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恩の章
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寒川の退出が、お開きの合図になったようだった。海城夫妻も椅子から立ち上がった。
「あとは頼んだぞ」
糸穂は頭を下げて、海城夫妻を見送った。
「参りましょう」
恩は糸穂に手を引かれ、着替えをした座敷から右手の襖へと進んだ。替えを手伝った女中も無言で後をついてくる。いくつかの座敷を横切ると、細い廊下で区切られた場所へ出た。屋敷のまんなかなのか、日がささず、昼間だというのに小さな白熱球が廊下に沿ってぶら下がっていた。初めて見る電灯が珍しく、上ばかりを見ていた恩は糸穂に呼ばれた。
「この部屋がわたしたちの部屋です」
恩は糸穂と一緒に部屋へ入った。四段の箪笥がひと竿あるだけの、殺風景な部屋だ。
女中は敷居を跨がず、扉を閉めた。と、外から鍵がかかる音がした。とたんに部屋は真っ暗になった。思わず恩は糸穂へすがりついた。
「……明かりをつけましょうね」
糸穂は暗闇の中で、すいっと動くと裸電球にあかりをつけた。隅々まで明るくなった部屋は、さしたる広さではなかった。布団を二組敷いたら、一杯かもしれない。ただ不思議なことに、部屋の壁の一つが真っ黒に塗られていた。
「食事は、扉の横に。壁の下に引き戸があるでしょう。そちらから差し入れてもらいます」
その引き戸は、とても小さかった。恩でもくぐれないほどだ。きっと幼児でないと無理だろう。
「扉と同じように、鍵が外からかかります」
風呂と、御不浄は入り口と反対側にあると案内された。つまり、生活の全てはこちらで完結する。
「恩、御囲様のつとめは、あの部屋で寝ることです」
糸穂が指さす方には、漆黒の壁がある。よく見ると、扉があった。
「だいじょうぶ。ひとつだけ約束を守れるのなら、なんの害もないのです」
糸穂は腰を下ろして恩と目線を合わせると、恩の両肩に手を置いた。
「御囲部屋の中で、あなたは名前を呼ばれる。なんどもなんども呼ばれる。けれど、絶対に応えてはなりませんよ」
赤い瞳に見入られ、恩は思わず糸穂の手から逃れようとした。しかし糸穂の指の力は思ったよりも強かった。
「さいわい、あなたは声が出ないとききました」
さいわいなのだろうか、恩は眉をしかめた。
「あちらの声に耳を傾けなさい」
まずは、聞き分けができるように、と糸穂は言ったが何を聞き分けるのか恩には分からなかったし、できるようになれるとも思えなかった。
「たまには、表の座敷へも出られます。辛抱するのです」
恩はうなずくしかなかった。
海城家の食事は、昨日にまして豪華だった。カレイの煮つけ、わかめの酢の物、人参や干ししいたけの煮物、ハマグリの吸い物に白米。どれも、恩は初めて食べるものばかりだった。寒川の言っていたことは嘘ではないと思った。
糸穂はあまり食べなかった。
「おいしい? ごはんのお代わりは?」
さまざまに声をかけてくれるが、糸穂は小さく笑った。
「恩、わたしとあなたとでは、どうやって『話し』をするのかしら」
恩は首を傾げた。糸穂は眉根を少し寄せ、おかしいような悲しいような顔をした。
「わたしは目があまり見えないし、あなたは声が出せない」
言われてみればそうだ。恩は箸をおいて糸穂を見た。
「そうね、わたしの手か壁を叩いて。『はい』なら一回、『いいえ』なら二回。そっとよ」
恩は箸で茶碗を一回叩いた。くすくすと糸穂は笑った。
「お茶碗はだめ。お行儀が悪いから」
笑顔の糸穂はとてもきれいでかわいらしいと恩は幼いながらに思った。
恩の食事が終わり腹が落ち着くと、とろとろと眠気が押し寄せてきた。
糸穂は恩の手を引くと、真っ黒な壁に作られた扉の前に連れてきた。
「中へ入って。名前を呼ばれても応えない。いいですね」
恩は糸穂の手を一回そっと叩いた。糸穂はうなずくと、重い木でできた襖を開けた。
部屋はさらに小さく感じられた。明かりひとつない部屋は、空気が密で重苦しく体にのしかかる。恩は畳に寝転んだ。
目をつぶっても開けても、どちらも闇だ。
外に糸穂がいると思えば、心細さも少しはましだ。慣れない車に乗って疲れたことと、満腹になったことで、恩は眠い目をこすったが、壁にもたれかかってじき眠ってしまった。
どれくらい眠っただろう。恩はふと目が覚めた。なぜ目を覚ましたのだろう。恩はかぎなれた匂いを感じた。山椒の葉の匂いだ。恩は壁から体を起こしてまわりをうかがったが、変わらずの闇だ。
「おん」
心臓が信じられないくらい、大きく打ったと感じた。男の声だった。
「おん、へんじをしろ、おん」
おん、おん、となんども声がする。男の声は木霊のように響く。どこから声がしているのか、分からない。
恩は壁を両手で探った。ひろい部屋ではない、必ず扉が見つかるはずだと。しかし、塗りこめられたように壁はどこまでも滑らかで扉は消えていた。
「おん!」
足が何かにつまずき、恩は転んだ。息が苦しい。恩は畳にうずくまった。
「へんじをしろ」
恩は耳をふさいで体を丸め、ただふるえた。
「つまらぬな」
力強いなにかに突き飛ばされ、目を開けると糸穂がいた。
黒い部屋から弾き飛ばされたのだとわかるまで、時間がかかった。
「あとは頼んだぞ」
糸穂は頭を下げて、海城夫妻を見送った。
「参りましょう」
恩は糸穂に手を引かれ、着替えをした座敷から右手の襖へと進んだ。替えを手伝った女中も無言で後をついてくる。いくつかの座敷を横切ると、細い廊下で区切られた場所へ出た。屋敷のまんなかなのか、日がささず、昼間だというのに小さな白熱球が廊下に沿ってぶら下がっていた。初めて見る電灯が珍しく、上ばかりを見ていた恩は糸穂に呼ばれた。
「この部屋がわたしたちの部屋です」
恩は糸穂と一緒に部屋へ入った。四段の箪笥がひと竿あるだけの、殺風景な部屋だ。
女中は敷居を跨がず、扉を閉めた。と、外から鍵がかかる音がした。とたんに部屋は真っ暗になった。思わず恩は糸穂へすがりついた。
「……明かりをつけましょうね」
糸穂は暗闇の中で、すいっと動くと裸電球にあかりをつけた。隅々まで明るくなった部屋は、さしたる広さではなかった。布団を二組敷いたら、一杯かもしれない。ただ不思議なことに、部屋の壁の一つが真っ黒に塗られていた。
「食事は、扉の横に。壁の下に引き戸があるでしょう。そちらから差し入れてもらいます」
その引き戸は、とても小さかった。恩でもくぐれないほどだ。きっと幼児でないと無理だろう。
「扉と同じように、鍵が外からかかります」
風呂と、御不浄は入り口と反対側にあると案内された。つまり、生活の全てはこちらで完結する。
「恩、御囲様のつとめは、あの部屋で寝ることです」
糸穂が指さす方には、漆黒の壁がある。よく見ると、扉があった。
「だいじょうぶ。ひとつだけ約束を守れるのなら、なんの害もないのです」
糸穂は腰を下ろして恩と目線を合わせると、恩の両肩に手を置いた。
「御囲部屋の中で、あなたは名前を呼ばれる。なんどもなんども呼ばれる。けれど、絶対に応えてはなりませんよ」
赤い瞳に見入られ、恩は思わず糸穂の手から逃れようとした。しかし糸穂の指の力は思ったよりも強かった。
「さいわい、あなたは声が出ないとききました」
さいわいなのだろうか、恩は眉をしかめた。
「あちらの声に耳を傾けなさい」
まずは、聞き分けができるように、と糸穂は言ったが何を聞き分けるのか恩には分からなかったし、できるようになれるとも思えなかった。
「たまには、表の座敷へも出られます。辛抱するのです」
恩はうなずくしかなかった。
海城家の食事は、昨日にまして豪華だった。カレイの煮つけ、わかめの酢の物、人参や干ししいたけの煮物、ハマグリの吸い物に白米。どれも、恩は初めて食べるものばかりだった。寒川の言っていたことは嘘ではないと思った。
糸穂はあまり食べなかった。
「おいしい? ごはんのお代わりは?」
さまざまに声をかけてくれるが、糸穂は小さく笑った。
「恩、わたしとあなたとでは、どうやって『話し』をするのかしら」
恩は首を傾げた。糸穂は眉根を少し寄せ、おかしいような悲しいような顔をした。
「わたしは目があまり見えないし、あなたは声が出せない」
言われてみればそうだ。恩は箸をおいて糸穂を見た。
「そうね、わたしの手か壁を叩いて。『はい』なら一回、『いいえ』なら二回。そっとよ」
恩は箸で茶碗を一回叩いた。くすくすと糸穂は笑った。
「お茶碗はだめ。お行儀が悪いから」
笑顔の糸穂はとてもきれいでかわいらしいと恩は幼いながらに思った。
恩の食事が終わり腹が落ち着くと、とろとろと眠気が押し寄せてきた。
糸穂は恩の手を引くと、真っ黒な壁に作られた扉の前に連れてきた。
「中へ入って。名前を呼ばれても応えない。いいですね」
恩は糸穂の手を一回そっと叩いた。糸穂はうなずくと、重い木でできた襖を開けた。
部屋はさらに小さく感じられた。明かりひとつない部屋は、空気が密で重苦しく体にのしかかる。恩は畳に寝転んだ。
目をつぶっても開けても、どちらも闇だ。
外に糸穂がいると思えば、心細さも少しはましだ。慣れない車に乗って疲れたことと、満腹になったことで、恩は眠い目をこすったが、壁にもたれかかってじき眠ってしまった。
どれくらい眠っただろう。恩はふと目が覚めた。なぜ目を覚ましたのだろう。恩はかぎなれた匂いを感じた。山椒の葉の匂いだ。恩は壁から体を起こしてまわりをうかがったが、変わらずの闇だ。
「おん」
心臓が信じられないくらい、大きく打ったと感じた。男の声だった。
「おん、へんじをしろ、おん」
おん、おん、となんども声がする。男の声は木霊のように響く。どこから声がしているのか、分からない。
恩は壁を両手で探った。ひろい部屋ではない、必ず扉が見つかるはずだと。しかし、塗りこめられたように壁はどこまでも滑らかで扉は消えていた。
「おん!」
足が何かにつまずき、恩は転んだ。息が苦しい。恩は畳にうずくまった。
「へんじをしろ」
恩は耳をふさいで体を丸め、ただふるえた。
「つまらぬな」
力強いなにかに突き飛ばされ、目を開けると糸穂がいた。
黒い部屋から弾き飛ばされたのだとわかるまで、時間がかかった。
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