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 心理学研究室相馬ゼミの朝は、教授が手ずから入れるお茶で始まる。雄高が出勤すると。いつもいる奥津と出雲井の顔が見えなかった。雄高は新聞を読みながらお茶を飲む教授に挨拶をした。
「おはようございます、教授。いつもの二人は今朝は?」
「うん、雄高くんと話しがたいから席を外してもらった」
 教授は暖めておいたカップにポットのティーコゼーを外してお茶を注いだ。
「もう知っているかもしれなけど、佐野くんが退職する」
「ええ。昨日、聞きました」
 教授は座るよう促すと、お茶をすすめた。
「図書館長は、引き留めようとしたらしいんだけどね。正式に、むこうの大学側からも強力なオファーがあって、結局選ぶのは佐野くんだから。事件のことは関係なく、自分を生かせる仕事をしたいと言ったそうだ」
 雄高はお茶を口にして頷いた。佐野はずっと以前から米国で仕事をしたかったのかも知れない。やり残した仕事を口にしたとき、本心から悔しそうに見えたから。
「僕は知っていたんだ。佐野くんが起こした事件のことは」
 カップをおろして雄高は教授を見た。指を組んだ相馬教授は、べっ甲縁のメガネを人差し指を押し上げた。
「知ってたんだ。彼から打ち明けられていた。学生時代、佐野くんは僕のゼミを希望していたんだ。いろいろあって心理学は専攻しなかったけど、その時佐野くんから聞いたんだよ。自分はかつて人を殺めそうになった、と」
「それで教授は佐野さんを気にかけていたんですね」
「そうだよ。佐野くんは一度目の留学をするまで、定期的にカウンセリングを受けていたし、時折ひどい鬱になって薬も飲んでいた。留学に出すことに不安もあったけれど、よほど向こうが気質に合ったのか、帰国したらすっかり元気になっていて驚いたけどね」
 それは、自分の過去を知らない人々に囲まれ、のびのびと勉学できたからだろうか。それとも、ジョシュアという恋人を得たからだろうか。
「佐野くんはいつも脅えていた。自分の過去が知られることをではなく、自分の中にある凶暴性を」
「人を傷つけた……ことについて?」
「凶行に及ぶ引き金が自分の中に潜んでいること」
 撃鉄をあげたままの銃が体の内にある。何時その銃口を他者に向けるかしれないことに、恐怖する。けれど、佐野は自分の精神を制御できなようには見えない。確かに感情の起伏は激しい時があるけれど、むしろそうやって少しずつストレスを吐き出すことで、暴走はしにくいのではないか。
 雄高は感じるままに教授に伝えた。教授は肯定の意味で頷いて見せたが、瞳は曇ったままだった。
「雄高くんにも言えないけれど、佐野くんは思春期から精神的な負荷を自分にかけ続けてきたんだ。もっと自分を出してもいい、と助言したのは僕だ。今の佐野くんなら、大学の図書館で過ごすより、渡米して書誌学をしているほうがいい。でも今回の事件で、再び彼自身が弾けてしまわなければ、と思うよ。だから雄高くんに佐野くんの様子を見ていてほしかったんだ」
 言い終えると教授はお茶のお代わりをすすめた。雄高は注がれるお茶の湯気の向こうに教授を見ていた。
「教授、僕が留学を希望するとしたら、どんな手続きが必要でしょうか。公的にはどんな援助が受けられますか?」
 カップを渡す手が止まった。教授は怪訝な瞳で雄高を見た。
「留学試験のための推薦文なら僕が書いてあげるけど……どうして急にそんなことを。雄高くんは今、それどころじゃないだろう。史彦くんとはどうなっているのかな。連絡は取らなかった?」
 雄高は教授から視線を外した。まともに目を合わせられない。沈黙は教授に考える時間を与えてしまった。
「佐野くんに誘われた、とか。君たち三人の間でなにかトラブルでも……」
 言いかけた教授の顔が青ざめた。三人で起きるトラブル。一般的には考えられない、けれど事情を知る教授には推測可能なトラブル。
