静まり、雄高は額に薄く浮いた汗を手の甲で拭った。時間は深夜三時過ぎを指していた。
 夢、だったのか。息遣いまで感じられるようなリアルさに、この部屋のどこかに彼女が潜んでいるような気さえする。
 あれは峠葉月の声だった。
 たった一度しか会うことのなかった彼女の夢を見た理由は知れた。今日の午後、クリニックに出勤したときの現場の騒ぎを雄高は思い出した。それだけで、また冷や汗が流れた。雄高はベッドから起きると、喉に渇きを覚えた。史彦を起こさぬよう、足音をひそめキッチンへ水を飲みに立つ。
 コップ一杯の水を一気に飲み干すと、雄高は深いため息を吐いた。息を吐きつくすと、目眩がした。よろめきながらリビングのソファに深く身を沈め、つい昨夜の出来事が生々しく思い出されて雄高はふるえた。
 佐野に言ったとおり、今夜は何事もなかったかのように史彦を迎えた。いつもの史彦の笑顔に良心が痛んだが、雄高はなんら不自然なそぶりなど見せなかったと思う。
 それも長い時間続けばどうなったかわからない。幸いというべきか、疲れた史彦はすぐに床についた。
 今夜、雄高は史彦に聞いて欲しいことがあった。けれど、それは決して口に出来ない事柄なのだ。口にすれば、今までの嘘がすべて史彦にばれてしまうのだから。けれど、誰かにすべてを打ち明けて、不安な気持ちを理解して欲しいと切実に思った。
 雄高はソファで頭を抱えた。今日、クリニックに出勤した時のことだ。
 クリニックは、妙にざわついていた。確かに休憩の時間ではあるが、まだ午後の診察が残っているそんな時間だ。気の早い患者はもう診察を待っている。それなのに普段は静かな病院全体が、奇妙な空気に包まれていた。看護婦や医者があちこちに固まり、なにやら低い声で言い交わしている。
 不穏なものを雄高は感じ取ったが、昨夜の事が尾を引き沈んだままの感情を皆の前でどう取り繕うかだけ、考えていた。が、そんな不安も青ざめた顔で話しかけてきた由岐の言葉にすべて消し飛んだ。
「峠先輩が亡くなったと、今日連絡が」
 始め雄高は耳を疑い放心した。由岐は雄高の態度をショックから来たものだと思ったようだ。その日の午前中の出来事を雄高に教えてくれた。
「先輩は、去年の九月に心筋梗塞の発作で倒れて以来、ずっと寝込んでいた。でも、二週間前に大きな発作に見舞われて亡くなったそうだ。仕事のし過ぎだ、ろくに休みも取らないで、働きづめだったから。葬儀は故人の遺志で身内だけで済ませたそうだ」
 雄高は頭が混乱した。峠医師は亡くなっていたはずだ、去年の九月に。心筋梗塞などではなく、患者に刺殺されたと葉月が言った。喪中の葉書、雄高の弔問、葉月の冷たい視線、安騎野の……熱い指。あれはすべて雄高の夢だったのだろうか。いや、そんなはずはない。
「誰から……」
「院長のところへ挨拶に見えたんだよ、息子さんが直々に。生前世話になったからって」
「えっ」
 今度こそ雄高は打ちのめされた。息子さんが、と由岐は言った後あごに指をあて不思議そうな口調で付け加えた。
「彼、養子だよな。でも、あまりに先輩そっくりで、一瞬先輩自身が来たと思ったよ」
「……」
 雄高はもうなにも言えなかった。養子の息子、それは安騎野をおいて他にいるわけがない。つい、数時間前までここに安騎野がいたというのか。院長は峠医師の同窓生だ。由岐にとっては峠は先輩にあたる。もちろん、雄高と安騎野の関係は話したことはない。院長でさえも、雄高と峠の本当の接点は知らないだろう。
 どうやって今日の仕事を終わらせたのか、雄高は覚えていない。ただ衝撃が大きすぎたから、今夜何げない態度で史彦を迎えるのがたやすかったのかもしれない。安騎野のことに心を占められて、佐野のことは頭から追い払っておけたのだろう。
 峠医師は亡くなっていたはずだ。もう一度、雄高は記憶を手繰り寄せた。葉書はすでに手元にはないが、地吹雪の中、塔のある山荘に向かったこと。一枚板の堅牢な扉や、意匠を尽くされた部屋の様子。
 そして史彦についた嘘。
 松並木から見た、冬の海。はるかな沖の波頭。タクシーの運転手との会話。……そうだ、あの運転手は峠先生が亡くなったことを知っていた。雄高は薄暗いリビングで目を見開いた。峠の死は、すでに第三者の知る所だった。なぜ、いまさら安騎野は嘘をでっちあげてM市まで足を運んだのだ。雄高はその意味を図りかねて困惑した。
「雄高」
 我に返ると、いつの間に起き出したのか、史彦が心配そうに雄高のかたわらにしゃがんでいた。雄高は首を巡らせ暗闇の中で史彦を見つめた。
「具合でも悪いのか。顔が青いよ」
 史彦の手が雄高の額に当てられた。少し冷やりとした史彦の手が気持ち良く感じられ、雄高はまた目を閉じた。
「熱っぽいな。風邪ひいたのか。こんなとこにいたら、身体を冷やすよ。雄高は熱を出しやすいんだから、気をつけなきゃ」
 雄高は目を閉じたまま史彦の手を引き寄せると、あたたかな身体を抱き締めた。
「どうした、寝ぼけてるのか?」
「史彦、俺のことが好き?」
 史彦はほほ笑んで雄高に口づけ、雄高を胸に抱いた。
「あたりまえだよ。珍しい……雄高がそんなこと聞くなんてさ」
「言って欲しかったから」
 雄高は艶やかな髪ごと史彦を抱きすくめた。引き戻してくれるか? また誰かに感情が流れて、そいつのほうに行きそうになったとき、引き戻してくれるか? あのとき、屋上で安騎野のもとに行こうとした俺を止めてくれたように。
 史彦、不安なんだ。
 そうなっても、なお、俺を選んでくれるか?
 雄高は史彦に伝えたい言葉で身体がはちきれてしまうかと思った。
 ……不安なんだよ、史彦……
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