時の舟と風の手跡

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過ぎる夏

門出の赤飯

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 八月、葛城家ではおじいの初盆を迎えた。菩提寺で僧侶にお経をあげてもらい、あとは葬儀以来の墓参となった。
 全員が正装でじりじりとした真夏の日差しに焼かれ、おじいの家に帰り着いた時には、皆へとへとだった。
 料理は、持ち寄りで風は存分に腕を振るった。おじいが亡くなってから、たまに訪れる竜幸くらいにしか料理を振る舞わなかったし、その料理もごくシンプルなものばかりだったので力が入った。
「ふうちゃんの茶碗蒸し、おいしかった。茶碗蒸しって冷やしても美味しいんだね。上にとろんとしたのかかってたの、プリンみたいだった」
 会食が終わり、皆で手分けして片づけをしている。茉莉花は風の隣で洗い物をしていた。
 今日は中学校の制服だ。丸襟の半袖でブラウスに細い臙脂色のリボン。エプロン持参と準備がいい。
「寿さんが使っていたレシピ本を見て作ったんだ。とろんとしていたのは葛。夏向きだなと思って。茉莉花ちゃんのレアチーズケーキも美味しかったよ。また腕を上げたね」
 茉莉花は嬉しそうに歯を見せて笑った。
「ちゃんと勉強もしているよ、安心して。順位だって落ちていない」
「それはすごいな」
 それから二人の間に沈黙があった。
 テーブルの上はどんどん片付けられ、使った小皿やコップが茉莉花の両親や凪がキッチンへ運んでくる。竜幸はコーヒーの準備をしている。
「ねえ、ふうちゃん」
「ん」
「引っ越すの?」
「うん」
 風は大皿をぐるりと洗い、茉莉花にそっと手渡した。
「愛媛の今治。六月に行ってきたんだ。いいところだった。人も土地も」
 茉莉花は、きゅっと唇をかみしめた。
「海がね、きれいだった。しまなみ街道ってあるんだよ。それで……」
 瀬戸内の島が思いがけないほど近くにあって、風は驚いた。
「船を見て、おじいのことを思い出してた」
 青い海を白い船がゆく。おじいの船は長い長い航海を終えて夕日の中に消えていった。そんなふうに思えた。
「おじいの、まなざしをね。懐かしく思った」
「まなざし?」
「そう、ただこの家にいて、ぼくらを見ていた。あのまなざし。居るだけで安心できる」
「そうだね」
「ぼくはおじいを助けになればと同居を始めたけど、それは違ってて、ぼくのほうが助けられていたんだよ」
 心と体を壊して、あまり働けないことや、結婚がご破算になったこととか、どうでもいいよと。言葉に出さなくても、風には感じ取れていた。
 そっか、と茉莉花はほんのりと笑む。
「わたしね、進路まだどうするか分からないけど、がんばってみる。がんばって見つけたい。今はお菓子を作るの楽しいし、最近は英語も面白いなって思う」
 やりたいことや知りたいことが、たくさんあると話す茉莉花を風はまぶしく感じた。
「まずは高校に合格しないと」
「分かってますー。努力する、小さき者なりにね」
 唇をとがらせたあと茉莉花は破顔した。屈託ない笑顔を見て風は、ほっとした。
 茉莉花はおじいの葬儀の席で泣いていた。
 お花見の日が最後になるなんて、部活があっても勉強を教わりに来ていたらよかったのに、と。
 深く落ち込み、忌み明け法要のときは、料理にほとんど手を付けなかった。
 誰もが、あの日が最後になるなんて思わなかった。おじいがいることが、当たり前すぎて「最後」がくるなんて思わなかった。それは風も凪もあまり違わなかったのだ。
 救いは、おじいは苦しむことなく眠っているうちに亡くなったことだった。
「おじい、ひとりで寂しくなかったのかな」
 ドラマや映画で見るような、家族に見守られての旅立ちにはならなかったことを悔やんだ。
「そうだね。でも誰かお迎えに来てくれたんじゃないかな」
 たとえば、寿さんとか、と風は思った。自分が隠した秘密をようやくみつけたのね、と。
 そうだったらいいと風は思った。
「いつごろ、行くの?」
「九月下旬の予定」
 そう、と言ったあと茉莉花はうつむいた。
「さびしくなるね」
「すぐ帰ってくるかも。シッポ巻いてね。逃げることには慣れてるし」
 茉莉花がようやく、クスクスと笑った。
「遊びに行きたいな。四国なんて行ったことないもん」
「お父さんお母さんと一緒に来ればいいよ」
 うん、と茉莉花は元気にうなずいた。