「駄目だ。それはすすめられない。なんてことだ、僕が余計なことを頼んだせいだろう? 君の性格を分かっていながら。それは駄目だ、雄高くん」
 教授はテーブルに両手をついて激しくかぶりを振った。
「違います。ただ、もう史彦とは」
「話し合ったのか? もう本当に駄目だって決まったの。そうじゃないなら、絶対に史彦くんに直接合って話をするべきだよ。確かに佐野くんの今の立場に、優しい君が同情してしまうのは分かるけれど、それとこれとは別の問題だ」
 けれど、と雄高は言葉を飲み込んだ。僕は長い間、浮気をしていました。それがばれて愛想をつかされたんです。それに、史彦は見合いをするんです。
 教授にすべてを話せたらいいのに。雄高は俯いたまま、カップを両手で包んだ。
「いちじの感情に流されてはいけない。ことは重大だよ。この先、人生がまるで変わってしまう。史彦くんとわかれたら、後悔するよ。一生後悔するよ、雄高くん」
 雄高はうなだれて、小さく頷くしかできなかった。


                                
 安っぽい建材で作られた扉を叩く。呼び鈴が壊れていることを知っているから。部屋の住人の性格からして、直しはしないだろうと検討がつく。
 雄高は扉が開くまでの短い時間、それでもまだ戸惑っていた。
 限界かも知れない。
 ひとりきりの部屋にいることに耐えられず、外へと逃げるように飛び出した。けれど、雄高には行くべき場所がどこにもなかった。『お父さん』はもういない。いまさら安騎野を頼る訳にもいかない。だからといって、由岐医師や相馬教授の家に行けるわけがない。結局ここへ来たのは、消去法で決まっただけなのだ。
 自分に言い聞かせようとしても無駄だった。
 ちがう。どこにもなかったのだ。ここ以外は。
「雄高?」
 両手をコートのポケットに入れ玄関に立ち尽くす雄高の、俯いたこめかみのあたりに佐野の視線を感じる。雄高は無言で、佐野の部屋にあがった。まだ本格的に引っ越しの準備には取り掛かっていないらしい。先日見た殺風景な部屋だ。
 部屋の中央に立ったままの雄高に佐野が声をかけた。
「なんだよ、淋しくなった?」
 首を巡らせると、両手に湯気の立つマグカップを持って佐野が雄高を見ている。いまだ口をつぐむ雄高に、佐野はマグカップを手渡した。
「座れば? 狭くて汚いとこだけどさ」
 言われて雄高は腰高窓の直ぐ下に腰を下ろして壁にもたれた。佐野はパソコンを置いた机の前に座り、かすかにほほ笑むとマグを口に運んだ。マグにはなみなみとカフェオレが注がれていた。佐野にそぐわないもののような気がして、雄高はやわらかい湯気の立つカップを見つめた。
「ま、相馬教授のような上等の紅茶には負けるけど。牛乳嫌いじゃないよな。学生のとき、いつも飲んでたから」
「意外だな。てっきりブラック派だと思ってたから」
「図星。以前はそうだった。体に悪いからせめてミルクを入れて飲めって言われてさ」
 目を細めて笑うと、自分よりもはるかに年下に見える。佐野の体を気遣ったのは、誰なんだろうか。雄高は暖かいカフェオレを飲んだ。そういえば、また食事をしていなかった。不意に飢えていたことに、体が冷えていたことに気づく。
 英字新聞がくくられて部屋の隅に重ねてあった。佐野の部屋には英語が溢れている。新聞に雑誌、インターネットでは英語でメールのやり取りをしているらしい。そういえば、以前ジョシュアから来た手紙をかいま見たことがあった。
「俺、英語ができないよ」
 手近なペーパーバッグをめくりながら雄高がつぶやいた。
「それこそ意外だ。雄高にはできないことなんか何もなさそうなのに……」
 佐野の軽い笑い声が不意に止んだ。雄高はマグを置いて真剣な眼差しを向ける佐野を見やった。
「それって、俺と来るってこと? 俺の申し出にイエスと答えてくれたって受け取っていいのか?」
