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花は根に、鳥は古巣に帰る
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後宮の中庭。
霧雨の降りしきる中、美琳は青い葉を付けた一本の桃の木を見上げていた。すると息急き切った声に後ろから呼ばれる。
「はぁ、こちらに、ッはぁ、いらしたのですね。美琳様」
「……静端」
生気のない顔で静端に振り向く美琳。その姿からはゾッとする寒さが漂い、一瞬、静端の足を竦ませた。が、静端はすぐに気を取り戻すと、美琳の隣に立つ。
「夜風はお体に良くありません。こちらをお召しください」
と言って静端が美琳の肩に上着を掛けようとする。しかし彼女は身を捩って拒絶した。
「いらないわ」
「そんな訳には「いいの」
美琳はじっと静端の目を見据える。
「貴女もいい加減覚えたら? この体には何も起こらないのを」
刹那、静端の顔に沈痛な表情が見え隠れする。その顔に、フッと美琳は笑みを零す。
「そうよね、そういう反応が正しいのよね。文生も本当は気味悪がってたってことよね」
「……それとこれとは別でございます。夫人である美琳様がそのような薄着で過ごすのは」
「夫人?」
美琳は一笑に付す。
「そんなの……もうどうだっていいわ。文生が私を裏切ったんだから。私だって文生のために頑張るのは止める」
「そのようなこと、仰らないでくださいませ。王の御立場もお考えくだされば……」
「じゃあ私が悪いって言うの⁈」
「ッ!」
金切り声で叫ぶ美琳に、静端の息が詰まる。
「夫人になるまでは待ってくれたのに! 何十年でも愛すって言ったのに!」
美琳の顔を大粒の涙が伝っていく。
「長い? たったの五年じゃない! それすら待てないなら初めから言わないでよ‼」
静端の耳を美琳の絶叫がつんざいた。
不意に雨足が強くなり始めた。木々は風に揺さぶられ、頼りにしていた月明かりは雲に覆われる。闇夜に覆われた静端の目には何も見えなくなる…………はずなのに。
美琳の姿だけは仄かに光って見えた。彼女の、月光を吸い込んだようなその佇まいには不思議な神々しさがあり、また同時に、今すぐにでも消えていきそうな危うさもあった。
「美琳様……」
静端の睫毛を雨粒が滴り落ちる。それを彼女は袖で拭うと、持ってきた上着を腕に掛け、美琳の真っ青な左手を手繰り寄せる。
「美琳様。美琳様。こちらを見てくださいませ」
「…………」
その呼びかけに美琳は応えない。次第に美琳の手から体温が奪われていく。
「せめて、お耳だけ貸してください」
静端は温めるように彼女の手を摩る。
「……人の一生というのは短いのですよ、美琳様。貴女様はおそらく……長く、永く、生きてこられたのですね。故に私共の感覚を理解することが出来ないのでございましょう?」
「…………」
「けれど、それは私たち人間同士でもよく起こることなんでございますよ」
「……それって?」
ここにきてやっと美琳は返事をする。すると静端は慈愛に満ちた笑みで美琳を見つめる。
「共感のことでございますよ」
「共感……」
「ええ、共感です。私は在り来りなことしか言えませんが……」
美琳も静端を見つめ返す。
「人は、真に他者を知ることは出来ないのです。心の内を覗き見ることは不可能ですから」
「心の……内……」
「美琳様も、私が今何を考えながら話しているのか分からないでしょう?」
「うん……。なんて考えているの?」
「〝腰痛にこの雨は堪える〟ですわ」
「!」
一瞬、美琳は目を見開く。が、すぐに小さく笑う。
「ふふ……こんな真面目に話しているのに?」
静端の目にも笑い皺が浮かぶ。
「ね? 聞いてみないと分からないものでございましょう?」
「……あ」
美琳は震える右手で口を押さえる。静端は両手で彼女の左手を握り直した。
「時として人は、言っていることと、思っていることが違うというのが起こり得る生き物なのです。王も、御心では思っていることは異なるのかもしれません」
「ッ……! じゃあ文生も「されど」
動き出そうとした美琳を、静端が強い力で引き留める。
「言った言葉が事実であるのも、また人間なのです」
「それは、どういう……」
「そのままの意味ですよ。言わなかった感情は、共感してもらおうと思っていないものなのです。それについて……他人は簡単には触れてはいけないんですよ」
美琳の頬を雨粒が叩く。
「じゃあ、どうすればいいの?」
