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恩の章
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その晩、恩は寒川と小さな宿に泊まった。
時間は分からないが、すでに町全体が寝静まったようで、外からの物音はしない。たまに蛙の声が遠く近く聞こえるだけだ。
隣の布団で休んでいる寒川は、いびきひとつせず静かに眠っている。和尚はいびきをかいて寝ていたので、静かだと逆に恩の目はさえた。
それに、宿へ来る前に入った銭湯で恩は寒川の肌を見て驚いたのだ。
寒川の肩から両腕、ひじのあたりまで奇妙な彫り物がしてあったのだ。もちろん、寒川以外にも彫り物をしている男性はめずらしくなかった。ボタンの花や般若、魚やいかつい鳥、観音様を彫っている人もいた。それらを初めて見る恩は口を開けたままになってしまったが、寒川の素肌を見て思わず口が閉じた。
寒川の肌に刻まれた意匠は、黒一色で文字のように見えた。ただ、恩が知るひらがなや寺で見慣れた漢字などではなかった。
むろん、そんな寒川は好奇の目で見られていたが、本人はまったく気にせず、恩の体を遠慮なしに洗った。着てきた着物は、シラミがついているからと捨てられ、少しくたびれてはいるが清潔な着物を渡された。
蛙の声を聞きながら、恩は眠っている寒川の横顔を見た。月明かりに照らされる寒川の横顔は、青白くととのい、あまり生気を感じられなかった。
息をしているだろうか。
恩は自分の床から抜け出すと、寒川の布団に潜り込んだ。
「……っ、おまえか……」
てっきり怒られるかと思ったが、寒川は体を横にずらして恩が休めるようにしてくれた。
「寝小便はしないだろうな」
目を閉じたままの寒川に尋ねられ、恩は寒川の手を取ると頬に当ててうなずいて見せた。
「寝ろ。明日は早いぞ」
寒川は息をしていた。恩はようやくほっとして、和尚とは違うにおいを感じながら眠った。
翌朝、朝食が済むと寒川が手配した車に、恩は初めて乗った。座席は毛足の短い布が貼られていた。手触りがうっとりするほど柔らかく、恩は何度も撫でた。
「口は閉じていろ」
寒川にそう指示された理由は、車がしばらく走ってから分かった。町を抜けると、とたんに道は凸凹になり、口を開けていると舌を噛みそうになった。それよりも、恩は胸のあたりにむかつきを感じていた。なんだか頭がぐらぐらして、戻しそうになる。
「車、止めて」
寒川は車を止めさせると、恩を外に出した。外に出たとたんに恩は道端に吐いた。胸のむかつきは取れたが、せっかく食べた恩にとってはご馳走だった食事を吐いたことが悲しくなった。
「朝飯を食べすぎたな。注意するべきだった。大丈夫、海城でも米の飯は食わせてもらえる」
ほら、乗るぞ。と寒川は恩を抱き上げて車に乗せた。
「もうじき、海が見える。それから、高い煙突もな」
海、煙突という知らない言葉に恩は首を傾げた。
車に体をゆすられ続け、また道が少し平たんになったとき、居眠りをしていた恩は寒川に肩をたたかれた。
「海だ」
目の前に真っ青なものが広がっていた。空ではない、五月の陽光に青く光るもの。ときおり、青い表面に白い線が伸びたり縮んだりする。白い鳥がたくさん飛んでいる。
「そのうち、みあきる。海城家は、あそこだ。もう見えるだろう」
寒川が指さす方、山の中腹に張り付くようにして大きな家があった。
時間は分からないが、すでに町全体が寝静まったようで、外からの物音はしない。たまに蛙の声が遠く近く聞こえるだけだ。
隣の布団で休んでいる寒川は、いびきひとつせず静かに眠っている。和尚はいびきをかいて寝ていたので、静かだと逆に恩の目はさえた。
それに、宿へ来る前に入った銭湯で恩は寒川の肌を見て驚いたのだ。
寒川の肩から両腕、ひじのあたりまで奇妙な彫り物がしてあったのだ。もちろん、寒川以外にも彫り物をしている男性はめずらしくなかった。ボタンの花や般若、魚やいかつい鳥、観音様を彫っている人もいた。それらを初めて見る恩は口を開けたままになってしまったが、寒川の素肌を見て思わず口が閉じた。
寒川の肌に刻まれた意匠は、黒一色で文字のように見えた。ただ、恩が知るひらがなや寺で見慣れた漢字などではなかった。
むろん、そんな寒川は好奇の目で見られていたが、本人はまったく気にせず、恩の体を遠慮なしに洗った。着てきた着物は、シラミがついているからと捨てられ、少しくたびれてはいるが清潔な着物を渡された。
蛙の声を聞きながら、恩は眠っている寒川の横顔を見た。月明かりに照らされる寒川の横顔は、青白くととのい、あまり生気を感じられなかった。
息をしているだろうか。
恩は自分の床から抜け出すと、寒川の布団に潜り込んだ。
「……っ、おまえか……」
てっきり怒られるかと思ったが、寒川は体を横にずらして恩が休めるようにしてくれた。
「寝小便はしないだろうな」
目を閉じたままの寒川に尋ねられ、恩は寒川の手を取ると頬に当ててうなずいて見せた。
「寝ろ。明日は早いぞ」
寒川は息をしていた。恩はようやくほっとして、和尚とは違うにおいを感じながら眠った。
翌朝、朝食が済むと寒川が手配した車に、恩は初めて乗った。座席は毛足の短い布が貼られていた。手触りがうっとりするほど柔らかく、恩は何度も撫でた。
「口は閉じていろ」
寒川にそう指示された理由は、車がしばらく走ってから分かった。町を抜けると、とたんに道は凸凹になり、口を開けていると舌を噛みそうになった。それよりも、恩は胸のあたりにむかつきを感じていた。なんだか頭がぐらぐらして、戻しそうになる。
「車、止めて」
寒川は車を止めさせると、恩を外に出した。外に出たとたんに恩は道端に吐いた。胸のむかつきは取れたが、せっかく食べた恩にとってはご馳走だった食事を吐いたことが悲しくなった。
「朝飯を食べすぎたな。注意するべきだった。大丈夫、海城でも米の飯は食わせてもらえる」
ほら、乗るぞ。と寒川は恩を抱き上げて車に乗せた。
「もうじき、海が見える。それから、高い煙突もな」
海、煙突という知らない言葉に恩は首を傾げた。
車に体をゆすられ続け、また道が少し平たんになったとき、居眠りをしていた恩は寒川に肩をたたかれた。
「海だ」
目の前に真っ青なものが広がっていた。空ではない、五月の陽光に青く光るもの。ときおり、青い表面に白い線が伸びたり縮んだりする。白い鳥がたくさん飛んでいる。
「そのうち、みあきる。海城家は、あそこだ。もう見えるだろう」
寒川が指さす方、山の中腹に張り付くようにして大きな家があった。
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