 九月の旅立ちの日の朝は早かった。
「七時前に家を出て、向こうにつくのは午後を回ってからって、すげえ遠いな。あ、凪からむこうの人たちにお土産渡してほしいって預かってる」
 竜幸は、風のスーツケースをガラガラと車へ押していった。
 お盆が終わってから、風は家の片づけをした。必要な物は最小限向こうへ送り、人に譲れる物は譲り、処分するものは処分した。
「向こうで冷蔵庫とか電化製品を買うのか」
 車から戻ってきた竜幸が、縁側から風に声をかける。
「会社に聞いたら、社員寮には家電がついてるから、ほとんど買わないで済むって」
「至れり尽くせりだな」
 がらんとした室内を見渡して風は小さくため息をついた。
 たくさんの出来事があったような気がするが、わずか二年と少しのことだ。
 おじいの家をリフォームして暮らしをスタートさせて、茉莉花が毎週金曜日に勉強を教わりに来るようになり、竜幸が家を返せと乗り込んできて、おじいを海辺の施設まで同級生に会わせるために連れていって。
 ケアマネの太田に出したお菓子や、茉莉花のバレンタインデーに巻き込まれたことなど。
 証券会社を辞めず、婚約者と結婚していたらどんな自分になっていただろうか。
 たらればの世界線を考えるのは止めだ。風は家族たちの写真をひとつにまとめた写真たてを鞄に納めた。
「おーい、飛行機に遅れるぞ!」
 竜幸の声に、風は立ち去りがたい家に別れを告げた。
「そろそろ行こうか」
 風は深呼吸をすると、玄関の鍵をかけた。
「これ。夏樹さんに頼まれた」
 車の助手席へ座ると、竜幸がほんのりと温かい持ち重りのする紙袋を風によこした。
「朝飯だとさ。朝早いし、自分たちは見送りに行けないからって」
 たしかに、空港でパンか何かを買って食べようと思っていた。緊張しているのか、あまり空腹感はないが。
 紙袋を開けてみると、ほわんと湯気が顔にあたったような気がした。中にはラップにくるまれた三角のおむすびが三個、並んで入っていた。ふつうのおむすびにしては、海苔のかおりではなく、ほのかに甘いような……。
「赤飯だ、うわ信じられない。母さんが作ったのかな、いや、父さんかも」
 料理が得意と言いがたい母親が、赤飯を炊くとは思えなかった。
「夏樹さんじゃない? 母親だから。風のお祝いに」
「お祝い……かなあ」
 風はラップをむいて、赤飯をひとくちかじった。小豆のほんのりとした甘さと餅米が混ぜて炊かれたご飯が、もちもちとして、噛むとなんとも口の中が気持ちよい。
「お祝いだろ。風の門出だ」
「たまには、いいこと言いますね」
 風は思わず憎まれ口を叩いた。そうしないと、なんだかさびしい別れになるような気がして。
 車は県道から国道に出て、ラッシュの車列に合流した。


