23 / 27
糸穂の章
6
しおりを挟む
糸穂は戒めを解かれた手で涙を拭くと、男に顔を向けた。
「落ち着いたか」
糸穂はうなずいて見せた。やれやれと小さく言ってから、糸穂の背後に目をやった。
「おまえはこっちに戻らんか」
振り返ると、糸穂の後ろには青年が控えていた。青年は膝の動きなどみせず、釣りあげられるようにして立ち上がると、滑るような動きで元の位置に戻っていった。
「さて、表の連中はおまえが持ち帰った言葉に喜んだか」
糸穂がうなずくと男は満足そうに顎をなでた。
「これからおまえが海城の主人といってもおかしくない。大人たちが右往左往する。見物だぞ」
――この家が良くなるのも悪くなるのも、おまえが握っているのと同じ。
トキが、話したことを糸穂は思い出した。今まで、ひとりで過ごすことがほとんどだった糸穂には、男が愉快そうに笑う理由がよく分からなかった。
「おまえは、こちらが過ごしやすくなるだろう。どうだ、目が見えるというのは?」
糸穂は、思わず大きくうなずいてしまった。うなずいてから、トキが、御囲部屋の連中はずる賢いと言っていたのを思い出して体が固くなった。
「そんなにびくつくな」
妙に優しい声音で男に言われ、糸穂は逆に警戒した。
「おまえは、決まりさえ守れたら、なんの心配もない」
男は立ち上がると糸穂へじわりと近寄った。立ち上がった男の大きさに糸穂は怯んだ。まるで天井に頭がぶつかるかと思うほどだった。しかし、明かりが浮かんでいる時点で、天井は消えていて果てない闇に、明かりがどこ迄も続いていた。
腰が抜けて動けない糸穂と男の間に、青年が割り込み、糸穂を背後に回した。
「どけ、新参者!」
一喝する声はあまりに大きく、空間にこだました。糸穂は耳をふさいだが、皮膚に痺れが走った。
「糸穂をよこせ。猿ぐつわをはずしてやる」
糸穂は両手で口をふさいだ。猿ぐつわをはずされたなら、きっと騙されて返事をしてしまうだろう。そうしたら、もう帰れなくなる。
男は鋭い舌打ちをすると、青年につかみかかった。
糸穂の眼前に、色と香りが奔流のごとく現れた。香りは花の香りだ。だったら、水気のある色とりどりの柔らかな手触りのもの、これは……。
――花……。
見ると青年は握りつぶされた肩口から、大量の花となって崩れていく。
とっさに伸ばした糸穂の腕は、青年の体を支えた。体は信じがたい軽さだった。
「猿ぐつわ、剥ぎ取ってやる」
男の声はいよいよ大きくなって耳を聾するほどだ。
崩れゆく体で、それでも青年は糸穂を守ろうとした。
「邪魔をするな!」
男がなおも吠え、青年を突き飛ばそうとしたその時だ。糸穂の背後で障子が勢いよく開く音がして何かが飛び出してきた。
「呼んだか」
くるりと軽やかに一回転して男の背後に着地したのは、真っ白な裃姿の赤い顔をした背の低い男だった。
「……猿」
猿と呼ばれた男は若いのか年寄りなのか、わからない風体をしていた。髪は裃と同じく白で、糸穂のように結んでいる。顔は真っ赤で、目が三つある。
糸穂は思わず自分の顔をさわって確かめた。目はふたつだ。黒の羽織の男の目もふたつ。
「……へんだな、おれの顔が怖くないのか」
猿と呼ばれた男の顔を、いつまでもまじまじと見つめる糸穂を妙に感じたようだ。
「ああ、こんなにしちゃって。乱暴なのはイヤだな」
猿は体の半分くらいが花になって崩れた青年を抱き起こした。
「しばらくすれば、元にもどる」
不機嫌な声で男は答えた。糸穂は青年が亡くなったわけではないと知り、胸を撫で下ろした。
「猿、おまえが来ると調子が狂う」
そうか、と猿は言うと崩れた青年を支える糸穂に笑いかけた。
「新しい御囲様だな。やっぱり御囲様は女の子がいい」
羽織の男は、盛大に舌打ちをした。
「かわいい子には、いいことを知らせよう」
猿は胸元から扇子を取り出し広げると、おどけるように踊って見せた。
「米を買い込むのは程ほどに。廃鉱になった鉄の山をひとつ買いな」
舞いに見とれていた糸穂の額を、猿はちょんと押した。
糸穂は御囲部屋から出されていた。
とたんに視界はぼやけた。
「落ち着いたか」
糸穂はうなずいて見せた。やれやれと小さく言ってから、糸穂の背後に目をやった。
「おまえはこっちに戻らんか」
振り返ると、糸穂の後ろには青年が控えていた。青年は膝の動きなどみせず、釣りあげられるようにして立ち上がると、滑るような動きで元の位置に戻っていった。
「さて、表の連中はおまえが持ち帰った言葉に喜んだか」
糸穂がうなずくと男は満足そうに顎をなでた。
「これからおまえが海城の主人といってもおかしくない。大人たちが右往左往する。見物だぞ」
――この家が良くなるのも悪くなるのも、おまえが握っているのと同じ。
トキが、話したことを糸穂は思い出した。今まで、ひとりで過ごすことがほとんどだった糸穂には、男が愉快そうに笑う理由がよく分からなかった。
「おまえは、こちらが過ごしやすくなるだろう。どうだ、目が見えるというのは?」
糸穂は、思わず大きくうなずいてしまった。うなずいてから、トキが、御囲部屋の連中はずる賢いと言っていたのを思い出して体が固くなった。
「そんなにびくつくな」
妙に優しい声音で男に言われ、糸穂は逆に警戒した。
「おまえは、決まりさえ守れたら、なんの心配もない」
男は立ち上がると糸穂へじわりと近寄った。立ち上がった男の大きさに糸穂は怯んだ。まるで天井に頭がぶつかるかと思うほどだった。しかし、明かりが浮かんでいる時点で、天井は消えていて果てない闇に、明かりがどこ迄も続いていた。
腰が抜けて動けない糸穂と男の間に、青年が割り込み、糸穂を背後に回した。
「どけ、新参者!」
一喝する声はあまりに大きく、空間にこだました。糸穂は耳をふさいだが、皮膚に痺れが走った。
「糸穂をよこせ。猿ぐつわをはずしてやる」
糸穂は両手で口をふさいだ。猿ぐつわをはずされたなら、きっと騙されて返事をしてしまうだろう。そうしたら、もう帰れなくなる。
男は鋭い舌打ちをすると、青年につかみかかった。
糸穂の眼前に、色と香りが奔流のごとく現れた。香りは花の香りだ。だったら、水気のある色とりどりの柔らかな手触りのもの、これは……。
――花……。
見ると青年は握りつぶされた肩口から、大量の花となって崩れていく。
とっさに伸ばした糸穂の腕は、青年の体を支えた。体は信じがたい軽さだった。
「猿ぐつわ、剥ぎ取ってやる」
男の声はいよいよ大きくなって耳を聾するほどだ。
崩れゆく体で、それでも青年は糸穂を守ろうとした。
「邪魔をするな!」
男がなおも吠え、青年を突き飛ばそうとしたその時だ。糸穂の背後で障子が勢いよく開く音がして何かが飛び出してきた。
「呼んだか」
くるりと軽やかに一回転して男の背後に着地したのは、真っ白な裃姿の赤い顔をした背の低い男だった。
「……猿」
猿と呼ばれた男は若いのか年寄りなのか、わからない風体をしていた。髪は裃と同じく白で、糸穂のように結んでいる。顔は真っ赤で、目が三つある。
糸穂は思わず自分の顔をさわって確かめた。目はふたつだ。黒の羽織の男の目もふたつ。
「……へんだな、おれの顔が怖くないのか」
猿と呼ばれた男の顔を、いつまでもまじまじと見つめる糸穂を妙に感じたようだ。
「ああ、こんなにしちゃって。乱暴なのはイヤだな」
猿は体の半分くらいが花になって崩れた青年を抱き起こした。
「しばらくすれば、元にもどる」
不機嫌な声で男は答えた。糸穂は青年が亡くなったわけではないと知り、胸を撫で下ろした。
「猿、おまえが来ると調子が狂う」
そうか、と猿は言うと崩れた青年を支える糸穂に笑いかけた。
「新しい御囲様だな。やっぱり御囲様は女の子がいい」
羽織の男は、盛大に舌打ちをした。
「かわいい子には、いいことを知らせよう」