 佐野は椅子から立ち上がると雄高のそばに膝をつき、咳き込むように雄高に問いかけた。頬が紅潮した佐野の顔を雄高はただ見つめた。
 ここで頷けばいいのだろう。頷いてしまえ、そうすれば史彦の前から姿を消せる。自分以外の誰かのものになる史彦を見ることもない。
「雄高」
 佐野は雄高の肩を引き寄せた。ほら、佐野だって優しい。佐野は雄高を欲している。そばにいて欲しいと願っている。佐野の願いを叶えてやれるのは自分だけだ。
 ひとりの人間の幸・不幸を手の中に収めている、一種の万能感。
 いつも雄高はそうしてきた。周りの人間関係をコントロールしてきた。誰からも嫌われないよう、いや、みなが自分を好きになるよう……八方美人にふるまいながら、それでも自分は君たちを選ばないよと、常に一線を引く高慢さ。
 勘の鋭いに人物には、鼻持ちならない人種に映るだろう。
 もう、疲れた。ありのままの自分をさらけ出せるのは、佐野しかいないのかも知れない。最初から雄高の本質を見抜き、そのうえで浮気をしてもかまわないと公言した佐野なら。
 けれど雄高は佐野にキスをされても、まるで人形にでもなったように、まゆ一筋すら動かさなかった。
「覚悟ができたから、来たんだよな」
 佐野が雄高のネクタイを取ると、ワイシャツのボタンを外しにかかった。されるがままに雄高は身を任せ、抵抗しなかった。
 音のない部屋に、ただ佐野の息遣いだけが聞こえた。はだけた雄高の胸に佐野は唇をはわせた。
「夢みたいだ……雄高とこうすることができるなんて」
 慈しむように、佐野は雄高の体を背骨にそって優しくなでた。半ば服を脱がされた状態のまま、雄高は佐野の髪を指で梳いた。腰にかかった佐野の手が雄高のズボンと下着を脱がしにかかる。佐野の指のふるえが雄高の皮膚に伝わる。
 佐野の掌が、ゆっくりとおりてゆく。じかに触れられると、さすがに雄高の口から声が漏れた。佐野は感触を楽しんでいるのか、慣れるためにそうしているのか、しばらくの間、動かしもせずただ掌中に収めていた。
 雄高はその時が来るのを息を殺して待った。やがてゆるゆると佐野の手が動き出した。根元から先端に向けてしごかれると、雄高の体はびくりと反り返った。
「うっ」
 雄高の体は熱を帯び、皮膚が汗を含みはじめる。じわりとした湿り気がからだ全体を押し包む。
「いい? 俺、下手じゃない?」
 自信なさそうな声で佐野がささやく。雄高は首を横にふり、閉ざしていた目を開けた。眉根を寄せ、唇をかんで佐野が雄高を見下ろしていた。
 あまりに真剣な表情に雄高は目を逸らした。
「見てくれよ、俺を。雄高……」
「佐野」
 こわごわと瞳を開く。上気させた頬をした佐野の肩越しに、カーテンの透き間から月がのぞいていた。いや、月ではない。煌々と夜道を照らす街灯だった。
 開きかけた雄高の膝が強ばった。
「あっ」
 街灯のしたに、史彦がいるような気がする。安騎野と体を重ねていたときのように、街灯の元で息を殺して史彦が立っている。
 ー雄高はそうやっていつも俺を裏切っていたんだー
 雄高は声にならない悲鳴をあげた。思わず両手で顔を覆った。
 史彦はあそこにいる。あそこにいて、雄高を責める。いまも、たった今も。
 雄高は自分の罪の重さに押し潰されそうになった。
「雄高!」
 佐野が名前を呼ぶ。雄高の嗚咽に佐野は動きを止めた。雄高は涙を流したまま、虚ろな視線を佐野に向けた。佐野は何も言わなかった。そのまま雄高を抱き締めた。
「いいよ、無理しなくて。ゆっくりと慣れていけばいい。これからは、ずっと俺といてくれるんだろう? だったら、いい……焦らない」
 佐野の腕に抱かれながらも、雄高は史彦の面影をいつまでもいつまでも追った。
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