いつか結ぶ、その実を

ビター

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 休日、ノンは図書館へ走っていった。九日間働いてようやくめぐってきた休みだ。ノンは肩に、前回よりも大きめの水筒を斜めにかけた。ワンピースのポケットにはおにぎりを二つ入れ、息を弾ませて走る。
 コチのところで、ユーナのワンピースを縫えるのだと思うだけで、うれしくてでたらめな歌を歌って、ときどき両足を揃えてぴょんぴょんとジャンプした。
 ノンは九日間、仕事で糸の始末や簡単な手縫いをしながら、クジャクを縫い進めることを夢想していた。つい小さく笑って周りから奇異の目で見られ、監督官からは睨まれた。クジャクのことを考えていると、食事や終業までの時間があっというまに感じられるのだ。
「そういえば、ミシン……」
 ノンは立ち止まって、いちど天井を見上げた。
 ――ミシンを使えないこと、悲しいとかくやしいとか考えることがなかった。
 同期の中で、ただひとりミシンを与えられないことを、ノンはすっかり忘れていた。
「へーんなの」
 ノンは図書館まで、片足で交互に跳んでいった。

 いつも通り、ノンは図書館を囲う有刺鉄線の切れ目を服を引っかけないようにくぐると、図書館の扉の隙間を抜けた。
「おはようございます。わたしは」
「コチ、おはよう。先に水をあげてくるね」
 ノンはコチにあいさつすると、まっすぐに中庭へ走っていった。りんごの木は前回とどこも変わっていなかった。相変わらず、幹にも枝にもみずみずしさからは程遠く、乾いたままだ。
 ノンは肩から外した水筒の水を半分ほど、カラカラに乾いた木の根元へそそいだ。
 木が息を吹き返して、枝にりんごの実がたわわになるのをノンは想像した。
「つやつやで赤い実だったなあ」
 ノンは一度だけ見たりんごの実が、枝に鈴なりになるのを想像するだけでワクワクする。
 木の根本をよく見ると、わずかに緑が芽吹いていた。それはあまりに小さくささやかだったが、枯れた芝生のなかで緑色に輝いていた。
 ノンは小さく歓声をあげると、くるりとターンをした。ワンピースの裾がわずかに拡がる。
「これでよしっ」
 ノンは腰に手を当てて宣言すると、コチのところへと戻った。
「また水やりをしてきたのですか?」
 コチが半ば呆れたようにノンに言った。ノンはうなずくと、カウンター裏の空き箱に仕舞っていたユーナのワンピースを引っ張り出してきた。
「会いたかったよ、クジャクさん」
 ノンは刺繍のクジャクに頬を寄せた。そして、自分のワンピースのポケットから、丸くまとめた糸を何個も出してカウンターに並べた。
「青の糸がありますね」
「あのね、色物のシャツを縫う作業が回ってきたの。青いシャツをたくさん縫ったんだ。だから、いつもより張り切って掃除したんだよ」
 ノンは胸を張ってコチに報告した。
 青い糸は、クジャクの羽にするのにちょうどいい。ユーナの描いた線に沿って縫えば、華やかになるだろう。ノンは出来上がりを思い描くと、夢見心地になった。
「あとは、いつもの白い糸だけど、お姉さんがやってたとおりに続けてみる」
 ノンはポケットから小さなネルの布地を取り出した。布地に刺した針を抜くと、白い糸を針穴に通して前回のように並縫いを重ねた。
「貴重な休みをここで潰していいのですか」
 コチは針を動かすのに夢中なノンへ声をかけた。
「みんなは、洗濯が終わったら広場に行ってトークンでジュースやおかしに交換したり、労働歌の集いに行ったりするけど、あたしはここがいい」
 何度も細かく針を抜き差しして、ようやく僅な一角が糸で埋まる。気が遠くなるような作業だ。
「誰かにやりなさいって言われてやるんじゃなく、自分がやりたいの。いつもはうんざりするような縫い方でも、これは違う。楽しいんだよ」
