メイストーム

ビター

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 川沿いの遊歩道に沿って、雄高はクロスバイクを押して歩いた。夕方は犬の散歩が目立つ。飼い犬と一緒になってジョギングする若者や、どっちが散歩させているのか分からぬほどゆっくりと歩く柴犬と老人。雄高はマンションに一番近い橋のうえから河原を見下ろした。
 見覚えのある赤チェックのシャツの男が、川面を眺めている。見つめる雄高の視線に気づいたのか、こちらを向く。
 確認するまでもない。佐野だった。雄高はバイクを担ぎ、河原へと降りた。
「おかえり」
 照れたように佐野が声をかけた。すっかり落ち着いた表情を雄高は確かめ、隣に腰を下ろした。佐野の手の中には、缶ビールがあった。どうやら一杯やりながら雄高を待っていたらしい。
「大学を辞めてきた」
 佐野は天気の話でもするように言った。昨日の今日で退職。あまりの行動の早さに雄高は言葉を失った。
「呆れてるな。顔に書いてある。別にいいんだ。もうシカゴに行く決心がついたし、館長は休職ってことにしてほしいとか言ってたけど。そこまで俺を買っていてくれたなら、もういいや。全部捨てて、渡米するさ。これで鬱陶しい人間関係もリセットだ」
 言い終わると、佐野は喉をそらしてビールを空けた。
「返事は……まだ聞かせてもらえない?」
 飲み終わった空き缶を揺らしながら、佐野は雄高に問うた。雄高は小石を拾うと、高く放り投げた。川の中央あたりに、小さな波紋が生まれすぐに消える。
「史彦が」
 佐野の肩がぴくりと動いた。雄高はそれを静かに認めてから続けた。
「見合いをする」
「ん」
「相手と両親は乗り気。史彦さえよければ、即決らしい」
 二人とも口をつぐんだ。夕闇が濃くなり、遊歩道の街灯に灯がともる。藍色から漆黒に色を変える空に、一番星がきらめき始めた。
「史彦が結婚したら……俺、愛人にしてもらおうかな」
 膝を抱えて雄高が呟くと、佐野がかすかに笑った。
「アメリカに行って心理学の勉強をして、金持ちの専属カウンセラーになる。年に何回か長期休暇をとって帰国してヒコに会う。いいんじゃない、俺はいいと思うよ」
 佐野が茶化すように続けた。つられて雄高は笑ったが、自分にも空疎に聞こえた。そのまま、雄高は川面を見つめた。流れる暗い水の中に未来がかいま見れるような気がして。
 一緒に暮らそうと言ってくれたのは、大学三年の事だった。史彦のがちがちに緊張した顔がおかしくて、雄高は思わずキスをした。わかれるわけがない、と思っていた。たとえ浮気をしようとも、史彦とは生涯を共に歩むと思い込んでいた。今は、たんなる虫のいい思い込みだったことに気づく。
「心理学を勉強すれば、少しは人の心に近づけるなんて思っていたけどな。どうやら俺には向いてないらしい」
 雄高は自分の心すら把握できなかったのだ。幼少期の愛情不足が現在の自分ー浮気症ーを作ったなどと、もっともらしい説明をつけたとしてもだ。
「佐野は、どうだったんだ? ショジュアが結婚するって決まったとき。かなり落ち込んだんじゃないか」
「落ち込むもなにも、最初から奴には婚約者がいたんだよ。婚約者というよりも、許婚だな。アーリーン……彼女とジョッシュの祖父母同士が仲のいい友人で、アーリーンが生まれて間もなく決めたことらしいけど」
「いま時?」
「そう、イマドキ。アーリーンがハイスクールを卒業して、二・三年花嫁修業をしてからってことで話が決まってたよ。古風だよな、ホント。そんなんアリか? ってくらい」
 佐野は乾いた声で笑った。勝ち目のない恋愛か。佐野が女だったら、奪うことも可能だったかも知れないが、男同士では無理だろう。障害が大きすぎる。
「最初に会ったときアーリーンは十五になったばかりのジュニア・ハイ、ジョッシュは二十一で大学生。まだキスしかしてなかったんだぜ、信じられるか? アメリカなのに。でも厳格なカトリックってそういうものらしいけどな。結婚するまで処女と童貞。それ以外の理由もあるけど。病気や犯罪、麻薬までからんでくるケースがあるから、フリーセックスはなにかとリスクが高い」
「アーミッシュだった?」
 雄高は、現代文化とはあえて隔絶し、禁欲的な生活をおくるクリスチャンたちの集団をあげた。
「いや、アーミッシュはプロテスタント。ジョッシュのとこは婆さんが熱心でな。俺も日曜礼拝につきあわされた。おかげで英語で讃美歌が歌えるぜ」
 雄高には、教会で讃美歌を歌ったり、祈りを捧げる佐野が全く思い浮かばなかった。
「カトリックは離婚を承認しない。もちろん、法律じゃない。でも、心理的な縛りはある」
 佐野は夜空の星をつかむように手を伸ばした。
「ジョッシュは遥か向こう側へ行ってしまった。いつもそうだよ、俺が好きになる奴らは、みんな逃げて行く。俺から、逃げて行く」
「佐野」
 雄高が振り返ると、視線が合った。佐野がそのまま唇を重ねて来た。雄高は黙って佐野のぎこちない唇を受けた。
「目ぐらいつぶれよ」
「……」
 雄高はうつむいて、佐野の肩を押した。
「俺は対象外って事かな。俺が相手じゃ勃ちもしない?」
 正直なまでに雄高はすぐ頷いた。佐野は喉の奥で笑うと、雄高の手を握った。
「いいよ、それでかまわない。さっきのは、薬な。今日の分を処方してもらったってことで」
 佐野の中でなにかの決着がついたのだろうか。以前のような雄高に対する、ぎらぎらした欲望は鳴りを潜めたらしい。
「じゃあ、帰るな。アパートの荷物をまとめなきゃならないし、まだ向こうとの折衝も残っているからメールを出さなきゃ」
 佐野は立ち上がり、ジーンズのほこりを払った。雄高も立ち上がり、自転車を引き起こした。
「メシはちゃんと食えよ。それから……あのさ、マンションにいるのが辛かったら、いつでも来いよ。俺の部屋に」
 口早に言うと、佐野は遊歩道への階段を駆け上がった。暗闇にまぎれ、佐野の姿はすぐに見えなくなった。
 辛かったら、か。もしかして、慰めてくれていたのか? 史彦が見合いをすると話したから、気落ちした雄高を慰めてくれた?
 随分遠回しで分かりづらい。あれで励ましているつもりか? だいいち、仲を裂いたのは佐野ではないか。佐野なりに罪悪感をもっているという証拠だろうか。
 不器用だな。ふだんの仕事ぶりを見ていると、効率よくなんでもそつなくこなすのに。こと対人となると、ぎこちなさが目立つ。
 不器用だよ。
 雄高は河原でひとり、笑った。
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