ある探偵<第一部>

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第一章:隠しごと

第十八話:祖母の想い

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 文治が国木田老人との対談を終えた日のことである。
 国木田家を辞した文治が梶原家に帰宅すると、既に兄の邦彦と、弟の博之が来ていた。母が駅まで迎えに行ったという。その帰りしな、スーパーに寄って晩飯の総菜を購入し、二人はその品々を居間にある幅広の座敷机に広げ、夕食の準備をしていた。
 文治が掛ける言葉を迷っているうち、こちらに気付いた邦彦が、おかえりと言った。文治はなんとか、平静を装ってただいまと返す。邦彦は、細面に焦げ茶色をした無骨な眼鏡が際立っていて、心なしか以前より痩せている気がした。
「叔父さんの知り合いの家に行ってたんだって?」
 博之が、人数分の皿を机に配膳しながら、訊いた。
「ああ。叔父さんのことで、ちょっと話がしたくて」
 小説のことは黙っていようと思った。いずれ父や祖母から二人に伝わるかもしれないが、嬉々として話すことではない気がした。
 博之は、何かを勘ぐった様子はなさそうだった。
「文にいは……叔父さんと仲良かったもんなあ」
『文にい』と懐かしむように言った博之は、言葉尻を神妙にした。
「別に。博之も、兄貴も似たようなもんだろ」
 自分でもよく分からない謙遜を、文治はこぼした。名状し難い後ろめたさがあった。
 優れた叔父の影響を受けたように見える兄や弟に比べ、しがない出版社に勤める自分が、とりわけ叔父から何かを授かったなどと認めることは、自らの才覚を貶める行為以外の何物でもないように思えた。
 兄の邦彦は、子供の頃から秀才だった。
 小学校中学校ではいつも満点かそれに近い成績を上げていたし、小学校から続けていた陸上部では、中学の頃に短距離走で県大会にまで出場した。
 ただの文武両道ではない。実力をひけらかすような性格ではなく面倒見も良かったので、クラスの悪ガキのような奴らからも一目置かれる存在だった。小学校に入った文治は、邦彦の弟、として教師や上級生から扱われることに困惑を覚えつつ、当時はまだ純粋に、邦彦に敬意を持っていた。
 今にして思えば、邦彦は潁脱えいだつした『目』を持っていたと、文治は考えている。視力ではなく、観察眼である。他人の感情の機微、学問や身体の動かし方の勘所を見抜くのが抜群に上手かった。
 印象的な思い出がある。まだ、邦彦も文治も小学生だったころだ。放課後、本を借りるために学校の図書室を訪ねた。
 文治はそこで、兄と、ある生徒の姿を見つけ、思わず本棚の影に姿を隠した。兄と居た生徒は、授業中にふらりと居なくなったり、教師を殴ったり、学校の窓ガラスを破壊した、などという悪評で枚挙にいとまがない問題児の男子生徒だった。
 教師たちも持て余すという生徒と共に居た邦彦を見て、文治は慌てて周囲を見回し、司書の先生を探した。邦彦が虐められているのではないかと思ったのだ。
 しかし、どこにも司書の姿はなく、よほど職員室に先生を呼びに行こうかと思った矢先、どこかで歓声が上がった。声は邦彦たちの方から聞こえ、よくよく二人を見なおして唖然とした。
 邦彦が、問題児の生徒を相手に勉強を教えているようなのである。どうやら件の生徒が問題か何かに正答して、歓声を上げたらしかった。文治が、邦彦を慕うより怖れたのは、この時からかもしれない。
 かくして、邦彦は非の打ち所のない成績で国立大学の医学部を卒業し、医師になった。なぜ医師を目指したのか文治は聞いたことはないが、目標は小学生の頃に定まっていたようであり、その過程には宗平叔父が関わっているように思えてならなかった。
