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白き羽根を抱く濡烏
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ある晴れた日の昼下がり。
くすぐるような響きの囁き声が兵舎を歩く兵たちの耳に漏れ聞こえてきた。
兵たちはその声につられてとある部屋を覗くと、そこには少女と見紛う程美しい少年と切れ長の目の男が二人きりで膝を突き合わせていた。
美少年の明眸はどことなく潤んでいるように見えたが、男は涼やかな表情のままだ。
男は優しく少年に話しかける。
「そこはもっと力を緩めて」
「あッ!こう、ですか?」
「そうです。上手になりましたね。ではもう一度……」
少年は頬を赤らめて手元を弄くる。
男はもたついている少年を愉快そうな笑顔で見守り、彼の手をそっと握る。
二人の間には得も言われぬ空気が醸し出され、見守る兵たちは気圧されて彼らに近づくことが出来ない。
ごくり、と誰かが唾を飲み込む音が聞こえた――――
美琳は兵舎の一角にある小部屋で浩源に文字を習っていた。
少女は生まれて初めて手にした筆に四苦八苦する日々を送っていた。
文字を間違える度に木簡を小刀で削る、など日常茶飯事で、始めたての頃など木簡を見る間に薄く心細い厚さに変じさせていた。
……それは数か月経った今も大して変わらない。
なんとか初歩の漢字を覚えたと思ったら、難易度が上がる度に苦戦するのが繰り返された。もはや文字を書いているのだか木簡を削っているのだか分からない有様となっていた。
「美琳さん、また点を書き忘れていますよ」
「!そっか、これは点がいるのか」
浩源は書かれたばかりの文字を指差して、抜けているところを指摘する。
美琳は子供のように唇を尖らせて、うんうんと唸りながら模写をしていた。されどその字はとてもじゃないが見ていられるものではなかった。
見本にしている浩源の流麗な字とは全く違う、蚯蚓ののたくったような字が次々と綴られていく。
だが美琳は真剣そのものだ。
すっかり集中し始めたのを確認すると、浩源は彼女を見守りながら書類仕事を再開した。
そこには戦前とは思えない長閑な時間が流れていた。
数刻経った頃だろうか。
ふと、美琳は手を止め、ちらりと浩源の顔を覗き見る。
「まだ休憩の時間じゃありませんよ」
浩源は手元の木簡から顔も上げずに彼女の目線に答える。
「いや、そうじゃなくて……いつもよく付き合ってくれるな、って思ったんです」
浩源はどこか違和感を覚えて美琳の顔を見る。
「そんなことですか?これも仕事の内ですから、気にしないでください」
「分かってはいるんですけど。なんでそんなに根気強いのかなって。私だったらこんな覚えの悪い奴、すぐに見捨てます」
「別に根気強い訳じゃないですよ」
「でも、その……」
珍しく歯切れの悪い彼女に、浩源の方が戸惑い始める。
「なんですか?怒らないので言ってください」
浩源が促しても美琳はなかなか話さなかった。
けれど意を決したのだろう。恐る恐る言葉を吐き出す。
「どんな魂胆があるのかなって」
ぱちくり、と浩源は瞬く。
目線の先には美琳の疑心に満ちた目があった。
浩源は何か言おうとしたのだろう。口を開く。だがそこから漏れたのは堪えた笑いだった。
「ふふ、そんな風に考えていたんですね」
「だって、あなたは“無駄”なことはしない人な気がするので」
その言葉で浩源は余計に笑い声を立てる。
美琳は口をムッとへの字にさせた。
「何がおかしいんですか」
「いえ、案外鋭いな、と思いましてね」
「案外って……とにかく。『理由』を教えてください。なんとなくすっきりしなくて、気味が悪いんですよ」
「随分とざっくばらんに言いますね。貴女らしいですけど」
浩源は苦笑いを見せながら“うーん”と、言うか言うまいか悩んでいた。が、「まあいいでしょうか」と呟き彼女の問いに答えた。
「率直に言えば“護衛長が望んでいるから”ですかね」
「護衛長が?」
