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1巻

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 生まれた時から体が弱かった僕は、元気な弟にずっと憧れていた。彼には眩しい太陽みたいな笑顔がよく似合う。
 だけど、優斗は僕を見る時どこか辛そうな顔をしている。頑張って笑ってはいるけど、心は泣いているみたいな顔。そんな顔をさせてごめんね。僕が兄でごめんね。

『けほっけほっ』
『な、七海っ!? 血が……』

 優斗の焦る声。
 へっ? ああ、血が……結構出てるな。布団にこぼれないようにしないと。手をお皿の形にして口に当てるけど、追いつかずにぼたぼたと指の間から血がれていく。
 ぽたぽた……ぽたぽた……

「……ルナ、キルナ!」
(あ、なぁにこれ。またあの時の夢を見ていた? なぜか僕の顔が濡れてるけど、血……じゃないね。これは、透明だもの)
「んぇ? クライスったら、ないてるの?」

 仰向けの状態で寝かされた僕の顔に、やたらと水分を振り撒いていたのはクライスだったらしい。
 強気で不遜、無敵、みたいなワードがぴったりな彼に泣き顔なんて似合わないけれど、イケメンの特権なのか、まなじりからこぼれ落ちるその涙まで美しい。泣いてもイケメンなんてムカつくよ、ほんと。
 でも、僕のために泣いてくれたの? それはなんだか心がほかほかする。

「キルナ、突然倒れるなよ。びっくりするだろ! いや、びっくりさせたのは俺か。悪かった。次は急にキスしたりしない」
(あああ! そうだ。僕、お風呂でこの王子様とキスしちゃったんだ!)

 思い出すと、また顔がカーッと熱くなってくる。

「なっ、キルナ様とキスですと!?」
(うぅっ、ルゥいたの!? 大きな声で言わないでよ。ほら、側に控えた侍女やら護衛やらにも聞こえちゃったじゃない)

 クライスは僕の焦りを気にする様子もなく、真剣な表情で話を続ける。

「急にはしない。だが、いつかきちんとキスさせてくれ。俺、絶対お前と結婚するから」
「……ええっと」
(何? このいきなりの結婚宣言……)

 うまく返事をしなくちゃいけないと思うのに、急展開すぎていい言葉が思い浮かばない。まるで僕と結婚したいみたいに聞こえるけれど、クライスは僕と仕方なく政略結婚させられるんだったよね。もしかして、僕のことを好きになったとか? いや、そんなはずはない。自分で言うのもなんだけど、こんな見るからにハイスペックな王子に気に入られる理由が全く見当たらないもの。そもそも、なんでそんな話の流れになっているのだっけ?
 ああ、そういえば倒れる前に、僕たちは結婚しないとか言っちゃったんだよね。朦朧もうろうとしていたから呂律ろれつも回ってなかったし、はっきり聞こえていたのかわかんないけど、この言い方だとしっかり聞こえていたっぽい。絶対結婚するって意地になっちゃってるんじゃ?
 っていうか、クライスの本当の結婚相手がユジンなのは超重要機密なのに、ぺらぺらしゃべっちゃうなんて僕のバカ! この世界の人にゲームの内容が知られちゃったらストーリーがおかしくなって、二人の恋愛が成立しなくなっちゃうかもしれない。なんとかあの発言は忘れてもらわなければ。
 僕は悪役令息で、ユジンとクライス王子の恋を徹底的に邪魔する役! 
 ユジンをいじめてクライス王子にびへつらって、最終的に処分されるのが使命! 
 よぅし。脳内薔薇ばら色の典型的な悪役を思い浮かべながら、甘ったるい声でさっきのプロポーズの返事をする。

「ぼくとけっこんしてくれるんですかぁ? キルナはぁ、クライスさまのことだぁ~いすきだから、うれしいです~。どうかすえなが~くだいじにしてくださいねぇ」

 ここでしなだれかかるように……だよね。

(あれ? しなだれかかるってどんなだっけ。もたれかかればいい?)