 両親は、邦彦と文治を比較することはなく、邦彦の頑張りも文治の頑張りも等しく褒めた。それが文治に鈍い痛みを残した。成果に応じた報酬が与えられる常を理解できないほど、文治は愚かでは無かった。
 邦彦と同様に褒められることは、成果が足りない分の間隙を何かが埋めていることを指し示しており、その間隙にあるのは親の同情や諦観だと捉えた。
 一時、文治は兄を参照して追いかけたこともあったが、届かない目標に向かって足掻き続けられるほどの強さを、文治は持たなかった。中学、高校と彼の成績は低迷していた。
 弟の博之の存在も、文治には重い。
 博之は、兄二人の背中を見て育ったからか、最小の努力で万事を高い水準でそつなくこなした。快活にして爛漫であり好奇心旺盛、周囲と関係を築くことも得意で、友人を幾人も家に連れてきた。
 文字を書く才能もあった。読書感想文を書けば、全国区の大会で幾度も表彰を受ける。博之の根幹をなす突出したものは、明快明瞭な論理的思考力と、独自の感性だったと言っていい。文治の次に、宗平叔父の部屋に入り浸って本を読みふけったのは、博之だった。
 そんなことだから、物書きになるのかと思っていた博之が法曹界に道を定めたのは些か意外でもあった。物を書くより、聞いた話を持ち前の才で理路整然と整える方が性に合っていたのかもしれない。
 いずれにせよ、文治にとっては兄同様、いや、それ以上に、自らに肉薄して他意なく傷を負わせてくる存在であった。
 自分は平々凡々とした父の子であって、兄と弟は叔父の子なのでは、と思ったこともあった。身なりも悪くない叔父が独身であることを疑問に思い、本気でそう考えた時期がある。
 しかし思ったところでどうにもならない。文治は、兄弟の背を追うことを早々に辞めた。それからは、自分は自分だと言い聞かせる欺瞞の日々だった。
 遮二無二しゃにむに、仕事に打ち込んで七年。今も荊棘けいきょくの道を歩いている。
 疲労と多忙で頭を埋め尽くしても、ふとした時に傷は存在感を増す。目を瞑って視界を遮っても、瞼を越して、目もあやな光が瞳を差す。縮まらぬ距離を、置いていかないでくれと哀訴し、更には同情を寄越されることほど、惨めなことはないのだ。
 食卓の準備をしながら、文治の口は滔々とうとうたる懸河けんがの弁をふるった。
 病院はどうだ、弁護士事務所の方はどうだ、忙しいのだろうと、互いの近況に関する話題の口火を切ったのは彼だった。
 久闊きゅうかつが文治を動かしたのではない。沈黙は自傷だった。無言とは、一抹のやましさや引け目を滲ませることと同義であり、切れ味の鈍い刃が痛々しく身体に食い込んでいくさまを手をつかねて見るようなもので、耐え難かった。
 同じ痛みなら、外からではなく内から、つまりは自らの首をじわじわと木綿で締め上げていく鈍い痛みを、文治は選んだ。
「ブンのところは、どうなんだ?」
 卓上に総菜を並べ終わって、邦彦は畳に座り込んだ。文治は、そのはす向かいに座った。訛りのない、普段聞きなれているはずの標準語になぜか引っかかりを覚えたが、すぐに忘れた。
「まあまあかな。取材に飛びまわったり、締め切り間近とか、忙しい時もある」
「仕事で色々行けるってのは良いな。俺は、学会でもないと病院を出ることがないし」
「良し悪しだ。移動ばっかり多くてもいけない」
「ブンの性には合ってる気がするよ」
 そうかな、と文治は笑ってみせた。
 台所の方から、水分が突沸する音と、香ばしい香辛料の香りが漂ってくる。邦彦の好物である、母手製の焼きそばを作っているらしい。母が一秒でも早く、調理を終えることを、文治は期待した。
 しばらくすると、父と祖母が居間にやって来た。話の種にも尽きてテレビを見ていたので、少しの間、入ってきたことに気がつかなかった。
