【完結】Amnesia(アムネシア)~カフェ「時遊館」に現れた美しい青年は記憶を失っていた~

紫紺

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第2章 1年間

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「ねえ。マスター」

 スカウトの挙動不審な態度を思い出し、ニヤついていた航留。はたと気づくと、すぐ目の前にメッシュの頭頂部があった。

「おっと、どうした?」
「僕、マスターがゲイだって聞いて、なんだかその、おかしな感情になったんです」

 立ち止まった零は海のほうに向きなおる。彼の艶のある肌にゆらゆらと光の波紋が映った。

「おかしな感情?」
「どこか、安心したっていうか。ホッとしたんです」
「それは……相当おかしな感情だな。自分が何者かわからなくて、居候させてやるって男がゲイだと言われた状況なら」

 ヤバイ状況、身の危険を感じても不思議はない。

「越崎先生は、それでも信用できる奴だからって言ってましたけど」
「へえ。それは初耳だ」

 同じように海に向く。やはり眩しい。航留は目が開けられなくなって瞼をしばしばとさせた。

「僕、きっと……なんだと思います」
「え?」

 細い声。地声は大きいほうではないが、活舌がよい。けれど波の音ではっきりと聞こえなかった。航留は風になびく前髪をかきあげ、零を見た。

「なに?」
「マスターのこと好きなんです。だから……」

 今度ははっきりと聞こえた。航留はピンセットで神経を摘ままれたようにびくんと反応する。

「零……あのっ」

 落ち着け。零も自分も。

「僕、ゲイなんだと思います。そういうのは、記憶がなくなっても忘れないし変わらない。きっと。マスターのこと、好きだって気づいて」

 脈略のない言い訳のような零の言葉。それを聞いていながら、航留は自分の心臓と波の音がうるさくて、理解の淵に届くのに時間がかかった。

「マスターは……僕のこと、どう思ってますか? 厄介なバイト……かな」
「え、そ、それは」

 どうって、それは。抑えてきた想いを解放してもいいのだろうか。寝かしつけてたものを突然たたき起こすなど、乱暴意外のなにものでもない。

 ――――なんて言えばいいんだ。俺は……ええい、ままよ!

「零」

 脳で考えるよりも早く、体が動いた。零を背中から抱きしめる。

「厄介なわけない。俺も……俺も零が好きだ」

 零のくせっ毛に頬ずりし、ぎゅっと腕に力をいれる。びくっと震える体。それでもやがて、零の指が組まれた腕に絡んでくる。自分の体に体重を預けるのを感じた。

「良かった……。夜中に足止めしたのに……マスター、なにもせずに部屋に戻るから」
「ええ? なんだ。あれ、誘ってたのか?」

 あの悶々とした夜、まさかそんなことがあろうとは。航留の顎の下で、零が小さく頷いている。

「やっぱり、気の毒にと同情してるだけなんだって思ってました」
「馬鹿……俺はあの時……ああ、もういいよ」

 腕の中で零を回し、正面を向かせる。うるうるとした黒い瞳が二つ、航留を見つめている。うっすら桃色に染めた頬、艶やかな唇。航留はそっと、その唇に自分のそれを触れさせる。ゆっくりと、うっとりするような口づけを交わした。

 繰り返し繰り返し、波が足元に寄せては返す、間断ない波音が二人を包んでいた。



 その日から、二人の同居は同棲になった。記憶を失ったことを忘れるくらい、幸福を感じる日々。不思議なことに頭痛やめまいもほとんどなくなり、夜中に悲鳴で起きることもなくなった。同じ部屋で眠ることで心が安定したせいもあるだろう。

 店の外では、呼び名もマスターから航留に変化した。二人の間にあった主従関係も他人行儀な言葉遣いも、瞬く間に消えてなくなった。

「もう、記憶戻らなくてもいい」

 零の本音がどこにあるかわからないが、そんなことを口にするようになった。航留は何も言わず苦笑いしながら零の頭を軽くとんとんする。それは、航留こそが願うことだった。

 ――――もう、記憶なんて戻らないでくれ。

 夏には二人で海へ行き、秋は紅葉を眺め、雪が降ったクリスマスには子供のようにはしゃいだ。

「世界がこんなに美しいなんて、知らなかった」

 零がため息交じりに吐く台詞を、航留はその両腕で受け止めた。
敢えて隠すことをしなかった二人の関係は、すぐに越崎や店の常連客達にそれと知られるようになった。彼らはそれを祝福し、カフェは今まで以上に明るい雰囲気になった。ただ越崎だけは、反対せずとも一歩引いた態度ではあったが。
そして季節は巡り、二人にとって二度目の春が『時游館』に訪れた。



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