「ええ。私は護衛長の希望をなるべく叶えたいのです」
「それだけ?」
「それだけですよ?」
いつも通り、どことなく怪しい笑みを浮かべていた浩源だったが、いつもと違って嘘くさい匂いはしなかった。
「……もしかして、私と一緒?」
「貴女が王へ抱く気持ちに近いとは思いますよ」
「ふぅん。じゃあなんで浩源さんはそんなに護衛長が『好き』なの?」
「すッ⁈」
げほっと浩源は咽る。
おそらく彼女が意図しているのはそっちの意味だろう。少女の瞳から、隠しきれない好奇心が満ち溢れていた。
「あのですね……私は妻帯者ですよ」
「?今それ関係あるの?」
美琳は小首を傾げ、何が問題なのか分からない、といった表情だ。
純粋な眼差しを受けた浩源はますます答えに詰まる。どうしたものかと頭を抱えていたが、不意にふっと顔が綻ばせた。
「美琳さん。物事には必ず“成り立ち”があるんですよ」
「成り立ち?」
「そう、成り立ちです。言葉も。道具も。そして……気持ちも」
“気持ちも……”と美琳は小さく繰り返す。
「“理由”とも言えますね。例えば……貴女が王と共に都城まで来た“理由”はなんですか?」
「一緒にいたいから」
「では何故?」
「それ、は……『見つけてくれた』から。私を『美琳』にしてくれたから」
にこり、と浩源は微笑む。
「それが“成り立ち”です。私も、勇豪さんに見出してもらったから、勇豪さんのためになんでもするんです」
美琳は彼の言葉に耳を傾け始めた。
「私の家は下級貴族の中でもかなり貧乏でしてね。でもそれは、知識に貪欲だった祖先が多数の経書をかき集めていたせいで財産がなくなったからなんです」
そこで言葉を区切ると、浩源は小さな箱を描くような仕草をする。その隣に大きな箱も描く。
「私の家はほんの小さな家で、家族七人で住むには小さすぎましてね。食べるものにもよく困っていました。でもその隣には家よりも大きな書庫がありまして……同級の子らには“経書狂いの家”“木簡でも食べた方がいいんじゃないか?”などと馬鹿にされたものです」
浩源は遠い目で苦い顔をする。
「私はそれが無性に悔しくて。“好きでこんな家に生まれたんじゃない”“なんだってこんな貧しい暮らしを強いられなければならないのか”とよく思ったものです」
二人の手はすっかり止まっていた。だが浩源はそんなことなど忘れたように過去の記憶を思い起こし続けた。
「ただ、ある日気づいたのです。これこそ財産なのでは、と」
「これって?」
「経書ですよ。つまり、知識です」
「知識が、財産?」
「ええ。我が家には王宮でも貴重な経書が集められていたのを見つけたのです。祖先がどうやって手に入れたのかは分からないのですが……私はそれが、宮殿で戦うための武器になると思いました」
美琳は顎に手を当ててじっと考える。
「お金を得るために戦う必要があった、から?」
浩源の目が緩やかな弧を描く。そこからは子を教え導こうとする親のような、そんな慈愛の情が滲んでいた。
「それもありました。でもそれ以上に、馬鹿にしてきた奴らを見返したかった」
美琳はまたも首を傾げる。
「王宮では基本的に身分が覆ることはあり得ません。そして身分によって与えられる仕事は決まっています」
「貴族は全部一緒じゃないの?」
「全然違いますよ。むしろ庶人や商人、職人たちよりも身分差は激しいと思います。そうですね……ちょうどいい機会ですから、一度お話しておきましょうか」
そう言った浩源は練習用の木簡を手に取ると、さらさらと文字を書き連ねる。
そこには“王”“公”“卿”“士”という四つの漢字が書かれていた。
「まず初めに“王”……といってもこれは説明はいらないですかね」
美琳は大人しく頷き、興味津々といった顔で他の文字を覗く。
「次の“公”。これは王家の分家筋の貴族のことです。基本的には王の直系一族が全員逝去なさった場合に王を継ぐための家柄です。備えに近いものですね」
「ふぅん」
「なので王としての素養は身に着けておかないといけず、かと言って王に万が一のことがあったときに途絶えていてはいけないという理由であまり重要な役職に就けることも出来ず……まあ一言で言えばお飾りですね」
