永遠の伴侶

白藤桜空

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山雨来らんと欲して、風、楼に満つ

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 田園風景では聞き慣れない、ガラガラと何かが転がる音がする。騒々しく鳴り響くその音は木々に隠れていた鳥を驚かせ、野良仕事をしている村人たちの関心を引いた。
 ――音の正体は四輪の馬車であった。牽引する四頭の馬たちは青々と茂った稲穂を尻目に、畦道あぜみちを突き進んでいく。馬車の本体は最小限の格子窓と戸布しかなく、外から中をうかがわせるのを拒絶していた。一方で、簡素ながらも職人の意匠が込められた繊細な細工が、馬車を見る者を魅了した。そんな馬車の周りには、二十人程の護衛が並行し、その兵たちの中心には馬車を上回る上背の大男がいた。
 本来、その行進は華々しいものなのであろう。が、どことなく陰鬱な空気が立ち込めていた。
 不意に、大男が格子窓に向かって話しかける。
文生ウェンシェン様、乗り心地はどうだ……いかがですか?」
「……大丈夫です」
 そう答えた青年の声は、言葉とは裏腹に沈んでいた。
 大男は鼻から大きな溜息をき、唇を薄く開けた。されどそこから出たのは二度目の溜息だけだった。
 馬車の中では、豪奢な黄の着物を着た青年が窓の外を遠く見つめている。彼は、日焼けとあかぎれだらけの手で膝を抱えて座っている。
 彼の中で渦巻く感情が溢れ出ないために――――

「どういう、こと? 婆様、そんな……嘘、だよね?」
「すべて事実でございます。文生様が王になることも、儂が文生様の母上を殺したことも」
 文生は頭がくらんだ気がした。
 身寄りのない自分を育ててくれた老婆が、まさかそんな。それにいきなり王になるだなんて。文生は受け止めきれないことばかりでどうすればいいか分からず、立ち尽くすしかなかった。
 それを予期していたのか、老婆は棒立ちの青年に手を伸ばす。しかしその手が彼に届くことはなかった。
「ずっと……ずっとだましてたの⁈ 酷いじゃないか‼」
 文生は老婆の手を振り払いながら叫ぶ。その大声は外にいた美琳メイリンにまで届いた。
 美琳は慌てて中に入る。するとそこには、肩を震わせながらうつむいている老婆と、怒りをあらわにして老婆を睨みつける文生に、それを無表情で見守る勇豪ヨンハオがいた。
 その緊迫した空気に、美琳はオロオロと戸惑う。が、文生が泣いていることに気付くと、駆け寄って肩を撫でる。その柔らかな手の感触に文生は顔を上げると、歪んでいた顔を更にくしゃくしゃにして美琳に抱きつく。美琳は何が起きたのかさっぱり分からなかったが、婚約者の背中を優しく抱き返した。
 文生の泣き声だけが聞こえる中、勇豪の低い声が空気を裂く。
「文生様。先の戦で他の夫人のお子たちは亡くなり、后のお子も、先王も、流行り病で亡くなられた。今はもうあんたしか正当な後継者はいないんだ。受け入れがたくても、受け止めろ」
 その言葉に美琳は目を見張る。
 たった数分の間に状況が目まぐるしく変わっていたのに驚いた。だが第三者である自分よりも、当事者である文生の方が何倍も衝撃を受けたことだろう。
 美琳は震える手で抱きついてくる文生を掻きいだいた。文生は勇豪の言葉に何も返さずにただ美琳にすがり続ける。
 勇豪は険しい顔をすると、更に畳みかける。
「……あんたはこいつを断罪しなきゃならん。あんたが王を継ぐことがなければ、こいつの罪は隠し続けられた。だがあんたを王城に連れて行くとなると、こいつの存在を明るみに出さなきゃ説明がつかん。そのときにこいつが生きたままでは王族の沽券こけんに関わる」
 文生は振り返る。勇豪の目を見据えると、声を絞り出す。
「そんな……そこまでする必要ないじゃないか! そりゃ、母のことを隠されていたのは許せないよ。だけど婆様はここまで育ててくれた。僕にとっては親代わりなんだ! それなのに……沽券とかのためにそこまでするなんておかしいよ!」
 文生は美琳の体から離れると、老婆を庇うように肩を抱く。
 老婆は自分の肩にある手に向かって手を伸ばしかけた。が、その手を拳に変えると、老婆は優しく話し始める。
「文生様。……いや、文生。儂は貴方を育てられて幸せだったよ。その想いの裏に、我があるじへの罪滅ぼしの気持ちがなかったと言えば嘘になる。だが、それ以上に貴方と過ごす毎日が愛おしくて仕方なかった。このまま貴方が王にならなければいいと祈ったりもしていたさ」
 老婆は、今や見上げる高さに育った青年を仰ぎ見る。
「だけど、もうそうもいかない……。民に母を殺した者と暮らしていたなどと知られたら貴方の評判は失墜する。儂は、文生の邪魔はしたくない。後悔は、もう沢山だ」
 そう告げた老婆は勇豪に目で合図する。勇豪は頷くと、腰に下げていた剣を引き抜き、老婆目がけて振りかぶる。
 文生は初めて見た本物の武器に身が竦む。目の前の大男からは殺気が放たれ、狙った獲物を確実に仕留めるという気迫があった。それに触れた瞬間、文生は蛇に睨まれた蛙の気持ちが分かった。
 早く婆様を逃がさないと。頭では分かっている。だがそう思っている内にやいばが迫っていた。
 文生は指の一本すら動かすことが出来ず、ただ裁きを見守るしかない。片や老婆は、座ったまま動じることなく目を閉じた。
 ――その間を、一筋の影がよぎる。
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