29 / 30
第7章
浴衣はじめ
しおりを挟む
六月三十日。谷町線に乗ると、愛染さんのお祭りに向かう浴衣姿の女性たちが目に付いた。楽しげな彼女たちを横目に、綾之助は深いため息を吐く。仕事に行きたくない。
今日は歌舞伎役者の船乗り込みである。
昔は江戸や京から大坂にやってくる役者が、道頓堀まで派手な船で乗り付けて、目立ちついでに興行の宣伝をするという行事だったのだが、今や出身地に関係なく人気の歌舞伎役者が船に乗って八軒家浜から道頓堀まで川を下る夏の風物詩となっている。
今月、綾之助にはそう大した役はついていないというのに、なぜか船乗り込みのメンバーに入っていた。襲名バブルはかくも恐ろしい。さらに、発表された船の席次を見た綾之助の苦悩は深かった。なぜか、綾之助は大竹三也と同じ船に乗り込むことになっていたのだ。
三〇分以上至近距離で隣同士。しんどい。
しかし、気が重かろうがなんだろうが、仕事をサボることはできない。
集合場所に着いた綾之助は三也を見つけて、いややなあ、と思いながらも挨拶をすべく近づいていった。すると、綾之助を見つけた三也の方から、なんと笑みを浮かべて話しかけてきたのだ。
「綾之助さん。同じ船ですね。よろしくお願いします」
あまりに思いがけないことに、綾之助は一瞬返事に詰まった。
「こ、こちらこそよろしくお願いいたします。うち、船乗り込みはじめてなので、ご迷惑をおかけするかもしれませんが」
「大丈夫ですよ。何かわからないことがあれば、聞いてくださいね」
とてもイヤミには見えない笑顔で言って、三也は去っていった。
三也の後ろ姿を見送って、綾之助は思わず紋乃の袖をつかんだ。彼は綾之助の準備を手伝ってくれていたのだ。
「み、見たか紋乃」
「うん」
動揺する綾之助にたいして、紋乃は冷静だった。
「綾之と知八さんのこと噂になってるから、綾之に気ぃ遣うことにしたんやろ。やりやすうなってよかったやん」
「噂てなに」
「だから、二人は付き合うてるって噂。まぁ、さすがにあの人も知八さんの恋人は虐めにくいわな」
「なんで、そ、そんな噂が!」
「なんや、バレてへんと思うてたんか」
「バレてへん? バレてへんとか以前に、付き合うてへん!」
「お前……」
紋乃がかわいそうなものを見る目で綾之助を見た。
「親友の俺にまで嘘つかんでええねんで」
なぜ信じない!
どうやら出石でかいがいしく綾之助の面倒を見る知八の姿が、皆を勘違いさせたらしい。なんとか誤解を解かなければ、知八さんに迷惑がかかってしまう。そう思ったが、誤解を解けるような名案もなかなか思いつかなかった。
三也と隣り合っての船乗り込みも無事和やかに済み、楽屋に荷物を入れようとして、綾之助は再びびっくりした。知八と綾之助が同じ楽屋なのである。ふつうなら、大名跡相模屋の御曹司知八と綾之助が相部屋になることなんて絶対にありえない。
恐る恐る楽屋へ行くと、知八がごく当たり前のように綾之助を迎え入れた。
「あの、うち、この部屋で合うてますか……?」
ちゃんと確認してきたものの未だに信じられなくて、綾之助は知八に尋ねた。
「うん」
納得がいかなくて、綾之助は勇気をふりしぼって、知八に聞いた。
「うちと同じ部屋がいいって、知八さんがおっしゃったんですか?」
「うん、そう」
知八は少し拗ねたような顔で、畳の目を手でなぞっていた。
「なんでです?」
「だって、綾まだ体調良くないし」
「もう大丈夫ですよ」
「迷惑やったか?」
上目遣いで聞かれては、綾之助はなにも言えない。
「い、いえ。でも、」
「一ヶ月だけやから、辛抱してくれ」
そんな風に下手に出られてはどうしようもない。そもそも、別に知八が同室なのが嫌なのではない。噂が怖いのだ。綾之助が危惧したとおり、この楽屋同室事件によって、綾之助は知八の恋人、というのはもはや関係者の共通認識になってしまった。
知八と同じ部屋なので、草履や足袋が突然なくなることもない。それだけでもかなり精神的に楽だった。陰で何を言われているか分かったものではないが、常に知八が横にいるので、表面上は綾之助への風当たりは和らいでいた。知八なりに綾之助を守ろうとして、楽屋を同室にしてくれたのかもしれない。綾之助は割合心穏やかに毎日を過ごしていた。
