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恩の章
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一郎が消えた。
海城家では、夜通し子どもの名前を呼び、裏山まで探し回った。
恩は、やけどの手当をしてもらい、糸穂とふたりで部屋に入れられた。
恩と糸穂、それと食事を運んだ姉やは、海城から詰問された。
ことに、食事用の戸を閉め忘れた姉やは、海城から殴られこそしなかったが、恫喝され通しで泣き崩れた。
うどんをかぶった恩に動転し、助けを求めて戸を開け放ったままで、姉やは母屋へ走った。優しい姉やを誰が責められるだろうか。
けれど一郎が消えた事実は消せない。そして壁の亀裂が直った。これは、何を意味しているのだろうか。
恩は、御囲部屋の前に行った。糸穂は恩の気配に気づいて首を横に振った。
「やめて、恩。今、いまは」
恩は糸穂の元へ戻って、肩を二回叩いた。糸穂の頬がこわばった。
「どうしても、どうしてもなの」
恩は糸穂の肩を一回叩いた。おそらく糸穂にも分かっている。たぶん、御囲部屋は元に戻っていると。
「旦那様に伝えなければならないのね」
恩は浴衣のまま、御囲部屋に足を踏み入れて足が止まった。背筋を悪寒が駆け上がったのだ。
一瞬でわかった、御囲部屋は六尺四方では無くなっていた。
すうっと香る山椒のにおい。足を踏み出すごとに、湿り気が肌にまとわりつく。
恩は正座すると、頭を下げて、あれらを待った。かすかな風が部屋にそよぐ。風が旋回する。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。
「恩、久しぶりだな」
声は愉快げに恩に語りかけた。目を開けた恩は、いつもの靄がいることを認めた。
「二度と会えぬかと……」
そこで靄は忍び笑いをした。しかしたちまち高笑いに変わった。高い声、低い声、かすれた声、男か女か分からぬ声で。笑いはしばらく続いた。
「また、この先のことをおまえに教えよう。海城にも告げよ。安心しろと」
恩は肩を力強く突かれた。
「恩」
糸穂の声がして、恩は目を開けた。気づくと、部屋の外へ弾き飛ばされていた。最初の時のように。
「一郎さんは」
靄たちは一郎については、一言もふれなかった。恩は糸穂の手を二回叩くしかなかった。
一郎の探索は三日三晩続いた。
姉やは、海城に責められ泣き疲れ、倒れた。そのまま里の父母が迎えに来て去って行った。
夫人は、半狂乱で食事も休息も取らず、一郎の名前を呼んで屋敷じゅうをさ迷い歩いた。今は医者と看護婦が付きっきりで奥座敷で休まされているという。
恩は昨夜、靄から言われたことを紙に書いて、食事を持ってきた下男に渡した。
一郎が消えて四日目に、ようやく寒川が来た。ことの次第を表座敷で、恩と糸穂から聞いて寒川は長いため息をついた。
「ああ、そうか」
これも事故だと海城を言い含めるのだろうか。
「まず、茶でも飲もうか」
寒川は出された茶を口に運んだが、二口も飲まぬ間に、海城が足音を踏み鳴らして襖を手荒に開けた。
「寒川! どうしてくれる、一郎を返せ!」
すっかり頬がこけ、目に隈を作った海城が寒川にどなった。
「こいつらの不手際で、だいじな一人息子が消えたんだぞ」
こいつらと指をさされ、座敷の隅に座る恩と糸穂の体が強ばった。寒川は視線をわずかに恩と糸穂へ送ったが、茶を飲み続けた。
「海城さま、不幸な事故でしたね」
いつもと変わらぬ表情を寒川は海城に向けた。
「事故、だと」
海城は体をわなわなとふるわせた。寒川は、海城の感情の波に飲まれることなく、茶碗に蓋をして茶托に戻した。
「海城さま、選んでください」
えらぶ、だと? と海城は振り上げた拳を静かに下ろした。
「この先、御囲部屋を使うか使わぬか」
「なっ」
海城が息を飲むのを恩は確かに見た。
「使うのなら、受け入れることです。使わないというなら、恩はわたしが引き取ります。糸穂は行き先がある、だな」
糸穂は無言でうなずいた。恩は思わず糸穂を見つめた。糸穂には、身寄りのあてがあるのを初めて知ったのだ。
「どうなさいますか?」
「それを、わたしに決めろというのか」
絞り出すような海城の声に、寒川はただうなずいた。
「怪異をそばに置くとは、こういうことなのです。甘い汁だけ吸えはしない」
突然、海城は寒川が飲んだ茶碗を掴んで座卓に叩きつけた。
恩はとっさに糸穂をかばって、きつく目を閉じた。陶器が砕ける音が座敷に響いた。こわごわと目を開けた恩は、寒川の頬から血が流れているのに気づいた。
寒川は上着のポケットから手拭を出して頬を押さえた。
「よろしいですか?」
寒川は痛みさえ感じないふうに、海城へ尋ねた。
「恩、糸穂! 二度とわたしの前に出てくるな!」
捨てぜりふを残して、海城は母屋へ戻っていった。寒川は、頬の傷を二三度指で撫でたあと、ため息をついた。
「だそうだ」
「あ、あの。寒川さま、結局わたしたちは……?」
糸穂は寒川におずおずと尋ねた。
「海城は、御囲部屋を手放せるわけがないのだよ。たとえ、非のないお前たちを憎んだとしてもな」
話はこれで終わりだ、と寒川は言うと立ち上がった。
「もうお帰りなのですか」
糸穂は不安げに、自身の着物の袖をつかんだ。恩も隣でうなずいて見せた。
