三重の階段(短編集)

白藤桜空

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お題「凱旋門」「八月」「排水溝」

凱旋門

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 どぶねずみが真っ黒な排水溝を泳いでいく。すいすいと慣れた様子のねずみは、一心不乱にどこかに向かっていく。しかし突然、その行く手を猫が阻む。猫はぎらついた目でねずみを見据えると、迷うことなく右腕を振るい、彼の生命を刈り取る。ねずみの、ただでさえ短いであろう一生が、目の前であっけなく散らされたのを見て、あたしは吐き気を催した。えずいた口元を咄嗟に押さえたが、元々抱いていた胸やけが悪さをして堪え切れなくなった。
「おい汚ぇな!」
 男の罵声があたしの鼓膜をびりびりと震わせる。あたしはますます眩暈がして、思わず怒鳴ってきた男の足元に縋る。
「うわ、近寄るんじゃねぇ! ……って、お前、もしかして……」
 ふとあたしの恰好に気付いた男は、無理やり結髪を引っ張り上げて、吐しゃ物に塗れたあたしの顔をにやけた目で見る。
「お前、いくらだ?」
 男が下卑た笑みを浮かべる。あたしは眉を顰めつつ、三本の指を立てた。
「……ふむ。いいだろう。じゃあその壁に向かって立て。ああ、間違ってもその汚ぇ顔を見せるんじゃねぇぞ」
 それだけ告げると男は、あたしのドレスの裾を捲ってシュミーズの下に手を伸ばす。汗で脂ぎっているその男の手を、あたしが拒める訳もなく、そのまま男の腰が打ち付けられるのを目を閉じて堪える。あとはこの苦痛を時間がやり過ごしてくれるのを待つしかなかった。

 男が満足して立ち去る頃。
 あたしの下半身からは白濁が滴り落ち、安堵感から膝の力が抜けた。汚物だらけの地面に打ちひしがれたあたしは、薄暗いこの路地裏でただ一人だった。

 しばらくすると、固い軍靴の音がこちらに近付いてくるのが耳に飛び込んできた。あたしは慌てて路地裏の奥に走り出す。道の奥、さらに奥へと走っていくと、夏の暑さがじりじりとあたしの首を絞めてくる。かすかに感じる腹の痛みを庇いつつ新聞紙とぼろ布で乱雑に作ったねぐらに転がり込む。そこであたしはやっとどろどろに汚れた体を休めることが出来た。
 見るともなしに新聞紙の布団を眺めていると、一つの写真に目が釘付けになった。
 それは町のシンボル、凱旋門。
 その下には幸せそうに赤ん坊を抱いている女。
「……あたしらみたいなのがいるなんて、知らないんだろうね、どうせ」
 そう吐き捨てると、かすかに膨らんでいる下腹部を撫でる。
「あんたは、あたしみたいにさせないからね。絶対に、なんとしてでも」
 そう呟いた女の瞳は、何よりも美しかった。
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