「そうですね……。それは誰しも悩んでいることなんじゃないでしょうか? 自分はこれを聞きたい。けれど相手に尋ねてもいいのか。どこまで踏み込んでいいのか。その言葉の裏に何かあるんじゃないのか? そんなことを思い悩みながら人と接していくんだと思います」
皺の目立つ静端の手が美琳のシミ一つない頬に触れる。
「それは美琳様も分かっていらっしゃるのではありませんか? でなければ、戦場であのように称賛されることはないと私は思いますが」
美琳は頬に添えられている手にすり寄る。
「……文生ならどうするのかな、って考えてしてたの」
「そうでございましたか。とても素晴らしい心がけでございましたね」
「でも「それで良いのでございます」
にこ、と静端が微笑む。
「誰かのためを思ってすることは〝悪〟ではございません。そうやって相手の気持ちを想像して、何か行動することで、相手からも何かしらの反応をいただけるのです。そうしてこちらも相手の気持ちを推し量るのです」
二度、美琳は瞬く。
「確かに王は御変わりになられました。けれどそれは、一心に民と……美琳様のことを想ってのことだと私は思っています」
「……!」
「戦の折に美琳様がいないという理由で王としての職務を蔑ろにしてしまっては、貴女様が非難の的になったことでしょう。それだけは避けたかったのでございましょう」
「そう、なのね……。文生……。ごめんなさい……文生」
ぽろぽろと零れた美琳の涙は、雨に混じって溶けていく。静端はその涙を指で拭いてやる。
「……さあ。そろそろ戻りましょう。謝罪の言葉は王に仰らなければ意味はありませんよ。それに……美琳様は大丈夫でも、私が風邪を引いてしまいますわ」
そう言って静端は美琳の肩を抱く。
「ふふ。そうね、それはいけないわね」
美琳は彼女の手にそっと手を重ねると、後宮へと足を向けた。
連れ添って歩く二人。彼女たちは共に穏やかな表情をしていた。
だが静端は一人別のことに思い馳せていた。
(王の御心に美琳様への愛情があることは間違いないでしょう。けれどあれは……。御尊顔に手を上げてしまったことは、王でも庇い立て出来ないでしょう)
静端は美琳の肩を摩る。
(本来なら極刑にされる行い。絞首刑にされてもおかしくありませんが……。死なぬ体の貴女様にどんな刑が言い渡されるのか)
ぶるり、と静端は身震いする。彼女はそれが、雨の寒さのせいだと信じたかった。
霧雨の降りしきる中、美琳は青い葉を付けた一本の桃の木を見上げていた。すると息急き切った声に後ろから呼ばれる。
「はぁ、こちらに、ッはぁ、いらしたのですね。美琳様」
「……静端」
生気のない顔で静端に振り向く美琳。その姿からはゾッとする寒さが漂い、一瞬、静端の足を竦ませた。が、静端はすぐに気を取り戻すと、美琳の隣に立つ。
「夜風はお体に良くありません。こちらをお召しください」
と言って静端が美琳の肩に上着を掛けようとする。しかし彼女は身を捩って拒絶した。
「いらないわ」
「そんな訳には「いいの」
美琳はじっと静端の目を見据える。
「貴女もいい加減覚えたら? この体には何も起こらないのを」
刹那、静端の顔に沈痛な表情が見え隠れする。その顔に、フッと美琳は笑みを零す。
「そうよね、そういう反応が正しいのよね。文生も本当は気味悪がってたってことよね」
「……それとこれとは別でございます。夫人である美琳様がそのような薄着で過ごすのは」
「夫人?」
美琳は一笑に付す。
「そんなの……もうどうだっていいわ。文生が私を裏切ったんだから。私だって文生のために頑張るのは止める」
「そのようなこと、仰らないでくださいませ。王の御立場もお考えくだされば……」
「じゃあ私が悪いって言うの⁈」
「ッ!」
金切り声で叫ぶ美琳に、静端の息が詰まる。
「夫人になるまでは待ってくれたのに! 何十年でも愛すって言ったのに!」
美琳の顔を大粒の涙が伝っていく。
「長い? たったの五年じゃない! それすら待てないなら初めから言わないでよ‼」
静端の耳を美琳の絶叫がつんざいた。
不意に雨足が強くなり始めた。木々は風に揺さぶられ、頼りにしていた月明かりは雲に覆われる。闇夜に覆われた静端の目には何も見えなくなる…………はずなのに。
美琳の姿だけは仄かに光って見えた。彼女の、月光を吸い込んだようなその佇まいには不思議な神々しさがあり、また同時に、今すぐにでも消えていきそうな危うさもあった。
「美琳様……」
静端の睫毛を雨粒が滴り落ちる。それを彼女は袖で拭うと、持ってきた上着を腕に掛け、美琳の真っ青な左手を手繰り寄せる。
「美琳様。美琳様。こちらを見てくださいませ」
「…………」
その呼びかけに美琳は応えない。次第に美琳の手から体温が奪われていく。
「せめて、お耳だけ貸してください」
静端は温めるように彼女の手を摩る。
「……人の一生というのは短いのですよ、美琳様。貴女様はおそらく……長く、永く、生きてこられたのですね。故に私共の感覚を理解することが出来ないのでございましょう?」
「…………」
「けれど、それは私たち人間同士でもよく起こることなんでございますよ」
「……それって?」
ここにきてやっと美琳は返事をする。すると静端は慈愛に満ちた笑みで美琳を見つめる。
「共感のことでございますよ」
「共感……」
「ええ、共感です。私は在り来りなことしか言えませんが……」
美琳も静端を見つめ返す。
「人は、真に他者を知ることは出来ないのです。心の内を覗き見ることは不可能ですから」
「心の……内……」
「美琳様も、私が今何を考えながら話しているのか分からないでしょう?」
「うん……。なんて考えているの?」
「〝腰痛にこの雨は堪える〟ですわ」
「!」
一瞬、美琳は目を見開く。が、すぐに小さく笑う。
「ふふ……こんな真面目に話しているのに?」
静端の目にも笑い皺が浮かぶ。
「ね? 聞いてみないと分からないものでございましょう?」
「……あ」
美琳は震える右手で口を押さえる。静端は両手で彼女の左手を握り直した。
「時として人は、言っていることと、思っていることが違うというのが起こり得る生き物なのです。王も、御心では思っていることは異なるのかもしれません」
「ッ……! じゃあ文生も「されど」
動き出そうとした美琳を、静端が強い力で引き留める。
「言った言葉が事実であるのも、また人間なのです」
「それは、どういう……」
「そのままの意味ですよ。言わなかった感情は、共感してもらおうと思っていないものなのです。それについて……他人は簡単には触れてはいけないんですよ」
美琳の頬を雨粒が叩く。
「じゃあ、どうすればいいの?」
「そうですね……。それは誰しも悩んでいることなんじゃないでしょうか? 自分はこれを聞きたい。けれど相手に尋ねてもいいのか。どこまで踏み込んでいいのか。その言葉の裏に何かあるんじゃないのか? そんなことを思い悩みながら人と接していくんだと思います」
皺の目立つ静端の手が美琳のシミ一つない頬に触れる。
「それは美琳様も分かっていらっしゃるのではありませんか? でなければ、戦場であのように称賛されることはないと私は思いますが」
美琳は頬に添えられている手にすり寄る。
「……文生ならどうするのかな、って考えてしてたの」
「そうでございましたか。とても素晴らしい心がけでございましたね」
「でも「それで良いのでございます」
にこ、と静端が微笑む。
「誰かのためを思ってすることは〝悪〟ではございません。そうやって相手の気持ちを想像して、何か行動することで、相手からも何かしらの反応をいただけるのです。そうしてこちらも相手の気持ちを推し量るのです」
二度、美琳は瞬く。
「確かに王は御変わりになられました。けれどそれは、一心に民と……美琳様のことを想ってのことだと私は思っています」
「……!」
「戦の折に美琳様がいないという理由で王としての職務を蔑ろにしてしまっては、貴女様が非難の的になったことでしょう。それだけは避けたかったのでございましょう」
「そう、なのね……。文生……。ごめんなさい……文生」
ぽろぽろと零れた美琳の涙は、雨に混じって溶けていく。静端はその涙を指で拭いてやる。
「……さあ。そろそろ戻りましょう。謝罪の言葉は王に仰らなければ意味はありませんよ。それに……美琳様は大丈夫でも、私が風邪を引いてしまいますわ」
そう言って静端は美琳の肩を抱く。
「ふふ。そうね、それはいけないわね」
美琳は彼女の手にそっと手を重ねると、後宮へと足を向けた。
連れ添って歩く二人。彼女たちは共に穏やかな表情をしていた。
だが静端は一人別のことに思い馳せていた。
(王の御心に美琳様への愛情があることは間違いないでしょう。けれどあれは……。御尊顔に手を上げてしまったことは、王でも庇い立て出来ないでしょう)
静端は美琳の肩を摩る。
(本来なら極刑にされる行い。絞首刑にされてもおかしくありませんが……。死なぬ体の貴女様にどんな刑が言い渡されるのか)
ぶるり、と静端は身震いする。彼女はそれが、雨の寒さのせいだと信じたかった。
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