「歓迎された客でもないからな。なに、海城はお前たちに手を出せない。会うのは、また来年だな」
寒川はそういうと、帰って行った。
海城家では、夜通し子どもの名前を呼び、裏山まで探し回った。
恩は、やけどの手当をしてもらい、糸穂とふたりで部屋に入れられた。
恩と糸穂、それと食事を運んだ姉やは、海城から詰問された。
ことに、食事用の戸を閉め忘れた姉やは、海城から殴られこそしなかったが、恫喝され通しで泣き崩れた。
うどんをかぶった恩に動転し、助けを求めて戸を開け放ったままで、姉やは母屋へ走った。優しい姉やを誰が責められるだろうか。
けれど一郎が消えた事実は消せない。そして壁の亀裂が直った。これは、何を意味しているのだろうか。
恩は、御囲部屋の前に行った。糸穂は恩の気配に気づいて首を横に振った。
「やめて、恩。今、いまは」
恩は糸穂の元へ戻って、肩を二回叩いた。糸穂の頬がこわばった。
「どうしても、どうしてもなの」
恩は糸穂の肩を一回叩いた。おそらく糸穂にも分かっている。たぶん、御囲部屋は元に戻っていると。
「旦那様に伝えなければならないのね」
恩は浴衣のまま、御囲部屋に足を踏み入れて足が止まった。背筋を悪寒が駆け上がったのだ。
一瞬でわかった、御囲部屋は六尺四方では無くなっていた。
すうっと香る山椒のにおい。足を踏み出すごとに、湿り気が肌にまとわりつく。
恩は正座すると、頭を下げて、あれらを待った。かすかな風が部屋にそよぐ。風が旋回する。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。
「恩、久しぶりだな」
声は愉快げに恩に語りかけた。目を開けた恩は、いつもの靄がいることを認めた。
「二度と会えぬかと……」
そこで靄は忍び笑いをした。しかしたちまち高笑いに変わった。高い声、低い声、かすれた声、男か女か分からぬ声で。笑いはしばらく続いた。
「また、この先のことをおまえに教えよう。海城にも告げよ。安心しろと」
恩は肩を力強く突かれた。
「恩」
糸穂の声がして、恩は目を開けた。気づくと、部屋の外へ弾き飛ばされていた。最初の時のように。
「一郎さんは」
靄たちは一郎については、一言もふれなかった。恩は糸穂の手を二回叩くしかなかった。
一郎の探索は三日三晩続いた。
姉やは、海城に責められ泣き疲れ、倒れた。そのまま里の父母が迎えに来て去って行った。
夫人は、半狂乱で食事も休息も取らず、一郎の名前を呼んで屋敷じゅうをさ迷い歩いた。今は医者と看護婦が付きっきりで奥座敷で休まされているという。
恩は昨夜、靄から言われたことを紙に書いて、食事を持ってきた下男に渡した。
一郎が消えて四日目に、ようやく寒川が来た。ことの次第を表座敷で、恩と糸穂から聞いて寒川は長いため息をついた。
「ああ、そうか」
これも事故だと海城を言い含めるのだろうか。
「まず、茶でも飲もうか」
寒川は出された茶を口に運んだが、二口も飲まぬ間に、海城が足音を踏み鳴らして襖を手荒に開けた。
「寒川! どうしてくれる、一郎を返せ!」
すっかり頬がこけ、目に隈を作った海城が寒川にどなった。
「こいつらの不手際で、だいじな一人息子が消えたんだぞ」
こいつらと指をさされ、座敷の隅に座る恩と糸穂の体が強ばった。寒川は視線をわずかに恩と糸穂へ送ったが、茶を飲み続けた。
「海城さま、不幸な事故でしたね」
いつもと変わらぬ表情を寒川は海城に向けた。
「事故、だと」
海城は体をわなわなとふるわせた。寒川は、海城の感情の波に飲まれることなく、茶碗に蓋をして茶托に戻した。
「海城さま、選んでください」
えらぶ、だと? と海城は振り上げた拳を静かに下ろした。
「この先、御囲部屋を使うか使わぬか」
「なっ」
海城が息を飲むのを恩は確かに見た。
「使うのなら、受け入れることです。使わないというなら、恩はわたしが引き取ります。糸穂は行き先がある、だな」
糸穂は無言でうなずいた。恩は思わず糸穂を見つめた。糸穂には、身寄りのあてがあるのを初めて知ったのだ。
「どうなさいますか?」
「それを、わたしに決めろというのか」
絞り出すような海城の声に、寒川はただうなずいた。
「怪異をそばに置くとは、こういうことなのです。甘い汁だけ吸えはしない」
突然、海城は寒川が飲んだ茶碗を掴んで座卓に叩きつけた。
恩はとっさに糸穂をかばって、きつく目を閉じた。陶器が砕ける音が座敷に響いた。こわごわと目を開けた恩は、寒川の頬から血が流れているのに気づいた。
寒川は上着のポケットから手拭を出して頬を押さえた。
「よろしいですか?」
寒川は痛みさえ感じないふうに、海城へ尋ねた。
「恩、糸穂! 二度とわたしの前に出てくるな!」
捨てぜりふを残して、海城は母屋へ戻っていった。寒川は、頬の傷を二三度指で撫でたあと、ため息をついた。
「だそうだ」
「あ、あの。寒川さま、結局わたしたちは……?」
糸穂は寒川におずおずと尋ねた。
「海城は、御囲部屋を手放せるわけがないのだよ。たとえ、非のないお前たちを憎んだとしてもな」
話はこれで終わりだ、と寒川は言うと立ち上がった。
「もうお帰りなのですか」
糸穂は不安げに、自身の着物の袖をつかんだ。恩も隣でうなずいて見せた。
「歓迎された客でもないからな。なに、海城はお前たちに手を出せない。会うのは、また来年だな」
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