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糸穂の章
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糸穂は自分の手を明かりにかざした。白く小さな手の先に、形の良い爪がある。
――ばあやが切ってくれたのは、これなんだ。
「そろそろいいか」
男がしびれを切らしたように、糸穂に声をかけた。腕組みをして、あぐらをかいている。糸穂はあわてて、男たちの向かいに座った。
「わたしたちは、おまえに言葉を伝える。おまえはそれを外ものに伝える。それだけだ、簡単だろう」
糸穂はおずおずとうなずいた。これが糸穂に託されたお勤めの内容だったのだ。豪華な着物も、トキの手荒い支度にも、釣り合わないように糸穂には思えた。あまりに簡単な勤めではないか。
「ここにいる間だけ……まあ、おいおい分かる」
今回は、これで終わりだと男は言った。
「かえれ。大戦はもうすぐ終わると伝えろ」
男は糸穂の肩をどん、と突いた。突かれた勢いで糸穂は背後に文字通り転がった。
「糸穂っ」
トキの声が聞こえた。まだ御囲部屋の中にいるのかと、糸穂は思った。視界が暗く、なにもかもぼやけている。
――ぼんやりとしか見えない。
これが、見えないということなのか。糸穂は今まで目が不自由で生きてきたことを、初めて知った。
トキが糸穂の猿ぐつわと、結んだ手首を外した。青年に外してもらったはずの手首はまた縛られていたのだ。
目が見えたと思ったのは、すべて夢なのか。自分は御囲部屋で眠っていたのだろうか。
糸穂の目にじわじわと涙が浮かんだ。また、暗くぼんやりとした世界に戻された、そう思うと涙が流れた。
「糸穂、何か聞いたか」
泣きじゃくる糸穂の体をトキはゆすった。糸穂はえずきながら言葉を伝えた。
「た、たいせんは、もうすぐお、おわる」
そこまで言って糸穂は倒れた。
糸穂は御囲部屋から出てから、熱を出して寝込んだ。
「一回目にして、ずいぶん大それたことを聞き出したな」
海城のものらしき太い声が部屋の外でした。はい、と答えたのはトキだろう。糸穂は朦朧としたまま布団の中にいた。
「最初のお勤めで熱を出すことは、よくあることです。あと三日も休めばよくなります」
トキが答えている。糸穂はすでに三日間、床に伏している。新しい御囲様が通る道らしい。
糸穂は、ぼやけた視界を御囲部屋の黒い壁に向けた。あの中に入れば、また目が見えるようになるのだろうか。それとも、あれはすべて夢か幻だろうか。
もし、もう二度と目が見えなかったら……。糸穂は悲しみのあまり、胸が苦しくなった。また涙があふれそうになる。
と、花の香りがした。ひらひらと、なにかが天井から降ってくる。
ひらひら。
糸穂は、なんとか体を起こして天井を見上げた。むろん、糸穂の視界にはただ薄暗い空間がひろがるばかりだったが、光るものがひらりと糸穂の手にふれるかふれないかで消えた。
光の欠片は、花の香りを漂わせながら、いくつもいくつも降り続く。
糸穂は、知っている。生家の縁側で降り注いだ花の香りを。
「あっ」
糸穂の頬を、風がすうっと撫でた。
窓のない部屋に風など吹かないはずなのに。
――家から、一緒に来てくれたの?
糸穂は涙を手で拭いた。
目が見えずとも、慰めてくれる存在がいることを糸穂は思い出した。
「おや、起きたのかい」
トキが部屋に戻ってきた。花の香りが消え、お粥のにおいに取って変わった。
「お食べ。お勤めは、これからがほんとうなんだから」
糸穂はうなずいた。トキが糸穂の背中に羽織をかけてくれた。
確かめなければならない。御囲部屋で、自分の目が見えるかどうか。
八歳の小さな決意だった。
――ばあやが切ってくれたのは、これなんだ。
「そろそろいいか」
男がしびれを切らしたように、糸穂に声をかけた。腕組みをして、あぐらをかいている。糸穂はあわてて、男たちの向かいに座った。
「わたしたちは、おまえに言葉を伝える。おまえはそれを外ものに伝える。それだけだ、簡単だろう」
糸穂はおずおずとうなずいた。これが糸穂に託されたお勤めの内容だったのだ。豪華な着物も、トキの手荒い支度にも、釣り合わないように糸穂には思えた。あまりに簡単な勤めではないか。
「ここにいる間だけ……まあ、おいおい分かる」
今回は、これで終わりだと男は言った。
「かえれ。大戦はもうすぐ終わると伝えろ」
男は糸穂の肩をどん、と突いた。突かれた勢いで糸穂は背後に文字通り転がった。
「糸穂っ」
トキの声が聞こえた。まだ御囲部屋の中にいるのかと、糸穂は思った。視界が暗く、なにもかもぼやけている。
――ぼんやりとしか見えない。
これが、見えないということなのか。糸穂は今まで目が不自由で生きてきたことを、初めて知った。
トキが糸穂の猿ぐつわと、結んだ手首を外した。青年に外してもらったはずの手首はまた縛られていたのだ。
目が見えたと思ったのは、すべて夢なのか。自分は御囲部屋で眠っていたのだろうか。
糸穂の目にじわじわと涙が浮かんだ。また、暗くぼんやりとした世界に戻された、そう思うと涙が流れた。
「糸穂、何か聞いたか」
泣きじゃくる糸穂の体をトキはゆすった。糸穂はえずきながら言葉を伝えた。
「た、たいせんは、もうすぐお、おわる」
そこまで言って糸穂は倒れた。
糸穂は御囲部屋から出てから、熱を出して寝込んだ。
「一回目にして、ずいぶん大それたことを聞き出したな」
海城のものらしき太い声が部屋の外でした。はい、と答えたのはトキだろう。糸穂は朦朧としたまま布団の中にいた。
「最初のお勤めで熱を出すことは、よくあることです。あと三日も休めばよくなります」
トキが答えている。糸穂はすでに三日間、床に伏している。新しい御囲様が通る道らしい。
糸穂は、ぼやけた視界を御囲部屋の黒い壁に向けた。あの中に入れば、また目が見えるようになるのだろうか。それとも、あれはすべて夢か幻だろうか。
もし、もう二度と目が見えなかったら……。糸穂は悲しみのあまり、胸が苦しくなった。また涙があふれそうになる。
と、花の香りがした。ひらひらと、なにかが天井から降ってくる。
ひらひら。
糸穂は、なんとか体を起こして天井を見上げた。むろん、糸穂の視界にはただ薄暗い空間がひろがるばかりだったが、光るものがひらりと糸穂の手にふれるかふれないかで消えた。
光の欠片は、花の香りを漂わせながら、いくつもいくつも降り続く。
糸穂は、知っている。生家の縁側で降り注いだ花の香りを。
「あっ」
糸穂の頬を、風がすうっと撫でた。
窓のない部屋に風など吹かないはずなのに。
――家から、一緒に来てくれたの?
糸穂は涙を手で拭いた。
目が見えずとも、慰めてくれる存在がいることを糸穂は思い出した。
「おや、起きたのかい」
トキが部屋に戻ってきた。花の香りが消え、お粥のにおいに取って変わった。
「お食べ。お勤めは、これからがほんとうなんだから」
糸穂はうなずいた。トキが糸穂の背中に羽織をかけてくれた。
確かめなければならない。御囲部屋で、自分の目が見えるかどうか。
八歳の小さな決意だった。
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