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刀折れ矢尽きる
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嵐は三日三晩続いた。
荒ぶる風は家々を壊し、降りしきる雨は洪水を起こした。これまでにない規模の天災に、修国の人々は為す術が無かった。
ある人は倒壊した家の下敷きになり、ある人は氾濫した河に呑み込まれていく。
荒れ狂う濁流。逃げ惑う人々。凄惨たる光景だった。
――そうして残ったのは、瓦礫の山だけだった。
その瓦礫の山を一人の人物が歩いている。
その人物は、一歩、一歩、ゆっくりと、何かを確かめるように頂へ登っている。そして彼女の向かう先にはたった一人、白髪の老人だけが立ち尽くしていた。
「何故……何故我だけ……?」
唯一人残された文生は、天を仰ぎながら茫然自失となっていた。そこに、じゃり、と破片を踏みしめる音が聞こえ、文生は慌てて振り向く。誰か他の生存者がいたのではないかという、一縷の望みにかけて。
しかしそこにいたのは、二度と見たくないと思っていた少女であった。
少女は一糸纏わぬ姿で立っている。彼女の裸体は純潔に光り輝き、胸元まで伸びた濡れ羽色の髪が、乳房の上で踊るようにそよいでいる。切れ長で涼やかな二重の目は嬉しそうに弧を描き、栗色の瞳が文生を一心に見つめている。
彼女は朗らかな声で彼の疑問に答える。
「何故? 何故って、私のおかげよ? 文生」
「…………美琳」
文生は呆然と彼女の名前を呼ぶ。すると美琳は笑みを深めて文生に駆け寄る。
「ああ! やっと、やっと邪魔者がいなくなったわね!」
喜びに打ち震えながら文生に抱きつく美琳。しかし文生はすかさず彼女を乱暴に押し退ける。
「邪魔……? 何万もの人が死んだんだぞ? それを其方はッ……邪魔だと⁈」
怒鳴る文生。それに対して、美琳は不思議そうに小首を傾げる。
「だって、こいつらのせいで文生は私のことを裏切ったんでしょう? こいつらがいなければ私といてくれるんでしょう? なら邪魔以外の何物でもないじゃない」
その言葉に文生は愕然とする。
「そんな、そんなことのために……民は……我が国は……」
文生は膝から崩れ落ち、地面に手を突く。目からは涙が溢れ、握った拳の上に雫が落ちる。だが美琳はお構いなしに彼の腕を引いて立たせようとする。
「これで何も気にせず過ごせるじゃない。ね、一緒に行きましょう? 私たちが出会った、あの森へ」
「…………」
もはや文生にはその手を振り払う力が残っていなかった。されるがままに上体を起こし、虚ろな目で美琳を見つめて、ただただ涙を流し続ける。
それに美琳は眉根を寄せると、皺だらけの彼の顔を手で挟む。そして頬の涙を舐め取って舌舐りをする。
「もう終わったことなんだから嘆いたってしょうがないじゃない。これからのことを一緒に考えましょうよ?」
その言葉に文生はハッとする。
「これからを、どうするか……」
繰り返し呟いた文生に、美琳はにこりと微笑む。
「そうよ、これからどうするかが大事なのよ」
「…………そうか、そうだな」
文生はもう一滴涙を零すと、美琳に問う。
「君は……僕さえいればいいんだよね?」
かつてと同じ口調に戻った文生に、美琳は小さく目を見張る。が、すぐに破顔して答える。
「ええ。貴方以外はいらないわ」
その迷いのない言葉に文生は笑みを浮かべる。
「なんだ。そんな簡単なことだったんだね」
「……え?」
美琳が虚を衝かれたその一瞬。文生が懐から短剣を取り出す。
「ッ文生⁉」
咄嗟に美琳は手を伸ばした。だが、一歩間に合わなかった。
「いやあぁぁ!」
文生は得物で腹を突き刺した。そこから大量の血が迸り、美琳は真っ赤に染まり始めた腹を押さえる。
「そんな、どうして……? どうしてこんなことを⁈」
顔を歪ませた美琳は、文生の顔と腹を見比べる。
「は、はは……。やっぱりこれが効くんだね」
そう言った文生の口から血が流れ出す。が、文生は構うことなく話し続ける。
「どうして、って聞いたね? 単純だよ。僕も君と同じことをしただけさ」
「同じ……?」
文生は頷くと、徐々に荒くなってきた呼吸の合間合間に言葉を紡ぐ。
「君は……僕の、大事なものを奪った。だから僕も、君の大事なものを奪う。ただ……それだけだよ?」
「‼」
美琳は大きく息を呑み、文生は満足気にほくそ笑む。
「どうだい? 大事なものを、ッ失っていく気持ちは……?」
息も絶え絶えに言う文生に対し、首を振り続ける美琳。すると文生は、彼女を宥めるように血に染まった手で美琳の頬を撫でる。
