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二
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子どもはのそのそと起き出して、机に向かった。目的は無論、日記をつけるのだった。が、既に頁は埋まっていた。子どもにはその記述の内容が(何か具体的なことが書かれているのは分かったけれど)良く理解できなかった。
ぱたんと閉じて、子どもは再び、扉の前に向かった。深呼吸をして、気を鎮める。やはり子どもは、今日もこの外へ、出ていかなくてはならないのであった。臆していると、不思議なことに、子ども以外に誰もいないはずのこの部屋で、声が響いた。
「行かなくても、良いんだよ?」
それは有り得ない、と子どもは心中に即答した。
心に明かりを結んでみた。大丈夫、この明かりのある内は、まだきちんとやっていける……
子どもは心して、扉を開いた。例によって、外は殆ど闇に覆われているのだった。
微かに見通せるのは、隅の方に張る蜘蛛の巣に、溶け出して爛れた壁であった。そうすると、前方脇から、『なめくじ』が這い出してきた。なめくじとは言っても、それは子どもの膝下くらいまでの丈を持っていて、這う度に「ネチャ、ネチャ」と音をさせるのであった。更に良く良く見ると、頭頂からは一本、糸のようなものが伸びて、円形の何かと繋がっている。子どもは腰を折り曲げ前に傾いて、その姿を注視しようとした。その時、円形はひらりと翻って——それは真白の土台に大きな真黒を取り付けた目玉であった。子どもはギャっと飛び上がって、キョロ、キョロと逃げ場を探した。が、引き返すことは不可能と知った。それで、とにかく駆け抜けた。なめくじは、何かを吠え立てていた。恐らく、自分を罵っているのに違いない、と子どもは思った。何と罵るのかは、分からなかった。が、何せこのなめくじは、自分のことが気に入らないのだと思った。
スタスタと駆けていった先で、今度は人間に出くわした。その人間は、サッカーボール大の右耳を有していた。人間は、ニヤニヤと笑っていた。どこか妙だった。それは捉えようによっては、醜く歪んだ笑みにも見えた。
子どもにはしかし、この笑みの理由が分かるような気がした。この人は、恐らく周囲に拒絶され続けてきたのである。だから、今度こそは受け入れられようと、精一杯にやっている。子どもは、この人の手を握ってやった。すると、この人は目を充血するほど大きく見開いて、唇をひん剥いて喜びを表した。気味が悪くて恐ろしかったけれど、我慢した。
友だちが、できたのである。子どもは、この友だちが、心より、自ずと笑えるようになる事を、願った。そして子どもは、この友だちと共に先を進んでいくのである。一人で寂しく、おずおずと行くよりは、ずっと良い。
更に、この日は良く人に出会う。今度は、頭の形が真四角に角ばってできた人であった。膝を抱えて、存分落ち込んでいる様子であるから、子どもも屈み込んで、優しげに話しかけてみる。けれども、あっという間に突っぱねられてしまった。
「ほっといて!」と、子どもの差し伸べた手は、払い除けられた。子どもと友だちとは、顔を見合わせた。友だちは、また歪んだ笑みを見せていた。そしてその中には、この真四角の子を気の毒に思う表情が隠されていた。
真四角の子は、とかく子どもらを遠ざけようと必死であった。嫌でも子どもらが近づこうものなら、危害を加えることも辞さないつもりらしかった。
二人は観念して、この場を離れた。救いたい気持ちはあるけれど、どうしても救えそうには無かったし、そして、あの子自身も、救いなど求めていないように見えた。が、子どもには、あの子の行動の意味が分かるような気がした。怖がっていたのに、違いない——何を? 恐らく、愛されないことを。そうして諦めたように、見せかけているだけなのだ、愛されることを。
人は、愛されなくては生きていけないのだろうか。いや、少し違う。愛されなくては、生きてはいけないのだろうか?
実際、友だちにその哲学的問いを尋ねてみたところ、友だちは子どもの思う以上に深刻に考え込んで、頭を抱えうずくまってしまった。精一杯、辛そうな顔をしていた。子どもはこれを見下ろし、幾らか嬉しくなった。友だちが自身の心の内を、直接的に表現できているところに、喜んだのである。
「少し前までなら、このまま立ち直れなかった」とふと顔を上げた友だちは言った。友だちの表情は相変わらず歪みながら、どこか清々しくも見えた。
「でも、君と友だちになって、『愛』みたいなものを少し感じることができたから。誰かに必要とされるか、されないかって、ことなんだと思う」
じゃあ愛って具体的に何だろう、と尋ねると、子どもはふっとため息をついて冷め切った顔をした。
「そんなの分かるわけない。一度も、触れたことが無かったんだから」
子どもは、一層友だちの信頼を得たいと考えた。友だちが自分と一緒にいて、心からの安心を得られるような、疑いようのない——友だちにとって、絶対的な存在に在りたいと、切に願った。
さて、また歩いていくと、三人目に出会った。三人目も、やっぱり身体の何処かが歪であった。が、何がどう歪なのかは問題では無かった。問題は、人であるかどうかということだけであった。人であるならば、子どもにとって後はどうでも良かった。
その者は、子どもに向けられる好意に、笑顔で応えた。子どもも嬉しくなって、手を取り合おうとした。ところが、その握る力が異様に強かった! と思うと同時に、腕をあらぬ方向へと捻り上げられて、子どもはとかく、痛い目に遭わされた。
「痛い、痛い」と訴えた。慌てて友だちが引き離して、救ってくれたけれど、もう痛みはすぐには引かず、ジンジンと内側から唸っていた。
その者の目の色は、先の二人とはまた違っていて、目に映るものを憎悪する色に染まっていた。子どもは知っていた。この目の色は、精一杯自己を防衛する為の手段である。そうでなくては、やっていかれないのである。みんな、同じだ。自分を守る為に、時に人を傷つけて、何とか生きている。だから、子どもは、誰をも否定する気にはなれなかった。救ってあげよう、などという、大層な考えにも及ばなかった。何故なら、子ども自身、苦しみ、救いを求めている最中なのである。
愛により、愛が得られるという訳でも無いらしかった。結局のところ、三度試した内、一度実を結んだだけであった。
進んでいくと、昨日と同じように突き当たりに来て、子どもは、友だちと顔を見合わせた。
「また明日」と友だちはそう言って、何故だか申し訳なさげに笑った。子どもは、うんと頷いて、友だちの手を握った。そうして合言葉を呟いたのだった。
「私にはできない」
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