 ちょうどその頃に、母が焼きそばを持った大皿と、ニラ玉もやし炒めを持って来た。ニラ玉は博之の好物であった。文治には特段の好き嫌いがなかったものの、鬱屈としたものが、さっと胸を圧迫したのが分かった。
 家族が揃い、ささやかな乾杯を皮切りに、夕食が始まった。
 普段、インスタントや冷凍食品、菓子パンなどコンビニの品で食事を済ますことの多い文治にとって、久々のまともな食事だった。だが食欲はそれほど湧かなかった。
 食卓には、ぽつぽつと会話が生まれた。
 県庁勤めの父が定年退職をして、六十五までの再雇用期間にあるという話に端を発して——文治はこの日初めて聞いた——互いの近況報告が始まった。
 邦彦や博之の話については、先ほど聞いたばかりだったので、適当に相槌を打った。文治の番になると、この日、三度目にもなる慣れた近況報告を、ほとんど祖母に話すつもりで語った。
  父や母の関西弁を聞いていると不思議なもので、仕事で慣れ親しんだ標準語が徐々に関西弁に戻っていった。それは、邦彦や博之も同じようであった。
 祖母の光代は、皆の近況報告を、ほうか、ええな、とこくこく頷きながら聞いていた。祖母は、座椅子にこそ座っているが、自分で箸と茶碗をもって食事ができるし、歩行にも特段の問題がないようである。
 耳も、覚えの方も確かだった。食事中、ニラは家の庭で採れたものだと語った光代は、九十にしては万事壮健であると、文治は心密かに安堵した。
 だからこそ、その時の衝撃は言語に絶したものだった。
 バラエティ番組の笑い声の合間、僅かに訪れた沈黙に、嗚咽が混じった。最初に気がついたのは父、勲夫だった。
 勲夫は、どもった声を上げた。声のした方を、文治は見やる。勲夫が硬直していた。その視線の先を、文治は追った。
 勲夫の隣に座る祖母が、滂沱として涙を流していた。
「おい……」
 勲夫の慌てたような掛けた声で、皆の注目が集まった。祖母の様子に気づいた場の全員が絶句したのが分かった。日に焼けた祖母の顔が、酷く土気色に見えた。
「なんで、自殺なんぞ……。やっちもねえ。やっちもねえことじゃ……。わしが、外国なんぞ行くんでねえと、言うときゃ……」
 声涙俱せいるいともに下るさまで呟いた光代の手が、震えている。文治は茫然自失した。
 何ごとか言おうとした父の顔からは色が消え、視線が卓の上に落ちる。悔しさを噛み締めるように、口元が固く強ばっていた。
 場は水を打ったように静まった。テレビの音声だけが空しく響く。
 邦彦と博之は、驚愕で歪めた互いの顔を見合わせていた。二人は叔父の死の詳細を聞かされていなかったようで、動揺を落ち着ける先を求めて、目線を両親のもとに彷徨わせる。口を開こうとしない両親に、二人もまた、沈黙を余儀なくされた。
 その後、早々に食事を終えた光代は、憔悴したまま居間を辞していった。
「黙っとって、すまん」
 祖母が居なくなると、勲夫は頭を下げ、事の次第を語った。母も既に勲夫から話を聞いていたらしく、顔色を蒼白にしているものの、その顔に驚きはなかった。
 邦彦と博之は、沈痛な面持ちで、勲夫の話をじっと聞いていた。
「ばあちゃんも、ショックやろうな……」
 話を聞き終え、博之が、ぼそりと呟く。誰も、相槌一つ打てない。文治は、無性に殴りつけてやりたくなった。
 そんな当たり前のことを言う博之も、そんな当たり前のことに今の今まで気づかないで勝手に安堵していた、自分自身も。
 祖母は深く傷ついていた。父もまた同様だった。痛みをひた隠しにしていただけである。
 だが、許容を越えれば感情の器は容易く決壊する。そうしたことを、文治はこの日、この時に、ようやく理解した。
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