嫉妬帝国エンヴィニア

兜坂嵐

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番外編

死を喰え2025-1

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 神竜大聖堂に滞在して、一週間。
 いつのまにか朝の空気にも慣れた頃だった。
 薄く光の射す聖堂の天窓。そこから落ちる影はステンドグラスの模様を床に描き。
 昨晩の湿った空気を抱えたまま、建物全体を冷たく包み込んでいた。
 その中で、いつものように――サタヌスがラフにパンくずを蹴っていた。
「なぁ……教会ってよ」
 唐突に落とされた声が、石の床でコツンと跳ねる。
「昔から“弱者救済”ってやつやるもんだって、メルクリウスが言ってたぜ。
 ……インマールさんも、施すのか?」
 彼の問いに答えたのは、いつものように静かな、あの司祭だった。
 インマールは視線を伏せ、手に持っていた古びた祈祷書を閉じる。
「ええ、頼まれれば」
「……ただ、定期的な配給がありますので、皆さんそちらに行かれることが多いですね」
 彼の声はまるで、鐘の前奏のように柔らかく。
 そして、そのすぐ後に、少し思い出したように口を開いた。

「……あ。今日が配給日でした」
 その瞬間、背後で声がはじけるように響いた。
「配給www ディストピアかっ☆!」
 背伸びをしながら口を開いたのはウラヌスだ。
 テンションだけは無駄に明るい。だが、その眼だけは真剣に情報を探っている。
「ねぇ、それってマント引きちぎられるやつ? 番号札制?
 ていうか“配給日”って響きだけで腹が減るんだけど~~!!」
 その様子を見ながら、ユピテルは長い前髪を指でかき上げた。
 彼の口調はいつも通り軽いが、言葉の棘は鋭い。
「へぇー意外だ、あの王族。」
「“貧民は生きてる価値ない”って真顔で言いそうな奴らばっかだったのにさ」
「そいつらが“慈悲のパン”?……冗談きついぜ」
 その瞬間、聖堂の窓の外から――乾いた鐘の音が響いた。

 カァン……カァン……カァン……。
 それは、誰かの死を告げるものでも、戦争の始まりでもなかった。
 ただ静かに、定時を告げる“配給の合図”。
 石造りの街の中心にある広場には、すでに人影が動いていた。
 インマールが立ち上がる。
 白衣がふわりと揺れ、彼の背中に朝の光が重なる。
「では、皆さんも……いらっしゃいますか?」
 その提案に、誰も即答はしなかった。
 ただ、風が1つ、聖堂の中を抜けていった。
 “供給”という名の施しの中に、何が混ざっているのか。
 この街では、“信仰”も、“食事”も、“死”すらも同じ配列に並ぶ。

 そして誰もがまだ知らなかった。
 このあと配られる“パン”の中に。
 エンヴィニア王族の“終わり”と“始まり”が練り込まれていることを。

 鐘が鳴った。
 それだけで、街は呼吸を止めたように変わった。
 喧騒も、挨拶も、子どもの声も――全てが、音をなくしたかのように。
 街の住人たちは静かに家から出てきて、何も言わず、何も訴えず、ただ列を作った。
 その一人ひとりに、声はない。
 目も合わせない。
 誰も、何も、言わない。

 音を立てているのは、彼らだった。
 漆黒と緑の混じった騎士槍。
 カン……カン……と、石畳を叩きながら先導するエンヴィニアの騎士団。
 背後には、白装束に身を包んだ“道化”たち。

 彼らは笑っていた。
 道化らしく、口元をにっこりと釣り上げ、仮面の奥で不気味な笑みを浮かべていた。
 だが、その仮面は外れない。
 その笑顔が、表情か、装飾か――誰にもわからない。
 笑顔すら、“制度”だった。

 列はゆっくりと進み、無言のまま、民たちは一人ずつ、パンを受け取っていく。
 配られるそれは、どれも同じ形。
 同じ色、同じ焼き目、同じ香り。
 誤差すらない。まるで“型”から抜いた工芸品。

 ユピテルが低くつぶやいた。
「……“与える”ってより、“撒く”って感じだな」
「畑にでもなった気分だよ」
 レイスが、列の後方からそっと視線を上げる。
 道化がパンを差し出しながら、無言で首を傾げたその瞬間。
 何かが、皮膚の奥をぞわりと這った。
「……墓にパンを供えてるようにも見えるな」
 供養か、分配か。
 それとも、儀式か―列の最後尾にいたクロノチームにも、パンが手渡される。
 ふかふかと柔らかく、見た目には何の異常もない。
 ただ、その奥にある“何か”が、言葉ではなく舌で伝えてくる気がした。

 広場の石畳の影、ウラヌスが真っ先に袋を破いた。
「うわ、どうせ配給だからって期待してなかったけど……うっま!?
 なにこれ!?スイーツ!これスイーツ!!☆」
 目を輝かせながら、彼女はパンをかぶりつく。
 口元に、クリームが跳ねた。まるで祝祭のような光景。

