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恩の章
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昭和五年、五月。
「おんー」
恩、いずこにおる。
和尚の声を恩は楠の木の上で聞いた。恩、と三度呼ばれた。
恩はしかたなく、目の前で踊る小さな影たちを名残惜しく見つめてから、枝を揺らした。影は涼し気な香りを残し霧散した。
「そこにおったのか。おりといで。お客様だ」
恩は巧みに枝をわたると、なんなく地上へと降りた。
恩は短い着物のよごれを払う。和尚も曲がった腰を伸ばし着物の袖で、恩の顔をこすった。
「きみが恩くん?」
恩がうなずくと、背の高い男性は恩を頭のてっぺんから足のつま先まで、じっくりと見ていた。
「初めまして。わたしは寒川、寒川由岐哉です」
寒川の眼鏡の奥の目は細く、お世辞にあたたかみがあるという感じではなかった。寒川は田舎には珍しい洋装だった。膝まである一重のコートと、五月にしては徳利のセーターという厚着だった。
「耳は聞こえるけれど、口はきけないとか」
恩は寒川から目を逸らさずに、うなずいた。
「寒川さん、その御囲様とやらの勤めは何歳まででございましょうか」
「おおむね十三才くらいかな」
「では恩は七年ほどなのですね。その後は」
和尚はたぶん、口のきけない恩の将来を慮っての問いかけだろう。
「恩くんさえよければ、わたしの助手になってもらえればと思いますよ」
寒川の話を聞いて、和尚はちいさくため息をついて首肯した。
「でも、その前にこの子に適正があるかどうか、確かめさせてください」
そう言うと、寒川は腰につるした目の細かい小さな篭を恩の目の前に差し出した。
恩の鼻がぴくりと動いた。
あの匂いがする。山椒の木の葉っぱのような、独特の涼し気な匂いが。何か音がした。恩は右耳に手を当てて、目をつぶった。
「……」
言葉を正しく聞き取ることはできなかったが、何かが篭の中でしゃべっている。
恩は顔を上げて、篭を指さしついで右耳のところで指を握ったり広げたりした。
「何か、聞こえるようです」
和尚がなかだちをすると、恩はうなずいた。
「そうか」
寒川は頬に降りてきた灰色の髪を人差し指で耳にかけた。ほんのわずか、寒川は口を閉ざして恩を見つめた。寒川はかすかに眉を寄せ、口を引き結んだ。恩はその様子を不思議な気持ちで見上げていた。
まるで、泣き出すまえみたいだ。
まさか大人は泣いたりしないだろうと恩は思った。事実、寒川はメガネの位置を直すと、すぐ何事もなかったかのように和尚に話しかけた。
「適性があるようなので、引き取らせてもらえますか。礼はこのとおり」
寒川はコートの懐に手を入れて、厚みのある封筒を和尚に差し出した。
「いえ、礼などいりませぬ。わたしは先行き短いおいぼれ。恩をひとり、この荒れ寺へ残すことはできない。それだけが気がかりで。恩を必要として養育していただけるならば、それだけでいいのです」
痩せて腰の曲がった和尚は、恩の頭を撫でた。
「恩、寒川さまと一緒に行きなさい。腹いっぱい、飯を食わせてもらえる」
突然の別れを言い渡され、恩は思わず和尚の袖をつかんだ。
「行きなさい。近頃は世の中が騒がしい。わたしと山の奥にいては、おまえの人生のためにならん。寒川さまと町へ行け。学べることは、学べ。自分のために」
恩は和尚に抱きついた。和尚の着物に染み付いた線香のにおいを忘れまいと思った。
恩と寒川はその日のうちに、山寺から町まで歩いていくことになった。
「町へついたら、銭湯と床屋へ行く。どのみちそのなりでは、海城家へは行けない」
振り向いた寒川は恩の頭から、つま先まで遠慮ない視線を浴びせた。
「海城家へは、明日行こう。車を手配するから」
恩は寒川の話は、意味が分からないことだらだったが、ひとまずついていくしかないと、小さな体で寒川の後を追った。
「きみは、和尚の遠縁と聞いたが」
恩はうなずいた。
「母親はきみを生んで亡くなった?」
また恩はうなずいた。正確には違う。出産途中で息がなくなった母親から、恩は生まれた。だから、恩は母親の顔を知らない。
「わたしと似たようなものだな」
恩は思わず寒川を見上げた。寒川は恩のほうを見ず、まっすぐ前に顔を向けたままだ。
「もっとも、わたしの母は息を吹き返したが」
恩のなかに一瞬生じた共感は、すぐにしぼんだ。寒川の母は生きているのだ。恩は着物の胸をつかんで唇をかんだ。
「どちらがいいとは、言えないが」
春の日差しの下にいてさえ、なぜか寒川だけ冷涼な風をまとっているように、恩には感じられた。
「御囲様が向いていればいい」
御囲様の説明もないまま、寒川は山道を下っていく。置いていかれまいと、恩は寒川についていく。やがて家々から立ち上る煙が見えてきた。
恩は町へ降りてきたのは初めてだった。密集する家の屋根や、細い通りを行くたくさんの人のざわめきに恩は息をのんだ。
