御囲部屋の子どもたち

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糸穂の章

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「盛り上がっているところ、悪いが」
 黒羽織が、いつまでも手をつなぐ糸穂に声をかけた。
「こう見えて、こいつはまだ不完全で」
 そう言ったかと思うと、黒羽織は掬い上げるように手を動かした。
「!」
 糸穂は青年から手を離して両手で口を押さえた。
 青年の顔を覆う布がめくれあがって、のっぺらぼうの顔を糸穂の前にさらしたのだ。
「そいつの顔が出来上がるのには、そうだなおまえたちの時間で、十年近くかかるだろう」
 糸穂は腰を抜かして、座りこんだ。青年は困ったように、頭をかいた。
「それに、あまり強く握ると、また崩れるぞ」
 黒羽織が肩を突くと、青年は花を撒き散らしながら、あっけないほど仰向けに倒れた。
 糸穂は慌てて青年の元へと駆けつける。花々は糸穂がふれると消えていったが、青年はかろうじて起き上がった。ほっとした糸穂は崩れてしまった青年の肩を撫でた。
 ――なんて意地悪なの。これ、治るんだよね?
 糸穂は黒羽織を険しい瞳で睨んだ。
「悪かった、そいつの体はじき元にもどる。そんなに睨むな。かわいい顔が台無しだぞ」
 黒羽織は糸穂の機嫌をとるように優しい声音で話すと、糸穂に手招きした。
 糸穂が少しだけ黒羽織に近づくと、背中に悪寒が走り、腕は鳥肌が立った。
 青年が糸穂の手を掴んだ。あまり近くへ行くなということらしい。糸穂は慎重に距離を計り、黒羽織の手が届かない位置に正座した。
「これから先のことを幾つか伝える」
 黒羽織の言葉に糸穂はうなずいて見せた。
「織物産業から手を引け」
 おりものさんぎょう、と糸穂は頭のなかで繰り返した。黒羽織の使う言葉は時に難しく、幼い糸穂には聞きなれないものが多い。胸に手を置き忘れぬように、なんども繰り返す。
「糸穂、ひとつ教えてやろう」
 言われて糸穂は顔をあげた。目の前に黒羽織の顔があった。黒羽織の腕が目にも止まらぬ早さで、糸穂から猿ぐつわを取り去った。
 ――あっ!
 糸穂は両手で口をふさぐ。背後にいた青年が糸穂を腕の中へ囲った。
「声を出さなかった。上出来だ」
 こわごわと糸穂は顔をあげ、青年の腕の中で黒羽織を見た。天井からの明かりが逆行になり、黒羽織の表情を隠した。
「こちらの者と、声でのやり取りができるのは一度だけだ」
 糸穂は意味が分からず眉を寄せた。
「その一度で、わしらはそちらから人を引っ張り込むがな」
 黒羽織が笑った口もとに、白く尖った歯がぞろりと並んでいて、糸穂は悲鳴をあげそうになった。
「今回は、これまでだ。立て。歩いて部屋から出ろ」
 糸穂は青年の腕に掴まり、ふるえる足で立ち上がった。出口は、細い縦の光が一本空間に引かれていた。
 明かりを目指して、糸穂は自分の体を抱きしめて歩いた。どこか頼りない足元は、水に浮いた板を踏んでいるような心地がした。
 光に伸ばした腕の指先がふれそうになった。
 不意に父の声がした。
「糸穂」
 ――は、ぃ……。
 応えそうになって、糸穂は口と目をぎゅっと閉じた。父のはずがない。膝から力が抜ける。それでも糸穂は歩みを止めなかった。
 背後で、幾重にも重なる忍び笑いが響いた。
 板襖の向こうに待っていたトキの顔が一瞬だけ鮮明に見え、糸穂は居室の床に倒れ込んだ。
 
 
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