猿は胸元から扇子を取り出し広げると、おどけるように踊って見せた。
「米を買い込むのは程ほどに。廃鉱になった鉄の山をひとつ買いな」
舞いに見とれていた糸穂の額を、猿はちょんと押した。
糸穂は御囲部屋から出されていた。
とたんに視界はぼやけた。
20
あなたにおすすめの小説
初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結保証】
星森 永羽
恋愛
王命により、辺境伯ロキアのもとへ嫁いだのは、金髪翠眼の美しき公爵令嬢スフィア。
だが、初夜に彼が告げたのは、愛も権限も与えないという冷酷な宣言だった。噂に踊らされ、彼女を「穢れた花嫁」と罵ったロキア。
しかし、わずか一日でスフィアは姿を消し、教会から届いたのは婚姻無効と慰謝料請求の書状──。
王と公爵の怒りを買ったロキアは、爵位も領地も名誉も奪われ、ただの補佐官として生きることに。
そして十年後、運命のいたずらか、彼は被災地で再びスフィアと出会う。
地位も捨て、娘を抱えて生きる彼女の姿に、ロキアの胸に去来するのは、悔恨と赦しを乞う想い──。
⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。
とっていただく責任などありません
まめきち
恋愛
騎士団で働くヘイゼルは魔物の討伐の際に、
団長のセルフイスを庇い、魔法陣を踏んでしまう。
この魔法陣は男性が踏むと女性に転換するもので、女性のヘイゼルにはほとんど影響のない物だった。だか国からは保証金が出たので、騎士を辞め、念願の田舎暮らしをしようとしたが!?
ヘイゼルの事をずっと男性だと思っていたセルフイスは自分のせいでヘイゼルが職を失っただと思って来まい。
責任を取らなければとセルフイスから、
追いかけられる羽目に。
【完結】婚約破棄されたので、引き継ぎをいたしましょうか?
碧井 汐桜香
恋愛
第一王子に婚約破棄された公爵令嬢は、事前に引き継ぎの準備を進めていた。
まっすぐ領地に帰るために、その場で引き継ぎを始めることに。
様々な調査結果を暴露され、婚約破棄に関わった人たちは阿鼻叫喚へ。
第二王子?いりませんわ。
第一王子?もっといりませんわ。
第一王子を慕っていたのに婚約破棄された少女を演じる、彼女の本音は?
彼女の存在意義とは?
別サイト様にも掲載しております
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
【完結】お父様の再婚相手は美人様
すみ 小桜(sumitan)
恋愛
シャルルの父親が子連れと再婚した!
二人は美人親子で、当主であるシャルルをあざ笑う。
でもこの国では、美人だけではどうにもなりませんよ。
【完結】身代わり皇妃は処刑を逃れたい
マロン株式
恋愛
「おまえは前提条件が悪すぎる。皇妃になる前に、離縁してくれ。」
新婚初夜に皇太子に告げられた言葉。
1度目の人生で聖女を害した罪により皇妃となった妹が処刑された。
2度目の人生は妹の代わりに私が皇妃候補として王宮へ行く事になった。
そんな中での離縁の申し出に喜ぶテリアだったがー…
別サイトにて、コミックアラカルト漫画原作大賞最終候補28作品ノミネート
【完結】クビだと言われ、実家に帰らないといけないの?と思っていたけれどどうにかなりそうです。
まりぃべる
ファンタジー
「お前はクビだ!今すぐ出て行け!!」
そう、第二王子に言われました。
そんな…せっかく王宮の侍女の仕事にありつけたのに…!
でも王宮の庭園で、出会った人に連れてこられた先で、どうにかなりそうです!?
☆★☆★
全33話です。出来上がってますので、随時更新していきます。
読んでいただけると嬉しいです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる