御囲部屋の子どもたち

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糸穂の章

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 糸穂が持ち帰った情報が、日本国内のことでなく欧州での戦争のことだろうと、海城たちは話していた。
 初めて御囲部屋に足を踏み入れてから、十日が過ぎた。糸穂はようやく熱が引けて起き上がった。そうはいっても、またすぐに御囲部屋に入るには、体力が回復していなかった。長く寝すぎたせいで、糸穂自身も起き上がるとめまいがして駄目だったのだ。
 七月を迎えて外は夏の暑さだったが、御囲部屋のある糸穂たちが寝起きする小部屋はなぜか涼しかった。
「やつらに名前を呼ばれたろう?」
 トキが布団の上に座った糸穂の髪を梳きながら話した。糸穂は小さくうなずいた。名前を呼ばれた時の、肌が粟立あわだつような感覚まで思い出せる。
「応えなくて、よかったよ」
「こたえたら、どうなるの」
 トキはしばし口をつぐんで、糸穂の長い髪を丁寧にとかして結んだ。
「こうしたほうが、いい」
 頭の高い位置でひとつに結われた髪を、糸穂は揺らしてみた。首元がずいぶんすっきりとして涼しく感じた。
「まるで馬の尻尾だ」
 トキの小さな笑い声が、糸穂に聞こえた。
「さて、と。やつらに名前を呼ばれて、応えたなら」
「こたえたなら?」
 トキはそこでまた、しばし間をあけた。
「帰ってこれなくなる」
 糸穂は首をかしげた。どこから? と。しかし、少し時間をかけて考えると、なんとなく分かった。
「この部屋に?」
「そう。こちらに帰ってこられない。向こうに行ったっきりだ」
 トキは糸穂の手をきゅっと握った。
「だから、御囲部屋の襖はいつもぴたりと閉めておくんだ。いいかい、必ずだよ」
 トキの真剣な声に気圧され、糸穂はただうなずいた。
「それに、やつらは親切に感じることもあるかも知れないが、ずる賢い。よくよく耳を澄ませて話を聞くんだ。軽々しく約束をしてもいけない」
「はい」
「こんなことは言いたくはないが、この家が良くなるのも悪くなるのも、おまえが握っているのと同じなんだ」
 いいね、とトキは糸穂に念を押した。こんな大きな家の命運を左右するとは糸穂には信じがたかった。ただ、目が見えるなら、何度でも御囲部屋に入りたいと、そればかりを思った。
 数日後、糸穂は体調がようやく戻った。御囲部屋に入る日が巡ってきた。

 糸穂はまた、後ろ手を結われ猿ぐつわをされた。ただ前と違ったのは、御囲部屋の中へ自ら歩いては入った。背後で襖が閉まると、もとより弱視の糸穂には黒塗りの箱の中に入った気がした。
 ゆっくりと膝をつくと、目の前に明かりが灯った。
 ひとつ、ふたつ、みっつ。
 明かりは数を増やしていった。糸穂は目をみはった。
 ――見える。明るい。
 視線を胸元へ向けると、赤い布地が分かった。目が、見える。
 山椒の香りに、糸穂は顔を上げた。
 いつの間にか、体格のよいあの男が正面に端座していた。前回は気づかなかったが、よくよく見れば黒の羽織を着ている。髪が短い。
 その後ろ側には顔を隠した青年がいる。青年は、光沢のある緑の着物を身にまとっている。髪は長く結わずに背中へ流しているようだ。
 糸穂の頬を涙が一筋、流れ落ちた。
「なぜ泣くか」
 口に猿ぐつわを噛まされている糸穂に説明できるわけがない。ただ、糸穂は肩をふるわせて泣いた。
 見えるということは、なんと……嬉しいことなのか。
 生家の離れで一人過ごしてきた糸穂は、うれしいと思うことには限りがあった。たとえば、年に一度か二度口に入る鮑か、雲丹。たとえば、ほんの時折顔を出す、幼い弟。
「腕をほどいてやれ。口は……うかつに話されてもまずいからそのままだ」
 男は青年に命じた。青年は、糸穂のそばに来ると、手拭いで縛られた手首をほどいてくれた。青年からは、山椒ではなく、甘い香りが薄く漂った。
「おまえが泣き止んだら、話をしようか」


 

 
 
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