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朝から何度か吐いた。
大学に出勤してからとクリニックに来てからと。
佐野が用意してくれた朝食もすべて吐き出してしまった。昼は食べなかった。たった今吐き出したものは、薄茶色の胃液だけになっていた。
慣れているから、と雄高はひとりごちした。吐くことには慣れている。ここ十年来の付き合いだ。ただ、これだけ頻繁に吐き続けるのは久しぶりだ。
手洗いの蛇口から水をすくい取って口をすすぎ、不快感を拭い去る。
扉を押して廊下に出ると、由岐医師が腕組みして壁に寄りかかっていた。雄高と目が合うと、ヒールをかつんといわせて廊下に立ち塞がった。
「今日は帰ったほうがいい」
雄高は首を左右にふった。雄高の態度に整えられた由岐の眉がきっとあがった。
「病人が病人をみるっていうのか? 俺が患者だったら御免だね、そんなカウンセラーなんか。とにかく帰宅して休めよ」
由岐医師の言葉がきついのは、雄高を心配してのことだ。いくら厳しく言われようとも、由岐の心遣いは雄高に充分届く。雄高は自分よりもはるかに小さな由岐を見下ろした。
「ありがとうございます、由岐医師。でも、あとひとりだけですから。それがすんだら真っすぐに帰ります。だから、どうか許してください」
「ゆうべは眠れた? 食事はした? ……辛いことでもあった?」
由岐は雄高に手をのばし、そっと頬をなでた。男のものとは思えないほど、白く滑らかな指だ。雄高は瞳を閉じてそれにしばし甘えた。
「大丈夫です」
答えて雄高は思った。渡米するということは、単純に考えてもクリニックから去ることなのだ。そして大学の研究室からも。自分を見守ってくれている人たちと別れてしまうことなのだ。佐野はそれを「人間関係をリセットする」と言っていたけれど、雄高は割り切れないものを感じた。
雄高の言葉と真剣な態度に折れたのか、由岐は不承不承に雄高を解放した。
教授も、医師も大切な理解者だ。少ないが親しくしている人たちもいる。ゼミのメンバーの出雲井や奥津たちだって、失いたくない。
新しいものに向かってあくまで前向きの佐野。
過去に大きな事件を起こしたからなのか。佐野は過去とは決別するものとして感情を処理しているのかもしれない。
今朝、大学の研究室に出勤した雄高を、教授は留学手続きのための案内書と手続き申し込み書の入った封筒を用意して待っていた。
「佐野くんは、僕が思っていたいじょうに優秀らしい。たしかに、彼が現役で入学した大学を考えれば当たりまえなんだが。佐野くんは、前回留学したときに、向こうでも奨学金を受けていたんだ」
教授は封筒を手渡しながら、雄高にそのスポンサーを教えた。佐野の留学先のシカゴと結び付きの強い、米の財閥の名前をあげた。
「シカゴの大学が欲しがるはずだ」
雄高はカウンセリングルームの椅子に深く腰をかけて、今朝の佐野を思い出した。
ー帰ってくるんだよな、こっちに。俺、待ってるから。
昨夜、佐野と体は繋げなかった。あれから何度かやろうとしたけれど、雄高の体は反応が鈍く、佐野は緊張し過ぎからか役にたたなかった。
雄高は気まずいまま朝を迎えたが、佐野はあまり気にはしていないように見えた。ただ、一緒にいられるだけで嬉しい、と呟くように言っただけだった。
今夜も佐野の元へ行くのだろうか。今夜こそ佐野と関係を持つのだろうか。そしてこの先ずっと佐野と過ごすのだろうか。
雄高は天井を仰ぐ。体調不良の目にはきつく見える白。白色の蛍光灯が痛いほど眩しく感じられた。
「碓氷先生」
看護婦の声に姿勢を元に戻し、居住まいを正した。診察室の扉が開かれ、患者が案内されてきた。雄高は不安げに俯いたままの、若い女性の緊張を解きほぐそうとにこやかに笑ってみせた。
診察を終え、クリニックから帰路につく雄高の足取りは重かった。
いつもよりは早い時間だ。夕刻までにはまだ間があるが、厚い雲に覆われた空はかなり暗くなっていた。今しも雨粒が落ちて来そうに見えた。
何日も同じ服装で出勤するわけにはいかない。マンションの部屋も管理しなければ。史彦と二人で契約したマンション。まだ一カ月と住んでいない。仮に引き払うとしたら、手続きはどうしたらいいんだろうか。
佐野と渡米する……想像レベルの事が、にわかに現実味を帯びてくる。このまま身一つで離日することが、すべての解決になるような気がしていた自分はどうかしている。
雄高はマンションへと足を向けた。
自分は間違ったことをしている。間違ったことをしようとしている……警戒警報が頭の中で鳴り響いている。
史彦、もういちど引き戻して欲しい。街灯の下に立っていてもいい。マンションのドアを開けたら口づけて欲しい。
雄高は鉄の扉に鍵を差し込んでノブを回した。
扉をあけて玄関で靴を脱ぐ。雄高は部屋がどこかよそよそしく感じられた。言葉にはできないけれど、妙に空気が軽いような気がする。丸一日以上締め切っていたのだから、もっと空気がよどんでいてもおかしくないのに。
首をひねりながらリビングへと進んだ。
どこが、とは指摘できないけれど……。雄高はぐるりと部屋を見渡してみた。まさか、泥棒でも入ったのだろうか? けれど、ソファの位置ひとつ変わっていないようだ。
視線を巡らせた雄高は、史彦の部屋の引き戸がわずかに開いていることに気づいた。
きちんと閉めていたはずなのに。
雄高は不信に思いながら、史彦の部屋を開けて絶句した。
なにもなかった。
ベッドもパソコンも、乱雑に置かれていた本も服も。なにひとつなくなっていた。
「あ……」
膝から力が抜けた。カーテンが外された窓から、曇天の空が見えた。雄高は空っぽの部屋を凝視した。やがて窓に雨粒がぶつかり、細い筋をつけ始めた。
史彦……本気だ。もう、この部屋には戻らない。雄高へのきっぱりとした決別。
激しく窓を叩く、雨の音が聞こえる。
雄高は史彦の部屋に力無く座り込んだ。
大学に出勤してからとクリニックに来てからと。
佐野が用意してくれた朝食もすべて吐き出してしまった。昼は食べなかった。たった今吐き出したものは、薄茶色の胃液だけになっていた。
慣れているから、と雄高はひとりごちした。吐くことには慣れている。ここ十年来の付き合いだ。ただ、これだけ頻繁に吐き続けるのは久しぶりだ。
手洗いの蛇口から水をすくい取って口をすすぎ、不快感を拭い去る。
扉を押して廊下に出ると、由岐医師が腕組みして壁に寄りかかっていた。雄高と目が合うと、ヒールをかつんといわせて廊下に立ち塞がった。
「今日は帰ったほうがいい」
雄高は首を左右にふった。雄高の態度に整えられた由岐の眉がきっとあがった。
「病人が病人をみるっていうのか? 俺が患者だったら御免だね、そんなカウンセラーなんか。とにかく帰宅して休めよ」
由岐医師の言葉がきついのは、雄高を心配してのことだ。いくら厳しく言われようとも、由岐の心遣いは雄高に充分届く。雄高は自分よりもはるかに小さな由岐を見下ろした。
「ありがとうございます、由岐医師。でも、あとひとりだけですから。それがすんだら真っすぐに帰ります。だから、どうか許してください」
「ゆうべは眠れた? 食事はした? ……辛いことでもあった?」
由岐は雄高に手をのばし、そっと頬をなでた。男のものとは思えないほど、白く滑らかな指だ。雄高は瞳を閉じてそれにしばし甘えた。
「大丈夫です」
答えて雄高は思った。渡米するということは、単純に考えてもクリニックから去ることなのだ。そして大学の研究室からも。自分を見守ってくれている人たちと別れてしまうことなのだ。佐野はそれを「人間関係をリセットする」と言っていたけれど、雄高は割り切れないものを感じた。
雄高の言葉と真剣な態度に折れたのか、由岐は不承不承に雄高を解放した。