「……僕の……可愛い美琳。君を、はぁ、想わない日は無かった。初めて会ったときから、僕の心の中に、ずっと、ッ居続けた」
美琳の真っ白な肌に、文生の真っ赤な血痕が付いていく。
「だけど、もういいでしょう? もう……疲れたんだ。どうか、君から……ッ離れていく、僕を……許して、おく……れ……」
「ッ!」
美琳の頬から手が滑り落ちる。文生の体から力が抜け、美琳にもたれかかる。彼の体温は徐々に失われ、静かに瞼を閉じていく。
「い、嫌よ、逝かないで、文生! 私まだ貴方と一緒にいたいのに……!」
しかしもう、文生の唇が動くことはなかった。
美琳は文生の冷たくなった体を掻き抱き、泣き崩れる。するとそこに、男とも、女とも言えない声が降り注ぐ。
「望みは叶ったみたいだね? 美琳」
「……!」
その声に驚き頭上を見上げると、先程までいなかったはずの光が立っていた。美琳は唇を戦慄かせ、叫ぶ。
「ち、違う、違うわ、私が求めていたのはこんなことじゃない……! 私はただ文生とッ! ただ、この人と一緒に……」
再び涙が込み上げてきた美琳はそれ以上言葉を続けられない。
その様子を見守っていた光は優しく点滅すると、美琳の頭を撫でる。
「美琳。我が愛し子よ。君は忘れているだけなんだよ」
「忘れる……?」
訝しむ美琳の耳元に光は顔を寄せると、ぽっかりと暗い穴のような口を開く。
「だって君は■■■■■だろう?」
「……!」
その言葉を聞いた途端、美琳はすべてを悟った。
「ふ、ふふ……そうね、貴方の言う通りね。私たち、これで『一緒』になったのね?」
美琳が晴れやかな笑顔を浮かべると、光も点滅しながら頷く。
「それなら、早く文生を運ばなきゃ」
と言って、美琳は文生の脇の下に腕を通し、立とうとする。だが男一人の体を少女が持ち上げるのは厳しいものがある。何度も挑戦したが、動くのは彼の上体だけだった。
それを見かねた光は、美琳を手で制止する。
「任せてごらん」
そう言うや否や、光は手を剣のように尖らせて文生の首に宛がう。
「あッ!」
直後、文生の頭と体は二つに斬り分けられ、光は彼の頭だけを持っていた。
「ほら、これなら君でも大丈夫だろう?」
数瞬固まった美琳。だがすぐに満面の笑みを浮かべる。
「うん! ありがとう!」
美琳は光から文生を受け取って立ち上がると、光と連れ立って歩き始める。
「さあ、かえろうか」
「ええ。かえりましょう」
そうして二人は、自分たちの森へとかえっていくのであった。
荒ぶる風は家々を壊し、降りしきる雨は洪水を起こした。これまでにない規模の天災に、修国の人々は為す術が無かった。
ある人は倒壊した家の下敷きになり、ある人は氾濫した河に呑み込まれていく。
荒れ狂う濁流。逃げ惑う人々。凄惨たる光景だった。
――そうして残ったのは、瓦礫の山だけだった。
その瓦礫の山を一人の人物が歩いている。
その人物は、一歩、一歩、ゆっくりと、何かを確かめるように頂へ登っている。そして彼女の向かう先にはたった一人、白髪の老人だけが立ち尽くしていた。
「何故……何故我だけ……?」
唯一人残された文生は、天を仰ぎながら茫然自失となっていた。そこに、じゃり、と破片を踏みしめる音が聞こえ、文生は慌てて振り向く。誰か他の生存者がいたのではないかという、一縷の望みにかけて。
しかしそこにいたのは、二度と見たくないと思っていた少女であった。
少女は一糸纏わぬ姿で立っている。彼女の裸体は純潔に光り輝き、胸元まで伸びた濡れ羽色の髪が、乳房の上で踊るようにそよいでいる。切れ長で涼やかな二重の目は嬉しそうに弧を描き、栗色の瞳が文生を一心に見つめている。
彼女は朗らかな声で彼の疑問に答える。
「何故? 何故って、私のおかげよ? 文生」
「…………美琳」
文生は呆然と彼女の名前を呼ぶ。すると美琳は笑みを深めて文生に駆け寄る。
「ああ! やっと、やっと邪魔者がいなくなったわね!」
喜びに打ち震えながら文生に抱きつく美琳。しかし文生はすかさず彼女を乱暴に押し退ける。
「邪魔……? 何万もの人が死んだんだぞ? それを其方はッ……邪魔だと⁈」
怒鳴る文生。それに対して、美琳は不思議そうに小首を傾げる。
「だって、こいつらのせいで文生は私のことを裏切ったんでしょう? こいつらがいなければ私といてくれるんでしょう? なら邪魔以外の何物でもないじゃない」
その言葉に文生は愕然とする。
「そんな、そんなことのために……民は……我が国は……」
文生は膝から崩れ落ち、地面に手を突く。目からは涙が溢れ、握った拳の上に雫が落ちる。だが美琳はお構いなしに彼の腕を引いて立たせようとする。
「これで何も気にせず過ごせるじゃない。ね、一緒に行きましょう? 私たちが出会った、あの森へ」
「…………」