 ノンは丁寧に作業を続けた。白いくじゃくの顔が少しずつ浮かんでくるようだ。
「あ、でも、つぎの休みの日は来られないかもしれない。理容の順番なんだ」
 ノンの前髪と襟足は、不揃いに伸び始めている。それでも、十分に短いのだが。
「あたしも、コチみたいに長い髪がいいなあ。いろんな髪型ができるから」
「髪が短くても、あなたはとてもすてきですよ」
 思わぬコチの誉め言葉に、ノンは照れくさくて、頭をかいた。
「あ、ここ、縫い方が違うよ」
 ノンはカウンターにワンピースを広げてコチに見せた。
「そうですね、違いますね」
「やり方、この本には無いみたい」
 先日書棚から持ってきた本にはない縫い方だ。まるで小さな鎖が繋がっているように見える。
「これは刺繍ですね。やり方は」
「わかった、裁縫の本は五の棚!」
 ノンは椅子から元気よく立ち上がると、行きなれた五の棚へ駆け寄った。
「コチ、何だっけ?」
「刺繍ですよ。ああ、字が難しいですか」
 ノンは裁縫の本があつまる棚を、手当たり次第に抜き出しては中を確認した。
「あった!」
 十数冊目で、めくったページにワンピースへ縫われているのと同じものを見つけた。
「そういえば、これ、お姉さんが刺していたの、あたし見ていた」
 就寝前のお針のけいこの時に、ユーナが練習用の布に縫い付けて見せてくれた。
「眠くて、あたしは半分ねちゃっていたから。もっとちゃんと教わっておけばよかった」
 いま思えば、ユーナだとて疲れていただろうに。ユーナはノンが舟をこぎ始めると、無理強いさせることはなかった。
 ――もう就寝の時間だね。無理しないで休みましょう。
 目じりの下がった優しい顔立ちのユーナの、穏やかな声をノンは思い出した。
 いまさらながら、ユーナの好意を無駄にしていたように感じ、ノンの胸はチリリと痛んだ。
 ノンは目を皿のようにして、書かれてある縫い方をつぶさに見つめた。
「これも、コチのとこに置いとく」
 ノンは本を小脇に抱えて立ち上がり、もう一度本棚を見たとき、あることに気づいて声をあげた。
「あった! 数字、あったよ!」
 ノンは本棚に並ぶ本の細い背に、数字が書かれたシールが貼ってあるのに気づいた。
 埃で汚れて見落としていたのだ。
593ごーきゅーさん594ごーきゅーよん!」
 ノンはコチのところへ急いで戻ると、シールを指で示した。
「そうですね、分類番号です」
「ブンルイバンゴウ?」
「同じ仲間どうしで、本を分けてあるのです」
 そんな仕掛けがあったのか、とノンはしばしポカンとした。
「知ってるなら、すぐに教えてくれたらいいのに」
「自分で見つけたほうが、楽しいじゃないですか」
 コチはしれっとした風情で言うと、ノンに笑いかけたように見えた。
「じゃあ、お姉さんのメモの数字。ここにある本のこと? お姉さんは図書館に来たことがあるの?」
「利用者の個人情報はお教えできません」
 先日の男性たちに言ったことと、おなじ言葉をコチは繰り返した。
 ノンは唇を尖らせると、メモに書かれた数字の棚を探した。五の棚とは反対側、二や三の棚。
「なんだか、こわい」
 二、三と表示板がつけられた本棚がある一角は、壁全体が黒く煤けている。
 ノンは真っ黒な煤をかぶった本棚の並ぶ場所へ足を踏み入れた。燃えたのが何時かは分からないが、まだ焦げ臭い匂いが残っている。よくみると、燃えた跡のある棚がたくさんあった。床材も焼けて炭化している部分が目立つし、そもそも本棚の本も燃えたらしく、本の形のまま炭になっている。薄暗くて気味が悪い。まるで陰に隠れて誰かがいるみたいだ。
 ノンは悪い妄想を追い出したくて、頭を振ってからユーナのメモをひろげた。
「に、さん……」
 棚から燃え残った本を抜いてみると、以前カウンターのあたりで見た本のように、中は黒く塗られていた。かろうじて残された文字も、ノンには難しすぎて手も足も出ない。
「コチー、わかんないよ」
 ノンが音をあげる。
「こちらに戻ってきてください」
 ノンは、本を戻すとコチのところへと退散した。カウンターに戻って安堵し振り返ると、さっき本を見ていたところからずっと黒い足跡がついていて、ノンはぎょっとした。
「足跡、拭いたほうがいいかな。こないだの人たちに見つかったら」
「そのままにしておきましょう。間違って誰かが入ってきたと思われた方がいいです。顔や服を触らずにいてください。手も汚れているはずです」
 コチに言われてノンは両手を広げて見た。ノンの手は、煤で真っ黒に汚れていた。
「水が残っているのなら、それで手を洗ってください。どのみち、その手では何も触れませんよ」
 ノンはコチの言葉に従って、中庭へ行くと、水筒の水で手を洗った。ノンは、なんだか疲れ切ってコチのところへ帰っていくと、椅子に座ってため息をついた。
「言葉を覚えましょう」
「え? 言葉? あたし、ふつうにしゃべっているよ」
「話し言葉ではなく、書き言葉を覚えるのです」
 あちらに、とコチは顔をあげて入口すぐの左手にある小さな部屋を左手で指ししめした。
「あそこの部屋に、辞書があります。それを持ってきてください」
「じしょ、って、何? わかんないよ」
 ノンは困惑してワンピースの胸のあたりをつかんだ。
「これです。大きさはこの通り」
 コチはカウンターに映像を映し出した。【初級国語辞典】と書かれた厚い本が浮かび上がる。ノンは初めて見るコチの機能に目を丸くした。
「わかりますね」
 ノンはうなずくと、すぐに入口左手の小部屋へ行った。入口の扉には、色とりどりのガラスで何かの人物や生き物が描かれてあった。その扉を開けると、低い書棚がたくさん並んでいる。
 小さな本、薄くてきれいな色彩で絵が描かれた本、小さな椅子と机が二組。見たこともない光景にノンは瞬間心を奪われた。
「見つけましたか」
 ノンは、コチの声に我に返り、【初級国語辞典】をなんとか見つけた。ノンはカラフルな本を片端から開いてみたい衝動にかられた。
 でも、それは次に来たときにと決めて、ノンは一つうなずいて、扉を閉めた。
「これだよね」
「そうです。これにはたくさんの言葉が書かれてあります」
 辞書を開いてみると、たしかに細かく多くの文字がならんでいる。
「読みましょう」
「は?」
「読むのです」
 コチはごく当然のことのように話したが、ノンは目を白黒させた。
「持ち帰っていいの?」
「それは駄目です」
 ノンはひとしきり唸った。持ち帰っては危ない、けれどこの本を隅々読んだなら、ユーナのメモの意味がきっと分かるだろう。だったら。
 ノンは辞書をひらくと、最初の五ページほどを破った。
「なんてことを!」
 コチが叫ぶのをノンは初めて聞いた。
「これなら、持って帰れるから」
 破ったページを折って、ノンはワンピースのポケットにいれた。
「呆れますが現状、最適解でしょう。いたしかたありません」
「コチ、わざと難しい言葉を使ったでしょう?」
 コチはつんとすまして口を閉ざした。
「でも、これが全部読めたら、コチの言葉が分かるんだね」
 お姉さんの気持ちも分かるかもしれない。ノンはポケットを軽く叩いた。
「あ、お腹すいた!」
 ノンが持ってきたおにぎりにかぶりつくと、コチが、わずかに肩をすくめたように見えた。
 数字が並ぶユーナのメモを何気に裏返したノンの目に、あらたな文字列が飛び込んできた。
「……カンポウ、ニカイ……?」
 ノンはわずか一行の文字に目が釘付けになる。おにぎりを食べる手を止めて、ノンはコチのほうを見やった。
「じぶんで考えて、ってコチはいうんだよね」
 コチは入り口正面に視線を固定したままだった。
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