「さあ、行くぞ。おまえはこの先、こちらで暮らすのだから」
「おんー」
恩、いずこにおる。
和尚の声を恩は楠の木の上で聞いた。恩、と三度呼ばれた。
恩はしかたなく、目の前で踊る小さな影たちを名残惜しく見つめてから、枝を揺らした。影は涼し気な香りを残し霧散した。
「そこにおったのか。おりといで。お客様だ」
恩は巧みに枝をわたると、なんなく地上へと降りた。
恩は短い着物のよごれを払う。和尚も曲がった腰を伸ばし着物の袖で、恩の顔をこすった。
「きみが恩くん?」
恩がうなずくと、背の高い男性は恩を頭のてっぺんから足のつま先まで、じっくりと見ていた。
「初めまして。わたしは寒川、寒川由岐哉です」
寒川の眼鏡の奥の目は細く、お世辞にあたたかみがあるという感じではなかった。寒川は田舎には珍しい洋装だった。膝まである一重のコートと、五月にしては徳利のセーターという厚着だった。
「耳は聞こえるけれど、口はきけないとか」
恩は寒川から目を逸らさずに、うなずいた。
「寒川さん、その御囲様とやらの勤めは何歳まででございましょうか」
「おおむね十三才くらいかな」
「では恩は七年ほどなのですね。その後は」
和尚はたぶん、口のきけない恩の将来を慮っての問いかけだろう。
「恩くんさえよければ、わたしの助手になってもらえればと思いますよ」
寒川の話を聞いて、和尚はちいさくため息をついて首肯した。
「でも、その前にこの子に適正があるかどうか、確かめさせてください」
そう言うと、寒川は腰につるした目の細かい小さな篭を恩の目の前に差し出した。
恩の鼻がぴくりと動いた。
あの匂いがする。山椒の木の葉っぱのような、独特の涼し気な匂いが。何か音がした。恩は右耳に手を当てて、目をつぶった。
「……」
言葉を正しく聞き取ることはできなかったが、何かが篭の中でしゃべっている。
恩は顔を上げて、篭を指さしついで右耳のところで指を握ったり広げたりした。
「何か、聞こえるようです」
和尚がなかだちをすると、恩はうなずいた。
「そうか」
寒川は頬に降りてきた灰色の髪を人差し指で耳にかけた。ほんのわずか、寒川は口を閉ざして恩を見つめた。寒川はかすかに眉を寄せ、口を引き結んだ。恩はその様子を不思議な気持ちで見上げていた。
まるで、泣き出すまえみたいだ。
まさか大人は泣いたりしないだろうと恩は思った。事実、寒川はメガネの位置を直すと、すぐ何事もなかったかのように和尚に話しかけた。
「適性があるようなので、引き取らせてもらえますか。礼はこのとおり」
寒川はコートの懐に手を入れて、厚みのある封筒を和尚に差し出した。
「いえ、礼などいりませぬ。わたしは先行き短いおいぼれ。恩をひとり、この荒れ寺へ残すことはできない。それだけが気がかりで。恩を必要として養育していただけるならば、それだけでいいのです」
痩せて腰の曲がった和尚は、恩の頭を撫でた。
「恩、寒川さまと一緒に行きなさい。腹いっぱい、飯を食わせてもらえる」
突然の別れを言い渡され、恩は思わず和尚の袖をつかんだ。
「行きなさい。近頃は世の中が騒がしい。わたしと山の奥にいては、おまえの人生のためにならん。寒川さまと町へ行け。学べることは、学べ。自分のために」
恩は和尚に抱きついた。和尚の着物に染み付いた線香のにおいを忘れまいと思った。
恩と寒川はその日のうちに、山寺から町まで歩いていくことになった。
「町へついたら、銭湯と床屋へ行く。どのみちそのなりでは、海城家へは行けない」
振り向いた寒川は恩の頭から、つま先まで遠慮ない視線を浴びせた。
「海城家へは、明日行こう。車を手配するから」
恩は寒川の話は、意味が分からないことだらだったが、ひとまずついていくしかないと、小さな体で寒川の後を追った。
「きみは、和尚の遠縁と聞いたが」
恩はうなずいた。
「母親はきみを生んで亡くなった?」
また恩はうなずいた。正確には違う。出産途中で息がなくなった母親から、恩は生まれた。だから、恩は母親の顔を知らない。
「わたしと似たようなものだな」
恩は思わず寒川を見上げた。寒川は恩のほうを見ず、まっすぐ前に顔を向けたままだ。
「もっとも、わたしの母は息を吹き返したが」
恩のなかに一瞬生じた共感は、すぐにしぼんだ。寒川の母は生きているのだ。恩は着物の胸をつかんで唇をかんだ。
「どちらがいいとは、言えないが」
春の日差しの下にいてさえ、なぜか寒川だけ冷涼な風をまとっているように、恩には感じられた。
「御囲様が向いていればいい」
御囲様の説明もないまま、寒川は山道を下っていく。置いていかれまいと、恩は寒川についていく。やがて家々から立ち上る煙が見えてきた。
恩は町へ降りてきたのは初めてだった。密集する家の屋根や、細い通りを行くたくさんの人のざわめきに恩は息をのんだ。
「さあ、行くぞ。おまえはこの先、こちらで暮らすのだから」
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