教授も、医師も大切な理解者だ。少ないが親しくしている人たちもいる。ゼミのメンバーの出雲井や奥津たちだって、失いたくない。
新しいものに向かってあくまで前向きの佐野。
過去に大きな事件を起こしたからなのか。佐野は過去とは決別するものとして感情を処理しているのかもしれない。
今朝、大学の研究室に出勤した雄高を、教授は留学手続きのための案内書と手続き申し込み書の入った封筒を用意して待っていた。
「佐野くんは、僕が思っていたいじょうに優秀らしい。たしかに、彼が現役で入学した大学を考えれば当たりまえなんだが。佐野くんは、前回留学したときに、向こうでも奨学金を受けていたんだ」
教授は封筒を手渡しながら、雄高にそのスポンサーを教えた。佐野の留学先のシカゴと結び付きの強い、米の財閥の名前をあげた。
「シカゴの大学が欲しがるはずだ」
雄高はカウンセリングルームの椅子に深く腰をかけて、今朝の佐野を思い出した。
ー帰ってくるんだよな、こっちに。俺、待ってるから。
昨夜、佐野と体は繋げなかった。あれから何度かやろうとしたけれど、雄高の体は反応が鈍く、佐野は緊張し過ぎからか役にたたなかった。
雄高は気まずいまま朝を迎えたが、佐野はあまり気にはしていないように見えた。ただ、一緒にいられるだけで嬉しい、と呟くように言っただけだった。
今夜も佐野の元へ行くのだろうか。今夜こそ佐野と関係を持つのだろうか。そしてこの先ずっと佐野と過ごすのだろうか。
雄高は天井を仰ぐ。体調不良の目にはきつく見える白。白色の蛍光灯が痛いほど眩しく感じられた。
「碓氷先生」
看護婦の声に姿勢を元に戻し、居住まいを正した。診察室の扉が開かれ、患者が案内されてきた。雄高は不安げに俯いたままの、若い女性の緊張を解きほぐそうとにこやかに笑ってみせた。
診察を終え、クリニックから帰路につく雄高の足取りは重かった。
いつもよりは早い時間だ。夕刻までにはまだ間があるが、厚い雲に覆われた空はかなり暗くなっていた。今しも雨粒が落ちて来そうに見えた。
何日も同じ服装で出勤するわけにはいかない。マンションの部屋も管理しなければ。史彦と二人で契約したマンション。まだ一カ月と住んでいない。仮に引き払うとしたら、手続きはどうしたらいいんだろうか。
佐野と渡米する……想像レベルの事が、にわかに現実味を帯びてくる。このまま身一つで離日することが、すべての解決になるような気がしていた自分はどうかしている。
雄高はマンションへと足を向けた。
自分は間違ったことをしている。間違ったことをしようとしている……警戒警報が頭の中で鳴り響いている。
史彦、もういちど引き戻して欲しい。街灯の下に立っていてもいい。マンションのドアを開けたら口づけて欲しい。
雄高は鉄の扉に鍵を差し込んでノブを回した。
扉をあけて玄関で靴を脱ぐ。雄高は部屋がどこかよそよそしく感じられた。言葉にはできないけれど、妙に空気が軽いような気がする。丸一日以上締め切っていたのだから、もっと空気がよどんでいてもおかしくないのに。
首をひねりながらリビングへと進んだ。
どこが、とは指摘できないけれど……。雄高はぐるりと部屋を見渡してみた。まさか、泥棒でも入ったのだろうか? けれど、ソファの位置ひとつ変わっていないようだ。
視線を巡らせた雄高は、史彦の部屋の引き戸がわずかに開いていることに気づいた。
きちんと閉めていたはずなのに。
雄高は不信に思いながら、史彦の部屋を開けて絶句した。
なにもなかった。
ベッドもパソコンも、乱雑に置かれていた本も服も。なにひとつなくなっていた。
「あ……」
膝から力が抜けた。カーテンが外された窓から、曇天の空が見えた。雄高は空っぽの部屋を凝視した。やがて窓に雨粒がぶつかり、細い筋をつけ始めた。
史彦……本気だ。もう、この部屋には戻らない。雄高へのきっぱりとした決別。
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