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帝国主義への反論
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柳は様々な地域にのこる、人々の生活に根差した工芸品を探し出して評価した。彼はそれぞれの地域の文化を理解しようとしたし、尊重しようとした。その地域の工芸は、その地域の文化の中でしかはぐくまれないからだ。日中戦争を経て、太平洋戦争へ向かうこの時代、いわゆる日本列島内の工芸に対する再評価としての「民芸」は割と歓迎された。しかし朝鮮半島や沖縄諸島などの文化は軽んじられていた。柳の心がこれら軽んじられた民族へと向かったのは、当然の結果だったと思う。
1919年、朝鮮半島で日本からの独立運動、三・一運動が起こる。柳はいち早く、朝鮮総督府(日本の官庁)による独立運動の弾圧に抗議した(「朝鮮人を思ふ」)。さらに翌年発表された「朝鮮の友に贈る書」では、柳特有の感傷的でありながら格調高い文章で「情愛」によって繋がる平和主義を説いた。
「人は大かたの苦しみは忍ぶ事も出来よう。しかし愛と自由とを欠く処には、どうしても住む事が出来ないのである。」
「まさに日本にとっての兄弟である朝鮮は、日本の奴隷であってはならぬ。それは朝鮮の不名誉であるよりも、日本にとっての恥辱の恥辱である。」
柳は、朝鮮民族が誇り高く、すばらしい文化水準を持つ民族であることを内外に知らしめるため、浅川兄弟と共に朝鮮民族美術館を設立した(1924年)。柳は一貫して日本の朝鮮政策を批判した。しかし、朝鮮民族による完全な独立政府が樹立されるべきだというような踏み込んだ主張まではしなかった。先に述べたように、柳には社会構造や政治体制そのものを変革しようという思想がなかったのである。また、柳は戦争や暴力といったものを全く認めなかった。日本の侵略戦争を批判したが、独立のための戦争も認めていなかった。こういった植民地政策への迎合ともとれるような態度が原因で、現在の韓国国内での柳の評価は二分されている(亡くなった後に韓国政府から宝冠文化勲章が追贈されるなどの、一定の評価は受けている)。
また、沖縄の工芸品に心を惹かれていた柳は、1938年、はじめて沖縄へ渡る。沖縄では最後の琉球国王の弟である尚順の協力などもあって、様々な沖縄の文化を見ることができた。柳は沖縄の工芸品だけでなく、その言葉、文学、音楽、舞踊、建築あらゆる固有の文化に非常な感銘を受けた。柳ら民芸協会の面々はその後も数回にわたって沖縄を訪れる。その際『民藝』誌上などに掲載されたレポートや写真、動画などは、戦争で灰燼に帰す前の沖縄の姿を伝えて、貴重である。
1940年、柳らは今後の沖縄観光の活性化のために、国際観光局などに呼びかけ沖縄旅行の同行を依頼。この時、沖縄で行われた意見交換会において、観光局水澤澄夫氏が、沖縄において家庭でも標準語を強要するのは行き過ぎではないかと発言したのを発端とし、「琉球方言禁止」をめぐる問題が沖縄、のちに東京でも大激論となった。県庁学務部は標準語奨励は国策であり、沖縄出身者が標準語を話せないことでいかに不便を被っているか、などの内容の声明を在沖新聞三紙に掲載。すかさず柳も在沖三紙に反論を掲載。骨子は
・標準語奨励は必要、全国で同じ言葉が使われるのは意義深い
・しかし固有言語否定は固有文化否定である
・琉球語は日本の古語に近く重要な言語
という三点であった。
柳らは、家庭内でまで琉球方言を禁止してしまうことによって、完全に沖縄各地の言葉が失われてしまうことを危惧したのであり、標準語教育自体には理解を示していたのだが、沖縄では幾分過剰に受け取られたようにも思える。また、柳らには研究者としての目線もあったので(しかし本質的には沖縄への尊敬と愛からの行動であったのだが)、ものめずらしい賤民を研究対象として取り扱うような、差別的行為ととらえられ、反発された面もあっただろう。
沖縄を出て、日本各地で学び、働き、あるいは軍隊に入る際に、標準語をうまく話せないことで沖縄の人々は様々な差別を受けていた。完全な日本人と認められることによって沖縄への差別的待遇を失くそうとしていた県内の人々の動向に、柳らの訴えが相反したという点もある。しかし、あくまで柳は、沖縄の美しい言葉と、その言葉で書かれ、歌われた芸術が失われるのを危惧したのである。沖縄内でも柳らに理解を示す層もあり、琉球新報などは柳に同調したが、県庁の反発は大きかった。
東京では柳の盟友・武者小路実篤をはじめ、立場は異なれど柳田國男なども柳らの論に同調した。ちょうどこの時期は言論統制が強まった時代でもあり、柳らの論は当局には無視された形で終わったが、沖縄に限らず方言を悪ととらえていた当時の一部の風潮に一石を投じた。