 六月のことだ。
 風は愛媛の松山空港へ降り立った。
「かつらぎさーん!」
 空港へ迎えに行くとは事前に知らされてあったが、まさか五人もいると思わなかったので風は少しばかりたじろいだ。
 髪を真っ赤に染めている野間が、「葛城様 ようこそ愛媛へ」と書かれたスケッチブックを胸にかざしている。
 ご当地のゆるキャラと、みかんがあちこちに飾られた空港は小さいけれど、明るくワクワクするような雰囲気があった。
 思ったより背が高かった野間は風の荷物を預かり、想像通りに小柄だった伊東がぺこりと頭をさげた。たしか、二十六とか聞いたが、と風は首をかしげた。ふわっとした花柄のワンピースのうえに、丈の短い手編み風のニットのボレロを着ていて、モニター越し見たよりも更に幼く見えた。
 ほかのメンバーもリモート会議で見知った顔ばかりで、風は安堵した。
「今治は、ここから一時間くらいかかるんですけど」
 陽気に笑って、野間は運転席でハンドルを握った。風は助手席に、伊東をはじめ残り四人は後部座席に乗り込んだ。
「夜は地酒のうまい店を予約してますからね。と、いっても会社と経営母体が一緒のとこなんですけど」
 風は知らなかったが、会社はIT事業だけではなく、わずかだが飲食業も手掛けていた。
 後部座席の女性陣はにぎやかにおしゃべりを始めたが、伊東は話題を振られても返事をする様子がない。しかし、それを皆が気にするふうもない。
 風はてっきり道路から海が見えるのかと思ったが、自動車道は山の中を通るらしかった。
美波みなみ……伊東とオレ、いとこなんですよ。びっくりしたでしょう、美波は感極まるとちょっと腰が抜けるというか、きを失うというか」
 それは大丈夫なんだろうか、と風は不安に思って後部座席を覗いた。伊東はコーヒーの紙コップを手に、窓の外を見ていた。
 心地よい車の揺れと、たわいのない会話で、風は朝からの緊張感がほどけ、いつしか眠ってしまった。

「葛城さん、起きれますか」
 風は野間に名前を呼ばれて目を開けた。
「す、すみません。寝てしまって」
「かまいませんよ、疲れたでしょう。ちょっと外に出ませんか」
 時刻は五時を回り、日暮れを迎えていた。ドアを開けると、目の前に絶景が広がっていた。
「来島海峡大橋です。眺めがいいでしょう」 
 野間が海を指さして教えた。
 瀬戸内の海に浮かぶ小さな島々に橋脚が立って、白い橋が本州まで続いている。あまりにスケールが大きく、海は青く、風は息をのんだ。
 空は、青から赤へのグラデーションに染まり、船が夕日にきらめく海を進む。
 おおーい。
 風はおじいの声が聞こえたような気がした。海をゆく船に、おじいが乗っている幻を見た。
「葛城さん」
 野間が驚いたように風に声をかけた。野間のほうに振り向いた風は、自分の頬を涙が濡らしていることに初めて気づいた。
「す、すみません、おかしいですよね」
 葬儀の時にも泣きはしなかったのに、どうしていきなり涙が堰を切ったように流れたのか。
 ハンカチを取り出そうとジャケットのポケットに手を入れる風に、伊東がすっとハンカチを差し出した。
「使ってください」
 伊東の声と差し出した手は、かすかにふるえていた。風は涙が止まらぬままで、伊東を見た。
「葛城さん、大切な方を亡くされたんです。泣いていいんです。誰も笑いません」
 それは小さな声だった。眉を寄せて伊東まで泣きそうな顔をしていた。もしかしたら、伊東なりの精いっぱいの励ましだったのかもしれない。
 風は渡されたタオル地のハンカチを目に当て、海をよぎる船を見つめていた。
 同乗してきた皆も、風を一人にしておいてくれた。どれくらい時間が経ったか、空にはもう一番星が輝いていた。
「ありがとうございます。落ち着きました」
 風は、いやな顔ひとつせず、ずっと待っていてくれた同僚に頭を下げた。
「一晩中、泣いていてもいいんですよ?」
 伊東は心配そうに風の顔を見上げた。その様子がぎゃくに可笑しくて風は思わず吹き出してしまった。
「大丈夫です、一晩中は泣きません」
「ハンカチ、さしあげます」
 伊東は顔を赤くして、小走りに車へ行くとさきに乗り込んでしまった。
「いいハンカチでしょう。水分をよく吸うんですよ」
 野間に言われて風は手の中のハンカチを見つめた。
「さあ、食事に行きましょう」
 野間に促され、風たちはまた車に乗った。先に座席に戻っていた伊東は、窓のほうに顔をむけたままだった。伊東の耳は赤くなったままだった。
 
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