「お飾り」
「お荷物とも言います」
「はぁ……」
「一応王の手が回らない仕事を担ってもらうことも多いのですが……あくまで“代理”なので、決定権などはないんですよ」
「そうなんだ」
「ええ。まあ、あのような人たちの話はこのくらいで」
浩源は澱んだ表情を浮かべたが、すぐに元の表情に戻って次の文字に人差し指を置く。
「この“卿”というのは、上流貴族のことを指します。勇豪さんはここに当たりますね」
「え、そうなんですか」
「見えないでしょう」
美琳は素直に首肯しかけ、慌てて首を振る。
「ふふ、いいんですよ。気を遣わなくて。むしろその気遣いは勇豪さんにしてあげてください」
「え…………分かりました」
美琳は不満そうな顔をしつつも、渋々了承の意を表した。
浩源は彼女の反応を予想していたのだろう。苦笑は浮かべたものの、そのまま最後の文字の話を始める。
「そして“士”は下級貴族に当たります。貴族の中では最も地位が低く、先程言ったように貧しい者もいます」
浩源は“士”と書いた場所をそっと撫でる。
「仕事の種類は限られ、王宮の中でも雑用に近いことが多いです。私も、本来なら護衛長補佐など出来ないのですよ」
美琳は目を見開く。
「昔、私は王宮書庫の掃除を任されていたのですよ。でもどうやっても出世の見込めない職に不満を持ちまして、少しは出世の可能性がある軍に志願したのです」
不意に彼は恥ずかしそうな口振りになる。
「その当時は私も若かったのでね、自分の能力を驕っていまして。上官が出す指示によく口を出していたら目をつけられてしまったのです」
“そんなときに勇豪さんと出会ったんです”と浩源は心の底から嬉しそうに話す。
「あれは勇豪さんがまだ護衛長になる前でしたね。あの人は私の知識量に気づくと、彼直属の部下にしてくれたのです。“俺は書類仕事は苦手だから、ちょうどこういうのが欲しかったんだ”なんて言いながら」
“あの人、嫌がってるだけで、本当は私よりも早く作れるんですよ?”と悪友が秘密を共有するような声色で美琳に囁く。
「……勇豪さんは、誰よりも身分に厳しい人です。でも、一度身分と能力が見合ってないと判断すると、その人には必ず能力相応の身分になってほしい、そう考える人でもあるんです」
そこまで話し終えた浩源が、先程までの温かい眼差しから冷酷な目へ豹変する。
「それ故、あの人には味方も多ければ、敵も多いのです。今までは勇豪さん自身の功績が高いから手出しする輩は出てきませんでしたが……」
突然浩源は美琳をまっすぐに見つめ直す。美琳もまた、その目を見つめ返す。
「美琳さん、護衛長は貴女が後宮に入ったときに恥を掻いてほしくない、そう思っているはずです」
「!そんな風には……」
「あの人は照れ屋ですからね。一番の本音は隠したがるんですよ」
美琳の瞳がわずかに揺れた。
それ対し浩源は、いつも通りの胡散臭い笑みになる。
「と、いう訳で。美琳さんには国の歴史も学んでもらいましょうかね」
「全然“と、いう訳で”じゃないんですけど?!」
「ふふふふ、そんなに楽しみだったんですか?」
「そんなこと一言も言ってないんだけど?!なんでそうなるの!」
「ふふふふふふ」
「笑って誤魔化そうとしないでくれます?!」
美琳が憤っているのを浩源はのらりくらりと躱し、さりげなく経書を彼女の文机の上に置く。
少女は心底嫌そうな顔をしながらも筆を持ち直し、浩源もまた、真剣な様子で指導を再開するのであった。
その裏で浩源は物思いに耽っていた。
(これから先、勇豪さんは美琳さんを後宮に入れるためなら自分のことなど構わなくなるんでしょうね。認めた人にはいつもそうするように)
浩源は美琳の文字を直しつつ、彼女に恨みがましい目を向ける。
(でも、こんな少女のためにそんなことはさせませんよ。貴方が盾となろうとするのなら、私が代わりに盾となります。貴方が彼女を立派に育てあげたいのなら、私が育てましょう)
浩源はほくそ笑む。