もはや文生にはその手を振り払う力が残っていなかった。されるがままに上体を起こし、虚ろな目で美琳を見つめて、ただただ涙を流し続ける。
それに美琳は眉根を寄せると、皺だらけの彼の顔を手で挟む。そして頬の涙を舐め取って舌舐りをする。
「もう終わったことなんだから嘆いたってしょうがないじゃない。これからのことを一緒に考えましょうよ?」
その言葉に文生はハッとする。
「これからを、どうするか……」
繰り返し呟いた文生に、美琳はにこりと微笑む。
「そうよ、これからどうするかが大事なのよ」
「…………そうか、そうだな」
文生はもう一滴涙を零すと、美琳に問う。
「君は……僕さえいればいいんだよね?」
かつてと同じ口調に戻った文生に、美琳は小さく目を見張る。が、すぐに破顔して答える。
「ええ。貴方以外はいらないわ」
その迷いのない言葉に文生は笑みを浮かべる。
「なんだ。そんな簡単なことだったんだね」
「……え?」
美琳が虚を衝かれたその一瞬。文生が懐から短剣を取り出す。
「ッ文生⁉」
咄嗟に美琳は手を伸ばした。だが、一歩間に合わなかった。
「いやあぁぁ!」
文生は得物で腹を突き刺した。そこから大量の血が迸り、美琳は真っ赤に染まり始めた腹を押さえる。
「そんな、どうして……? どうしてこんなことを⁈」
顔を歪ませた美琳は、文生の顔と腹を見比べる。
「は、はは……。やっぱりこれが効くんだね」
そう言った文生の口から血が流れ出す。が、文生は構うことなく話し続ける。
「どうして、って聞いたね? 単純だよ。僕も君と同じことをしただけさ」
「同じ……?」
文生は頷くと、徐々に荒くなってきた呼吸の合間合間に言葉を紡ぐ。
「君は……僕の、大事なものを奪った。だから僕も、君の大事なものを奪う。ただ……それだけだよ?」
「‼」
美琳は大きく息を呑み、文生は満足気にほくそ笑む。
「どうだい? 大事なものを、ッ失っていく気持ちは……?」
息も絶え絶えに言う文生に対し、首を振り続ける美琳。すると文生は、彼女を宥めるように血に染まった手で美琳の頬を撫でる。
「……僕の……可愛い美琳。君を、はぁ、想わない日は無かった。初めて会ったときから、僕の心の中に、ずっと、ッ居続けた」
美琳の真っ白な肌に、文生の真っ赤な血痕が付いていく。
「だけど、もういいでしょう? もう……疲れたんだ。どうか、君から……ッ離れていく、僕を……許して、おく……れ……」
「ッ!」
美琳の頬から手が滑り落ちる。文生の体から力が抜け、美琳にもたれかかる。彼の体温は徐々に失われ、静かに瞼を閉じていく。
「い、嫌よ、逝かないで、文生! 私まだ貴方と一緒にいたいのに……!」
しかしもう、文生の唇が動くことはなかった。
美琳は文生の冷たくなった体を掻き抱き、泣き崩れる。するとそこに、男とも、女とも言えない声が降り注ぐ。
「望みは叶ったみたいだね? 美琳」
「……!」
その声に驚き頭上を見上げると、先程までいなかったはずの光が立っていた。美琳は唇を戦慄かせ、叫ぶ。
「ち、違う、違うわ、私が求めていたのはこんなことじゃない……! 私はただ文生とッ! ただ、この人と一緒に……」
再び涙が込み上げてきた美琳はそれ以上言葉を続けられない。
その様子を見守っていた光は優しく点滅すると、美琳の頭を撫でる。
「美琳。我が愛し子よ。君は忘れているだけなんだよ」
「忘れる……?」
訝しむ美琳の耳元に光は顔を寄せると、ぽっかりと暗い穴のような口を開く。
「だって君は■■■■■だろう?」
「……!」
その言葉を聞いた途端、美琳はすべてを悟った。
「ふ、ふふ……そうね、貴方の言う通りね。私たち、これで『一緒』になったのね?」
美琳が晴れやかな笑顔を浮かべると、光も点滅しながら頷く。
「それなら、早く文生を運ばなきゃ」
と言って、美琳は文生の脇の下に腕を通し、立とうとする。だが男一人の体を少女が持ち上げるのは厳しいものがある。何度も挑戦したが、動くのは彼の上体だけだった。
それを見かねた光は、美琳を手で制止する。
「任せてごらん」
そう言うや否や、光は手を剣のように尖らせて文生の首に宛がう。
「あッ!」
直後、文生の頭と体は二つに斬り分けられ、光は彼の頭だけを持っていた。
「ほら、これなら君でも大丈夫だろう?」
数瞬固まった美琳。だがすぐに満面の笑みを浮かべる。
「うん! ありがとう!」
美琳は光から文生を受け取って立ち上がると、光と連れ立って歩き始める。
「さあ、かえろうか」
「ええ。かえりましょう」
そうして二人は、自分たちの森へとかえっていくのであった。
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