今日は歌舞伎役者の船乗り込みである。
昔は江戸や京から大坂にやってくる役者が、道頓堀まで派手な船で乗り付けて、目立ちついでに興行の宣伝をするという行事だったのだが、今や出身地に関係なく人気の歌舞伎役者が船に乗って八軒家浜から道頓堀まで川を下る夏の風物詩となっている。
今月、綾之助にはそう大した役はついていないというのに、なぜか船乗り込みのメンバーに入っていた。襲名バブルはかくも恐ろしい。さらに、発表された船の席次を見た綾之助の苦悩は深かった。なぜか、綾之助は大竹三也と同じ船に乗り込むことになっていたのだ。
三〇分以上至近距離で隣同士。しんどい。
しかし、気が重かろうがなんだろうが、仕事をサボることはできない。
集合場所に着いた綾之助は三也を見つけて、いややなあ、と思いながらも挨拶をすべく近づいていった。すると、綾之助を見つけた三也の方から、なんと笑みを浮かべて話しかけてきたのだ。
「綾之助さん。同じ船ですね。よろしくお願いします」
あまりに思いがけないことに、綾之助は一瞬返事に詰まった。
「こ、こちらこそよろしくお願いいたします。うち、船乗り込みはじめてなので、ご迷惑をおかけするかもしれませんが」
「大丈夫ですよ。何かわからないことがあれば、聞いてくださいね」
とてもイヤミには見えない笑顔で言って、三也は去っていった。
三也の後ろ姿を見送って、綾之助は思わず紋乃の袖をつかんだ。彼は綾之助の準備を手伝ってくれていたのだ。
「み、見たか紋乃」
「うん」
動揺する綾之助にたいして、紋乃は冷静だった。
「綾之と知八さんのこと噂になってるから、綾之に気ぃ遣うことにしたんやろ。やりやすうなってよかったやん」
「噂てなに」
「だから、二人は付き合うてるって噂。まぁ、さすがにあの人も知八さんの恋人は虐めにくいわな」
「なんで、そ、そんな噂が!」
「なんや、バレてへんと思うてたんか」
「バレてへん? バレてへんとか以前に、付き合うてへん!」
「お前……」
紋乃がかわいそうなものを見る目で綾之助を見た。
「親友の俺にまで嘘つかんでええねんで」
なぜ信じない!
どうやら出石でかいがいしく綾之助の面倒を見る知八の姿が、皆を勘違いさせたらしい。なんとか誤解を解かなければ、知八さんに迷惑がかかってしまう。そう思ったが、誤解を解けるような名案もなかなか思いつかなかった。
三也と隣り合っての船乗り込みも無事和やかに済み、楽屋に荷物を入れようとして、綾之助は再びびっくりした。知八と綾之助が同じ楽屋なのである。ふつうなら、大名跡相模屋の御曹司知八と綾之助が相部屋になることなんて絶対にありえない。
恐る恐る楽屋へ行くと、知八がごく当たり前のように綾之助を迎え入れた。
「あの、うち、この部屋で合うてますか……?」
ちゃんと確認してきたものの未だに信じられなくて、綾之助は知八に尋ねた。
「うん」
納得がいかなくて、綾之助は勇気をふりしぼって、知八に聞いた。
「うちと同じ部屋がいいって、知八さんがおっしゃったんですか?」
「うん、そう」
知八は少し拗ねたような顔で、畳の目を手でなぞっていた。
「なんでです?」
「だって、綾まだ体調良くないし」
「もう大丈夫ですよ」
「迷惑やったか?」
上目遣いで聞かれては、綾之助はなにも言えない。
「い、いえ。でも、」
「一ヶ月だけやから、辛抱してくれ」
そんな風に下手に出られてはどうしようもない。そもそも、別に知八が同室なのが嫌なのではない。噂が怖いのだ。綾之助が危惧したとおり、この楽屋同室事件によって、綾之助は知八の恋人、というのはもはや関係者の共通認識になってしまった。
知八と同じ部屋なので、草履や足袋が突然なくなることもない。それだけでもかなり精神的に楽だった。陰で何を言われているか分かったものではないが、常に知八が横にいるので、表面上は綾之助への風当たりは和らいでいた。知八なりに綾之助を守ろうとして、楽屋を同室にしてくれたのかもしれない。綾之助は割合心穏やかに毎日を過ごしていた。
0
あなたにおすすめの小説
経理部の美人チーフは、イケメン新人営業に口説かれています――「凛さん、俺だけに甘くないですか?」年下の猛攻にツンデレ先輩が陥落寸前!