これら軍国主義時代の出来事には、柳の思想の非常に重要な部分が表出していると思う。それは徹底した平和主義と、あらゆる人間の尊厳を守護しようとする姿勢である。彼は「美」を生み出す人々は、その人自身が美しいのだ、という信念に基づいて、人間性というものを全く信頼していた。そして、戦争を人間性から最も遠いものだと思っていた。楽観的かもしれない。しかし、戦時中も全くぶれることなくこの主張を続けたことが、柳宗悦の凄まじさだと思う。
1919年、朝鮮半島で日本からの独立運動、三・一運動が起こる。柳はいち早く、朝鮮総督府(日本の官庁)による独立運動の弾圧に抗議した(「朝鮮人を思ふ」)。さらに翌年発表された「朝鮮の友に贈る書」では、柳特有の感傷的でありながら格調高い文章で「情愛」によって繋がる平和主義を説いた。
「人は大かたの苦しみは忍ぶ事も出来よう。しかし愛と自由とを欠く処には、どうしても住む事が出来ないのである。」
「まさに日本にとっての兄弟である朝鮮は、日本の奴隷であってはならぬ。それは朝鮮の不名誉であるよりも、日本にとっての恥辱の恥辱である。」
柳は、朝鮮民族が誇り高く、すばらしい文化水準を持つ民族であることを内外に知らしめるため、浅川兄弟と共に朝鮮民族美術館を設立した(1924年)。柳は一貫して日本の朝鮮政策を批判した。しかし、朝鮮民族による完全な独立政府が樹立されるべきだというような踏み込んだ主張まではしなかった。先に述べたように、柳には社会構造や政治体制そのものを変革しようという思想がなかったのである。また、柳は戦争や暴力といったものを全く認めなかった。日本の侵略戦争を批判したが、独立のための戦争も認めていなかった。こういった植民地政策への迎合ともとれるような態度が原因で、現在の韓国国内での柳の評価は二分されている(亡くなった後に韓国政府から宝冠文化勲章が追贈されるなどの、一定の評価は受けている)。
また、沖縄の工芸品に心を惹かれていた柳は、1938年、はじめて沖縄へ渡る。沖縄では最後の琉球国王の弟である尚順の協力などもあって、様々な沖縄の文化を見ることができた。柳は沖縄の工芸品だけでなく、その言葉、文学、音楽、舞踊、建築あらゆる固有の文化に非常な感銘を受けた。柳ら民芸協会の面々はその後も数回にわたって沖縄を訪れる。その際『民藝』誌上などに掲載されたレポートや写真、動画などは、戦争で灰燼に帰す前の沖縄の姿を伝えて、貴重である。
1940年、柳らは今後の沖縄観光の活性化のために、国際観光局などに呼びかけ沖縄旅行の同行を依頼。この時、沖縄で行われた意見交換会において、観光局水澤澄夫氏が、沖縄において家庭でも標準語を強要するのは行き過ぎではないかと発言したのを発端とし、「琉球方言禁止」をめぐる問題が沖縄、のちに東京でも大激論となった。県庁学務部は標準語奨励は国策であり、沖縄出身者が標準語を話せないことでいかに不便を被っているか、などの内容の声明を在沖新聞三紙に掲載。すかさず柳も在沖三紙に反論を掲載。骨子は
・標準語奨励は必要、全国で同じ言葉が使われるのは意義深い
・しかし固有言語否定は固有文化否定である
・琉球語は日本の古語に近く重要な言語
という三点であった。
柳らは、家庭内でまで琉球方言を禁止してしまうことによって、完全に沖縄各地の言葉が失われてしまうことを危惧したのであり、標準語教育自体には理解を示していたのだが、沖縄では幾分過剰に受け取られたようにも思える。また、柳らには研究者としての目線もあったので(しかし本質的には沖縄への尊敬と愛からの行動であったのだが)、ものめずらしい賤民を研究対象として取り扱うような、差別的行為ととらえられ、反発された面もあっただろう。
沖縄を出て、日本各地で学び、働き、あるいは軍隊に入る際に、標準語をうまく話せないことで沖縄の人々は様々な差別を受けていた。完全な日本人と認められることによって沖縄への差別的待遇を失くそうとしていた県内の人々の動向に、柳らの訴えが相反したという点もある。しかし、あくまで柳は、沖縄の美しい言葉と、その言葉で書かれ、歌われた芸術が失われるのを危惧したのである。沖縄内でも柳らに理解を示す層もあり、琉球新報などは柳に同調したが、県庁の反発は大きかった。
東京では柳の盟友・武者小路実篤をはじめ、立場は異なれど柳田國男なども柳らの論に同調した。ちょうどこの時期は言論統制が強まった時代でもあり、柳らの論は当局には無視された形で終わったが、沖縄に限らず方言を悪ととらえていた当時の一部の風潮に一石を投じた。
これら軍国主義時代の出来事には、柳の思想の非常に重要な部分が表出していると思う。それは徹底した平和主義と、あらゆる人間の尊厳を守護しようとする姿勢である。彼は「美」を生み出す人々は、その人自身が美しいのだ、という信念に基づいて、人間性というものを全く信頼していた。そして、戦争を人間性から最も遠いものだと思っていた。楽観的かもしれない。しかし、戦時中も全くぶれることなくこの主張を続けたことが、柳宗悦の凄まじさだと思う。
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