(永遠に貴方が必要としてくれるためなら、私はなんでもやるんですよ?だから……)
「たとえ小憎らしい相手でも優しく接してあげられるのですよ」
「?何か言いましたか?」
「なんでもありませんよ」
にこ、と浩源は微笑んで瞳を隠した。
くすぐるような響きの囁き声が兵舎を歩く兵たちの耳に漏れ聞こえてきた。
兵たちはその声につられてとある部屋を覗くと、そこには少女と見紛う程美しい少年と切れ長の目の男が二人きりで膝を突き合わせていた。
美少年の明眸はどことなく潤んでいるように見えたが、男は涼やかな表情のままだ。
男は優しく少年に話しかける。
「そこはもっと力を緩めて」
「あッ!こう、ですか?」
「そうです。上手になりましたね。ではもう一度……」
少年は頬を赤らめて手元を弄くる。
男はもたついている少年を愉快そうな笑顔で見守り、彼の手をそっと握る。
二人の間には得も言われぬ空気が醸し出され、見守る兵たちは気圧されて彼らに近づくことが出来ない。
ごくり、と誰かが唾を飲み込む音が聞こえた――――
美琳は兵舎の一角にある小部屋で浩源に文字を習っていた。
少女は生まれて初めて手にした筆に四苦八苦する日々を送っていた。
文字を間違える度に木簡を小刀で削る、など日常茶飯事で、始めたての頃など木簡を見る間に薄く心細い厚さに変じさせていた。
……それは数か月経った今も大して変わらない。
なんとか初歩の漢字を覚えたと思ったら、難易度が上がる度に苦戦するのが繰り返された。もはや文字を書いているのだか木簡を削っているのだか分からない有様となっていた。
「美琳さん、また点を書き忘れていますよ」
「!そっか、これは点がいるのか」
浩源は書かれたばかりの文字を指差して、抜けているところを指摘する。
美琳は子供のように唇を尖らせて、うんうんと唸りながら模写をしていた。されどその字はとてもじゃないが見ていられるものではなかった。
見本にしている浩源の流麗な字とは全く違う、蚯蚓ののたくったような字が次々と綴られていく。
だが美琳は真剣そのものだ。
すっかり集中し始めたのを確認すると、浩源は彼女を見守りながら書類仕事を再開した。
そこには戦前とは思えない長閑な時間が流れていた。
数刻経った頃だろうか。
ふと、美琳は手を止め、ちらりと浩源の顔を覗き見る。
「まだ休憩の時間じゃありませんよ」
浩源は手元の木簡から顔も上げずに彼女の目線に答える。
「いや、そうじゃなくて……いつもよく付き合ってくれるな、って思ったんです」
浩源はどこか違和感を覚えて美琳の顔を見る。
「そんなことですか?これも仕事の内ですから、気にしないでください」
「分かってはいるんですけど。なんでそんなに根気強いのかなって。私だったらこんな覚えの悪い奴、すぐに見捨てます」
「別に根気強い訳じゃないですよ」
「でも、その……」
珍しく歯切れの悪い彼女に、浩源の方が戸惑い始める。
「なんですか?怒らないので言ってください」
浩源が促しても美琳はなかなか話さなかった。
けれど意を決したのだろう。恐る恐る言葉を吐き出す。
「どんな魂胆があるのかなって」
ぱちくり、と浩源は瞬く。
目線の先には美琳の疑心に満ちた目があった。
浩源は何か言おうとしたのだろう。口を開く。だがそこから漏れたのは堪えた笑いだった。
「ふふ、そんな風に考えていたんですね」
「だって、あなたは“無駄”なことはしない人な気がするので」
その言葉で浩源は余計に笑い声を立てる。
美琳は口をムッとへの字にさせた。
「何がおかしいんですか」
「いえ、案外鋭いな、と思いましてね」
「案外って……とにかく。『理由』を教えてください。なんとなくすっきりしなくて、気味が悪いんですよ」
「随分とざっくばらんに言いますね。貴女らしいですけど」
浩源は苦笑いを見せながら“うーん”と、言うか言うまいか悩んでいた。が、「まあいいでしょうか」と呟き彼女の問いに答えた。
「率直に言えば“護衛長が望んでいるから”ですかね」
「護衛長が?」
「ええ。私は護衛長の希望をなるべく叶えたいのです」
「それだけ?」
「それだけですよ?」
いつも通り、どことなく怪しい笑みを浮かべていた浩源だったが、いつもと違って嘘くさい匂いはしなかった。
「……もしかして、私と一緒?」
「貴女が王へ抱く気持ちに近いとは思いますよ」
「ふぅん。じゃあなんで浩源さんはそんなに護衛長が『好き』なの?」
「すッ⁈」
げほっと浩源は咽る。
おそらく彼女が意図しているのはそっちの意味だろう。少女の瞳から、隠しきれない好奇心が満ち溢れていた。
「あのですね……私は妻帯者ですよ」
「?今それ関係あるの?」
美琳は小首を傾げ、何が問題なのか分からない、といった表情だ。
純粋な眼差しを受けた浩源はますます答えに詰まる。どうしたものかと頭を抱えていたが、不意にふっと顔が綻ばせた。
「美琳さん。物事には必ず“成り立ち”があるんですよ」
「成り立ち?」
「そう、成り立ちです。言葉も。道具も。そして……気持ちも」
“気持ちも……”と美琳は小さく繰り返す。
「“理由”とも言えますね。例えば……貴女が王と共に都城まで来た“理由”はなんですか?」
「一緒にいたいから」
「では何故?」
「それ、は……『見つけてくれた』から。私を『美琳』にしてくれたから」
にこり、と浩源は微笑む。
「それが“成り立ち”です。私も、勇豪さんに見出してもらったから、勇豪さんのためになんでもするんです」
美琳は彼の言葉に耳を傾け始めた。
「私の家は下級貴族の中でもかなり貧乏でしてね。でもそれは、知識に貪欲だった祖先が多数の経書をかき集めていたせいで財産がなくなったからなんです」
そこで言葉を区切ると、浩源は小さな箱を描くような仕草をする。その隣に大きな箱も描く。
「私の家はほんの小さな家で、家族七人で住むには小さすぎましてね。食べるものにもよく困っていました。でもその隣には家よりも大きな書庫がありまして……同級の子らには“経書狂いの家”“木簡でも食べた方がいいんじゃないか?”などと馬鹿にされたものです」
浩源は遠い目で苦い顔をする。
「私はそれが無性に悔しくて。“好きでこんな家に生まれたんじゃない”“なんだってこんな貧しい暮らしを強いられなければならないのか”とよく思ったものです」
二人の手はすっかり止まっていた。だが浩源はそんなことなど忘れたように過去の記憶を思い起こし続けた。
「ただ、ある日気づいたのです。これこそ財産なのでは、と」
「これって?」
「経書ですよ。つまり、知識です」
「知識が、財産?」
「ええ。我が家には王宮でも貴重な経書が集められていたのを見つけたのです。祖先がどうやって手に入れたのかは分からないのですが……私はそれが、宮殿で戦うための武器になると思いました」
美琳は顎に手を当ててじっと考える。
「お金を得るために戦う必要があった、から?」
浩源の目が緩やかな弧を描く。そこからは子を教え導こうとする親のような、そんな慈愛の情が滲んでいた。
「それもありました。でもそれ以上に、馬鹿にしてきた奴らを見返したかった」
美琳はまたも首を傾げる。
「王宮では基本的に身分が覆ることはあり得ません。そして身分によって与えられる仕事は決まっています」
「貴族は全部一緒じゃないの?」
「全然違いますよ。むしろ庶人や商人、職人たちよりも身分差は激しいと思います。そうですね……ちょうどいい機会ですから、一度お話しておきましょうか」
そう言った浩源は練習用の木簡を手に取ると、さらさらと文字を書き連ねる。
そこには“王”“公”“卿”“士”という四つの漢字が書かれていた。
「まず初めに“王”……といってもこれは説明はいらないですかね」
美琳は大人しく頷き、興味津々といった顔で他の文字を覗く。
「次の“公”。これは王家の分家筋の貴族のことです。基本的には王の直系一族が全員逝去なさった場合に王を継ぐための家柄です。備えに近いものですね」
「ふぅん」
「なので王としての素養は身に着けておかないといけず、かと言って王に万が一のことがあったときに途絶えていてはいけないという理由であまり重要な役職に就けることも出来ず……まあ一言で言えばお飾りですね」
「お飾り」
「お荷物とも言います」
「はぁ……」
「一応王の手が回らない仕事を担ってもらうことも多いのですが……あくまで“代理”なので、決定権などはないんですよ」
「そうなんだ」
「ええ。まあ、あのような人たちの話はこのくらいで」
浩源は澱んだ表情を浮かべたが、すぐに元の表情に戻って次の文字に人差し指を置く。
「この“卿”というのは、上流貴族のことを指します。勇豪さんはここに当たりますね」
「え、そうなんですか」
「見えないでしょう」
美琳は素直に首肯しかけ、慌てて首を振る。
「ふふ、いいんですよ。気を遣わなくて。むしろその気遣いは勇豪さんにしてあげてください」
「え…………分かりました」
美琳は不満そうな顔をしつつも、渋々了承の意を表した。
浩源は彼女の反応を予想していたのだろう。苦笑は浮かべたものの、そのまま最後の文字の話を始める。
「そして“士”は下級貴族に当たります。貴族の中では最も地位が低く、先程言ったように貧しい者もいます」
浩源は“士”と書いた場所をそっと撫でる。
「仕事の種類は限られ、王宮の中でも雑用に近いことが多いです。私も、本来なら護衛長補佐など出来ないのですよ」
美琳は目を見開く。
「昔、私は王宮書庫の掃除を任されていたのですよ。でもどうやっても出世の見込めない職に不満を持ちまして、少しは出世の可能性がある軍に志願したのです」
不意に彼は恥ずかしそうな口振りになる。
「その当時は私も若かったのでね、自分の能力を驕っていまして。上官が出す指示によく口を出していたら目をつけられてしまったのです」
“そんなときに勇豪さんと出会ったんです”と浩源は心の底から嬉しそうに話す。
「あれは勇豪さんがまだ護衛長になる前でしたね。あの人は私の知識量に気づくと、彼直属の部下にしてくれたのです。“俺は書類仕事は苦手だから、ちょうどこういうのが欲しかったんだ”なんて言いながら」
“あの人、嫌がってるだけで、本当は私よりも早く作れるんですよ?”と悪友が秘密を共有するような声色で美琳に囁く。
「……勇豪さんは、誰よりも身分に厳しい人です。でも、一度身分と能力が見合ってないと判断すると、その人には必ず能力相応の身分になってほしい、そう考える人でもあるんです」
そこまで話し終えた浩源が、先程までの温かい眼差しから冷酷な目へ豹変する。
「それ故、あの人には味方も多ければ、敵も多いのです。今までは勇豪さん自身の功績が高いから手出しする輩は出てきませんでしたが……」
突然浩源は美琳をまっすぐに見つめ直す。美琳もまた、その目を見つめ返す。
「美琳さん、護衛長は貴女が後宮に入ったときに恥を掻いてほしくない、そう思っているはずです」
「!そんな風には……」
「あの人は照れ屋ですからね。一番の本音は隠したがるんですよ」
美琳の瞳がわずかに揺れた。
それ対し浩源は、いつも通りの胡散臭い笑みになる。
「と、いう訳で。美琳さんには国の歴史も学んでもらいましょうかね」
「全然“と、いう訳で”じゃないんですけど?!」
「ふふふふ、そんなに楽しみだったんですか?」
「そんなこと一言も言ってないんだけど?!なんでそうなるの!」
「ふふふふふふ」
「笑って誤魔化そうとしないでくれます?!」
美琳が憤っているのを浩源はのらりくらりと躱し、さりげなく経書を彼女の文机の上に置く。
少女は心底嫌そうな顔をしながらも筆を持ち直し、浩源もまた、真剣な様子で指導を再開するのであった。
その裏で浩源は物思いに耽っていた。
(これから先、勇豪さんは美琳さんを後宮に入れるためなら自分のことなど構わなくなるんでしょうね。認めた人にはいつもそうするように)
浩源は美琳の文字を直しつつ、彼女に恨みがましい目を向ける。
(でも、こんな少女のためにそんなことはさせませんよ。貴方が盾となろうとするのなら、私が代わりに盾となります。貴方が彼女を立派に育てあげたいのなら、私が育てましょう)
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