 レイスは慎重に、一口だけ齧る。
 目を細めて、舌の上に広がる味を解体していく。
「……抹茶と、甘みを抑えたクリーム」
「舌触りが妙に滑らか……保存料の類いじゃなさそうだな。……魔力か?」
 サタヌスは袋をくしゃりと開き、裏面の成分表を凝視する。
 ラベルはある。だが、原材料名の表記はない。
 ただ一文、「国家機密につき記載不可」と書かれているだけ。
「……そりゃ配給でこれ出されたら誰も文句言わねぇよな」
「逆に怖ぇ。何か隠してる味だ、これ」

 ユピテルはパンを指先で持ち上げ、重さを測るように振った。
「“旨すぎる配給”ってのは、だいたい政治的な味がするんだよなァ」
「……ま、嫌いじゃねぇけど」
 そう言って、彼はぱくりと口に運ぶ。
 その顔に、どこか皮肉じみた笑みが浮かんでいた。

 そしてその時、ふと―レイスが気づいた。
 パンの袋が空気を含んだ拍子に、わずかに漏れ出た香り。
 その中に、奇妙な匂いが混ざっていた。
 抹茶と、血と―発酵の香り。
 それは、日常に擬態した非日常の匂いだった。
 静かに、確かに、闇の幕が開く合図だった。

 彼らは誰ひとりとして言葉を交わさなかった。
 ただ、パンを一口だけ。たったそれだけを食べて、残りは袋へと丁寧に戻した。
 慎重すぎるほど慎重に、これ以上を知ってはいけないという無言の合意でもあったかのように。
 その仕草に気づいたのか、白装束の道化がひとり、ふらりと歩み寄ってきた。
 仮面の奥からは表情が見えない。
 だが、首を傾げる仕草は人懐っこく、語りかける声は妙に穏やかだった。

「えっ、持ち帰るの? “妬み”は共有すると、より深みが増すよ?」
 仮面の奥の笑みは優しさか、それとも別の何かか。
 少なくともこの言葉が“ただの親切”ではないことを、彼らは本能で理解していた。
 レイスが仮面を見ずに答えた。無表情で、静かな声だった。
「ああ、だから一人でゆっくり食べたいんだ。」
 その一言には、あらゆる皮肉が込められていた。
 “毒味はこっちで済ませる”という挑発であり、仮面の奥の者たちに対する無言の牽制だった。
 昼下がり、神竜大聖堂の裏手。石造りの外階段に四人が並んで座っていた。
 誰も口を開かず、ただそれぞれの袋を握ったまま、階段の冷たさを背中に受けていた。

 そこに、静かな足音が近づいてくる。祈祷書を手にしたインマール司祭だった。
 彼は歩みを止め、パンの袋を持つ四人に視線を落とす。その目に、微かな憂いが滲んでいた。
「……そのパンを召し上がったんですね。」
「……“常食してはいけません”よ。……お身体に支障が出ます。」
 その一言に場の空気がわずかに震えた。先に破ったのは、ウラヌスだった。
 彼女は袋の裏を開き、声を張り上げた。
「ちょwwwww、“感情抽出エキス”って何!?!? 
 果汁みたいなノリで感情搾るな!ジュースです☆じゃねーよ!!」
 言葉こそ明るく投げてはいるが、彼女の手はほんのわずかに震えていた。
 笑いの裏に、恐怖が混じっている。
サタヌスがひゅっと息を吸い、袋越しに成分表示を確認する。
「うへぇー……不穏すぎだろそれ……ていうか、成分に“嫉妬霊核”って。漢字だけで胃もたれするわ。」
 一見軽口のようなその言葉も、彼なりの“感じたままの恐怖”だった。



 ユピテルは袋の端をつまみ上げ、パンの重量感を計るように指で軽く弾いた。
 その視線は、いつものように飄々としていたが、言葉には含みがあった。
「……やはりな。インマールさン、このパン……何日放置して腐らない?
 こういう、ふわふわしたパンは普通、1日経てばパサパサだろ?
 でもこれは、さっきより柔らかい。……おかしいだろ?」
 インマールは一瞬口を閉ざした。だが、やがて覚悟を決めたように、言葉を落とした。
「……最大で、常温で……二週間ですね。ええ、長持ちしすぎるんです。不自然なほどに。」
 短い沈黙が落ちた。誰もが、無言のまま袋を見つめた。
 その中にあるのは、たったひとつのパン。
 だが、そこに焼き込まれているものは、単なる材料や魔力ではない。
 “感情”という名の、もっと得体の知れない何かだった。
 レイスが袋をゆっくりと握り、かすれた声で言った。

「……カイネス博士に見せるか、コレ。」
 全員が頷いた。静かに、だが確実に。これは“食事”ではなく、“資料”だった。
 “配給”という名の製品に潜むエンヴィニアの影を暴くため、彼らはパンを手に立ち上がった。
 次に向かうのは、知識と研究の殿堂。すべての真実に秤を当てる者の元。
 このパンの賞味期限が“倫理”であるのならば、今まさにその境界線を越える時だった。
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