中岡 始
BL
社内一の“整いすぎた男”、阿波座凛(あわざりん)は経理部のチーフ。
無表情・無駄のない所作・隙のない資料――
完璧主義で知られる凛に、誰もが一歩距離を置いている。
けれど、新卒営業の谷町光だけは違った。
イケメン・人懐こい・書類はギリギリ不備、でも笑顔は無敵。
毎日のように経費精算の修正を理由に現れる彼は、
凛にだけ距離感がおかしい――そしてやたら甘い。
「また会えて嬉しいです。…書類ミスった甲斐ありました」
戸惑う凛をよそに、光の“攻略”は着実に進行中。
けれど凛は、自分だけに見せる光の視線に、
どこか“計算”を感じ始めていて……?
狙って懐くイケメン新人営業×こじらせツンデレ美人経理チーフ
業務上のやりとりから始まる、じわじわ甘くてときどき切ない“再計算不能”なオフィスラブ!
オッサン課長のくせに、無自覚に色気がありすぎる~ヨレヨレ上司とエリート部下、恋は仕事の延長ですか?
中岡 始
BL
「新しい営業課長は、超敏腕らしい」
そんな噂を聞いて、期待していた橘陽翔(28)。
しかし、本社に異動してきた榊圭吾(42)は――
ヨレヨレのスーツ、だるそうな関西弁、ネクタイはゆるゆる。
(……いやいや、これがウワサの敏腕課長⁉ 絶対ハズレ上司だろ)
ところが、初めての商談でその評価は一変する。
榊は巧みな話術と冷静な判断で、取引先をあっさり落としにかかる。
(仕事できる……! でも、普段がズボラすぎるんだよな)
ネクタイを締め直したり、書類のコーヒー染みを指摘したり――
なぜか陽翔は、榊の世話を焼くようになっていく。
そして気づく。
「この人、仕事中はめちゃくちゃデキるのに……なんでこんなに色気ダダ漏れなんだ?」
煙草をくゆらせる仕草。
ネクタイを緩める無防備な姿。
そのたびに、陽翔の理性は削られていく。
「俺、もう待てないんで……」
ついに陽翔は榊を追い詰めるが――
「……お前、ほんまに俺のこと好きなんか?」
攻めるエリート部下 × 無自覚な色気ダダ漏れのオッサン上司。
じわじわ迫る恋の攻防戦、始まります。
【最新話:主任補佐のくせに、年下部下に見透かされている(気がする)ー関西弁とミルクティーと、春のすこし前に恋が始まった話】
主任補佐として、ちゃんとせなあかん──
そう思っていたのに、君はなぜか、俺の“弱いとこ”ばっかり見抜いてくる。
春のすこし手前、まだ肌寒い季節。
新卒配属された年下部下・瀬戸 悠貴は、無表情で口数も少ないけれど、妙に人の感情に鋭い。
風邪気味で声がかすれた朝、佐倉 奏太は、彼にそっと差し出された「ミルクティー」に言葉を失う。
何も言わないのに、なぜか伝わってしまう。
拒むでも、求めるでもなく、ただそばにいようとするその距離感に──佐倉の心は少しずつ、ほどけていく。
年上なのに、守られるみたいで、悔しいけどうれしい。
これはまだ、恋になる“少し前”の物語。
関西弁とミルクティーに包まれた、ふたりだけの静かな始まり。
(5月14日より連載開始)
兄貴同士でキスしたら、何か問題でも?
perari
BL
挑戦として、イヤホンをつけたまま、相手の口の動きだけで会話を理解し、電話に答える――そんな遊びをしていた時のことだ。
その最中、俺の親友である理光が、なぜか俺の彼女に電話をかけた。
彼は俺のすぐそばに身を寄せ、薄い唇をわずかに結び、ひと言つぶやいた。
……その瞬間、俺の頭は真っ白になった。
口の動きで読み取った言葉は、間違いなくこうだった。
――「光希、俺はお前が好きだ。」
次の瞬間、電話の向こう側で彼女の怒りが炸裂したのだ。
【完結・BL】俺をフッた初恋相手が、転勤して上司になったんだが?【先輩×後輩】
彩華
BL
『俺、そんな目でお前のこと見れない』
高校一年の冬。俺の初恋は、見事に玉砕した。
その後、俺は見事にDTのまま。あっという間に25になり。何の変化もないまま、ごくごくありふれたサラリーマンになった俺。
そんな俺の前に、運命の悪戯か。再び初恋相手は現れて────!?
今日もBL営業カフェで働いています!?
卵丸
BL
ブラック企業の会社に嫌気がさして、退職した沢良宜 篤は給料が高い、男だけのカフェに面接を受けるが「腐男子ですか?」と聞かれて「腐男子ではない」と答えてしまい。改めて、説明文の「BLカフェ」と見てなかったので不採用と思っていたが次の日に採用通知が届き疑心暗鬼で初日バイトに向かうと、店長とBL営業をして腐女子のお客様を喜ばせて!?ノンケBL初心者のバイトと同性愛者の店長のノンケから始まるBLコメディ
※ 不定期更新です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる