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恩の章
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「恩の様子はどうなの」
「まだ熱がさがらないです」
襖の向こうで声がした。奥様と糸穂が話している。恩は熱い瞼を薄く開けて、声のする方を見た。
「もう三日でしょう」
すみません、と糸穂が詫びている。御囲様にむいていなかったのかしら、と奥様は言い残して足音が去っていった。
御囲様に向いていなかったら、自分はどうなるのだろうか。恩は高い天井の梁を見上げた。寒川は、恩が御囲様を勤め上げたなら、自分の助手にしてもいいと言っていた。それは遥かな約束だ。今の自分のことではない。
襖が開いて、糸穂の浅黄色の着物の裾が目に入った。
「起きていた、恩。まだ熱が高い」
糸穂の冷たい手が額に乗せられた。
「もう少し養生しなくては、ね」
恩は布団にもぐってふるえた。この先、熱が下がらなかったら、下がっても、やはり恩には御囲様は無理だと言われたら。
でも、もう一度あの真っ暗な部屋に入れと命じられたらと考えるだけで、ふるえが来る。
あそこは異界への入り口なのだ。今まで自分が見てきた小さな影のような者たちとは格が違う。
「恩」
糸穂が静かに語りかけてきた。恩は布団の中で丸まったまま、耳を押さえた。
「わたしも、最初のときには恐ろしくて、やはり熱を出して寝込んだわ。十日もね」
わたしも、とは糸穂も御囲様だったのか。恩は耳から手を離した。
「御囲部屋から、生きて出られただけですごいの。適性があるのよ」
恩はおずおずと布団から顔を出した。糸穂が枕元に正座して恩の顔を覗いた。
「名前を呼ばれても、返事をしてはいけないと教えたわね」
恩は糸穂の手をそっと一回叩いた。
「応えたら、返事をしたら、向こうに連れていかれてしまう」
思わず恩は糸穂の手を握った。糸穂は恩の小さな手を両手で包んだ。
「わたしが御囲様を辞めてから、二人の子が来た」
糸穂はそこで口を閉ざした。恩は糸穂を見上げた。糸穂の表情は、眼鏡の黒いレンズのせいでよく見えなかったが固く結んだ唇が、かすかにふるえていた。
「恩、あなたならできる。だいじょうぶよ」
恩の体は冷たい風に一瞬吹かれたように感じた。だいじょうぶなわけがない。でも、六歳の恩には選ぶことなどできないのだ。
二日後、恩は再び御囲部屋の前にいた。
名前を呼ばれても、応えぬこと。それに糸穂からさらに別の助言を受けた。
部屋の真ん中に正座すること。
じっとして、声に耳を傾けること。
糸穂が開けた木の襖の向こうには、光さえ飲み込むような黒がある。恩は赤い振袖姿で部屋の真ん中へいざって行った。
襖が閉められ目を閉じると、上下左右の間隔が消えていく。まるで体が宙に浮いたようにも、波にもまれるようにも感じがしてくる。
恩は目を開けた。いつものにおいがしたのだ。
「おん」
呼ばれて恩は背すじを伸ばした。ふるえる喉で、息を吐いて吸った。
「おん……」
どこか感心したように声は怒鳴ることなく、静かになった。恩はそっとあたりを見わたした。
壁のひとつがぼんやりと光っていた。やがて格子があらわれた。
――障子?
見るまに壁には障子が生まれた。障子に小さな影が映った。それは見ると桜吹雪のようだった。季節外れの桜の散るさまを恩はきれいだと思った。
とん、と右手で音がした。続いて左、後ろ……。
恩はぎくしゃくと首を動かした。
ぼんやりとした靄の塊が見えた。恩は全身から冷汗が流れた。体が小刻みにふるえる。
――耳を澄ませて。
糸穂の声が聞こえたような気がした。恩はもう一度深呼吸すると目をつぶった。
『来年の夏は寒いぞ』
恩はそれきり気を失った。
次に恩が目を覚ますと、表座敷に寝かされていた。小さな声がする方を見ると、寒川が椅子に座って本を読んでいた。
「お、気がついたか」
恩は起き上がって、寒川の首に抱きついた。重い、といいつつ寒川は恩をしばらく抱き上げていてくれた。
「じょうできだ、恩。何か聞けただろう」
恩を下すと、寒川は恩に尋ねた。恩はうなずいたが、伝えるすべを持たないことに気づいた。
「早いところ、字を覚えろ」
それから寒川は、家の者を探してか座敷から出て行った。自分の不出来さに恩は唇をかみしめた。と、また小さな声がした。
寒川がいた椅子の横の卓に、寒川が腰からさげている小さな虫かごが残されてあった。声は篭の中からした。
寒川に初めて会ったとき、篭のなかの声を聞いた。話している言葉はまるで出鱈目のように聞こえた。よくよく篭の中を見ようと、恩は顔を近づけた。編み目の隙間から中がわずかに見えた。
きらっと光るものが目だと気づいいた時には、恩は目を押さえて倒れた。
「恩!」
寒川が駆け寄る気配がして、恩は抱き起された。
「篭をのぞいたな」
うかつだったと寒川は顔をゆがめた。恩は目を押さえていた手をおそるおそる外した。幸いなことに、目は見えた。
「……夏?」
不意に寒川は、篭を見てつぶやいた。思わず恩はうなずいていた。
「夏がどうした」
今度は恩の方を見て寒川は尋ねてきた。恩は立ち上がると、体を両手で抱いてふるえるしぐさをして見せた。
「さむい、のか。夏が寒いのか」
恩はうなずいて見せた。
「まだ熱がさがらないです」
襖の向こうで声がした。奥様と糸穂が話している。恩は熱い瞼を薄く開けて、声のする方を見た。
「もう三日でしょう」
すみません、と糸穂が詫びている。御囲様にむいていなかったのかしら、と奥様は言い残して足音が去っていった。
御囲様に向いていなかったら、自分はどうなるのだろうか。恩は高い天井の梁を見上げた。寒川は、恩が御囲様を勤め上げたなら、自分の助手にしてもいいと言っていた。それは遥かな約束だ。今の自分のことではない。
襖が開いて、糸穂の浅黄色の着物の裾が目に入った。
「起きていた、恩。まだ熱が高い」
糸穂の冷たい手が額に乗せられた。
「もう少し養生しなくては、ね」
恩は布団にもぐってふるえた。この先、熱が下がらなかったら、下がっても、やはり恩には御囲様は無理だと言われたら。
でも、もう一度あの真っ暗な部屋に入れと命じられたらと考えるだけで、ふるえが来る。
あそこは異界への入り口なのだ。今まで自分が見てきた小さな影のような者たちとは格が違う。
「恩」
糸穂が静かに語りかけてきた。恩は布団の中で丸まったまま、耳を押さえた。
「わたしも、最初のときには恐ろしくて、やはり熱を出して寝込んだわ。十日もね」
わたしも、とは糸穂も御囲様だったのか。恩は耳から手を離した。
「御囲部屋から、生きて出られただけですごいの。適性があるのよ」
恩はおずおずと布団から顔を出した。糸穂が枕元に正座して恩の顔を覗いた。
「名前を呼ばれても、返事をしてはいけないと教えたわね」
恩は糸穂の手をそっと一回叩いた。
「応えたら、返事をしたら、向こうに連れていかれてしまう」
思わず恩は糸穂の手を握った。糸穂は恩の小さな手を両手で包んだ。
「わたしが御囲様を辞めてから、二人の子が来た」
糸穂はそこで口を閉ざした。恩は糸穂を見上げた。糸穂の表情は、眼鏡の黒いレンズのせいでよく見えなかったが固く結んだ唇が、かすかにふるえていた。
「恩、あなたならできる。だいじょうぶよ」
恩の体は冷たい風に一瞬吹かれたように感じた。だいじょうぶなわけがない。でも、六歳の恩には選ぶことなどできないのだ。
二日後、恩は再び御囲部屋の前にいた。
名前を呼ばれても、応えぬこと。それに糸穂からさらに別の助言を受けた。
部屋の真ん中に正座すること。
じっとして、声に耳を傾けること。
糸穂が開けた木の襖の向こうには、光さえ飲み込むような黒がある。恩は赤い振袖姿で部屋の真ん中へいざって行った。
襖が閉められ目を閉じると、上下左右の間隔が消えていく。まるで体が宙に浮いたようにも、波にもまれるようにも感じがしてくる。
恩は目を開けた。いつものにおいがしたのだ。
「おん」
呼ばれて恩は背すじを伸ばした。ふるえる喉で、息を吐いて吸った。
「おん……」
どこか感心したように声は怒鳴ることなく、静かになった。恩はそっとあたりを見わたした。
壁のひとつがぼんやりと光っていた。やがて格子があらわれた。
――障子?
見るまに壁には障子が生まれた。障子に小さな影が映った。それは見ると桜吹雪のようだった。季節外れの桜の散るさまを恩はきれいだと思った。
とん、と右手で音がした。続いて左、後ろ……。
恩はぎくしゃくと首を動かした。
ぼんやりとした靄の塊が見えた。恩は全身から冷汗が流れた。体が小刻みにふるえる。
――耳を澄ませて。
糸穂の声が聞こえたような気がした。恩はもう一度深呼吸すると目をつぶった。
『来年の夏は寒いぞ』
恩はそれきり気を失った。
次に恩が目を覚ますと、表座敷に寝かされていた。小さな声がする方を見ると、寒川が椅子に座って本を読んでいた。
「お、気がついたか」
恩は起き上がって、寒川の首に抱きついた。重い、といいつつ寒川は恩をしばらく抱き上げていてくれた。
「じょうできだ、恩。何か聞けただろう」
恩を下すと、寒川は恩に尋ねた。恩はうなずいたが、伝えるすべを持たないことに気づいた。
「早いところ、字を覚えろ」
それから寒川は、家の者を探してか座敷から出て行った。自分の不出来さに恩は唇をかみしめた。と、また小さな声がした。
寒川がいた椅子の横の卓に、寒川が腰からさげている小さな虫かごが残されてあった。声は篭の中からした。
寒川に初めて会ったとき、篭のなかの声を聞いた。話している言葉はまるで出鱈目のように聞こえた。よくよく篭の中を見ようと、恩は顔を近づけた。編み目の隙間から中がわずかに見えた。
きらっと光るものが目だと気づいいた時には、恩は目を押さえて倒れた。
「恩!」
寒川が駆け寄る気配がして、恩は抱き起された。
「篭をのぞいたな」
うかつだったと寒川は顔をゆがめた。恩は目を押さえていた手をおそるおそる外した。幸いなことに、目は見えた。
「……夏?」
不意に寒川は、篭を見てつぶやいた。思わず恩はうなずいていた。
「夏がどうした」
今度は恩の方を見て寒川は尋ねてきた。恩は立ち上がると、体を両手で抱いてふるえるしぐさをして見せた。
「さむい、のか。夏が寒いのか」
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