 前世の知識を総動員する。でもベッドの住人だった僕は、恋愛はおろか友情をはぐくんだ経験もほとんどない。参考になるとしたら、お母さんが好きで家に大量にあったから闘病中暇潰しに読んでいた恋愛小説や漫画のたぐいだけ。こんな状況で悪役らしくうまくクライスを誘惑できるかしら。

「……」

 クライスは無言だ。

(やっぱりどう考えても無理だよね。こんなイケメンの王子様、すぐに美人のお姫様に奪われちゃうよ)

 クライスの腕にしがみついて頬を寄せながら策を考える。考えるけど……ああ、考えすぎて疲れちゃった。今日は噴水に落ちたし、お風呂でのぼせちゃったし、キスもしたし、婚約もした。一日でゲームのストーリーはかなり進んだに違いない。順調順調。ユジンを幸せにする第一歩は踏み出せた気がする。
 この調子で悪役令息キルナとしての使命をまっとうして、優斗がイチオシだと言っていたクライスルートのハッピーエンドに弟を導いて、そして――
 ……今世こそはいいお兄ちゃんになるの。

(それにしてもクライスの腕はあったかいな……)
「うぅ~んちょっと、ふわぁ、ねむたくなってきちゃった」

 僕は彼の右腕にすりすりしながら欠伸あくびを噛み殺す。前世もそうだったけど、子どもだからかな。この体もあまり体力はないみたい。

「あ、ああ。ゆっくり眠れよ。……ここにいてやるから」
「んぁ、ありがと。どうしたの? なんだかクライスかおがあかいよ。むにゃ。きみものぼせたんじゃないの? きょうは、とくべつによこでねていいよぉ」

 僕のベッドはかなり広いから、子どもだったら五人は寝られそう。そういえば、よく優斗も布団に入ってきて一緒に眠ったなぁ。前世のベッドはシングルサイズだったから二人で寝るには狭すぎて、朝起きるとどちらかが床に落ちていたっけ。
 瞼が重くてもう限界だった僕は、そのままそっと目を閉じた。布団の中に誰かが入ってきて、その腕に包まれる。

「あったかくて、いいきもち……」

 いつもなら一人っきりで眠るベッドで優しいぬくもりを感じながら、深い眠りに落ちた。

   

   SIDE クライス


 なんなんだ? この可愛い生き物は。俺は腕の中で猫のように丸まって、すやすやと心地よさそうに眠っている彼から目が離せない。
 漆黒しっこくの髪の毛は風呂上がりのせいで、まだしっとりと濡れている。右手を当ててふわりと乾かしてやると、あっという間にサラサラと指の間を通り抜けた。髪を乾かす魔法は火と風の魔法の合わせ技だ。
 俺は六属性の魔法が使える。光、火、風、水、氷、土。そして王族しか使えない光属性の最強魔法が使える。魔力量も歴代の王たちをしのぐほど多く、皆が魔法大国アステリアをべるに相応ふさわしいと、俺の力を褒め称える。
 少し前、そんな俺の元に婚約話が来た。相手は自分と同じ五歳の公爵家の嫡男だという。話を聞いた時は、正直つまらないと思った。会ったこともない相手と婚約なんて。

「おい、ロイル。キルナ=フェルライトってどんなやつか知っているか?」

 ロイル=クルーゼンとは乳兄弟で、俺の側近として働くべく生まれた時から一緒に育てられているが、今のところただの悪友、という感じだ。

「う~ん。私も会ったことはないですが、噂によると相当な我儘わがまま息子だって話ですよ。気に入らない使用人は全員解雇。高飛車で傲慢ごうまんで、鼻持ちならない性格なのよ~って、侍女のレイラが言っていました」

 侍女のレイラはフェルライト公爵家の使用人を辞め、つい最近入ってきた使用人だ。また年上の女性に手を出したのか。

「お前、子どものくせに大人の女とイチャイチャするのは犯罪だぞ」
「ふふっ、子どもだからするんですよ。私たちはどうせすぐに婚約者をてがわれて政略結婚ってやつをさせられるんですから。自由なうちに遊んでおかないと」
「なるほど、それも一理ある。今まさに婚約とやらをさせられそうな状況だからな」

 ふぅ、と俺は重い息を吐く。

「婚約相手がどんな子か気になるなんて、青春ですね。でもまぁ噂に聞く限りとんでもない性格みたいですし、幻滅するのが関の山ですよ。期待しないことですね」
「……見に行ってみるか」
「へ?」
「だから婚約する前に嫌なやつだとわかったら阻止したらいいじゃないか。幸い俺にはそれだけの力がある」
「確かにそうですね。しかも公爵家に忍び込んで婚約相手を観察するとかすっごく面白そう。最近詰め込み式の教育しか脳がない教師たちに、山ほど宿題を出されてうんざりしていたんです。そうと決まったらさっそく行きましょう」

 こうしてこっそり公爵家に出向いてきた俺たちは、人に見つからないよう庭園の植物の陰をこそこそと動き回っていた。

「隠れにくいですね」
「ああ、植物が圧倒的に少ない。なんだこの庭は。庭師がいないのか?」
「公爵邸に限ってそんなことはあり得ませんよ。とある情報によりますと、公爵夫人は虫がお嫌いなようで、庭園に花を植えることを好まないそうです」

 とある情報……また侍女情報か。俺はうんざりしながらベンチの陰に座った。広い割に何もないせいで、これは想像していたものよりかなり難易度の高いかくれんぼだ。
 二人で隠れ場所を探してうろうろしていると、ザァーと水の流れる音が聞こえてくる。

「これがあの噂に名高いフェルライト家の噴水ですか。確かに、すごい……」
「そうだな」
『フェルライト家の噴水は壮大で優美。噴き出す水が七色に輝く姿はこの世のものとは思えないほど素晴らしく……』

 話の長い家庭教師が長々と説明していたことを思い出しながら、しばらく水の流れを眺めていると、小さな人影が自分の背丈よりも高いふちをよじ登っていくのが見えた。

「おいおい、かなり危なっかしいが大丈夫か?」

 ふるふると震える両足で、ふちに立ち上がる。

「……う~ん。ちょっと怖いですね」

 ロイルも心配そうだ。少し近づいて様子を見てみようか。そう思っていた矢先に、どぼーん! と派手な音がして、子どもの姿が消えた。

「なっ」

 俺は動揺しながらも上着と靴を脱ぎ、その子どもの方へ駆けようとする。が、横から腕を掴まれ動きを止めた。

「お待ちください。服装からして貴族。この家の子どもでしょう。すぐに助けが来るはずです。ここで見守りましょう」

 そういさめるロイルの手を振り切って走った。なんだか胸騒ぎがする。行かなければならない。そんな気がするんだ。
 俺の予感は的中した。
 ──俺は虹色にきらめく水の中で、運命の人、キルナ=フェルライトと出会った。


 トントントントン!
 人払いをして二人きりの寝室の窓を、誰かがノックしている。誰だ? キルナが起きるだろうが。不審者かもしれないと警戒しながら窓際に近づいた。いざとなったら俺がキルナを守らなければ。
 ドンドンドンドン!

「おいやめろ。窓を叩くな。キルナが起きる……って、あ」

 そこには今回の計画の相棒がいた。いつもさわやかに風になびく水色の髪が、木登りをしたせいか乱れている。

「クライス様ひどいです。忘れてましたよね、私のこと」
「そういえば」
「そういえばじゃないですよ。物陰からこっそり見ようって話だったのに、いきなり走って行って噴水に飛び込んでしまわれるから。本当に、どうしようかと思いましたよ」
「すまない。あまりに衝撃的なことが続いたせいで、お前と来たことをすっかり忘れていた」
「はぁ。まあご無事だったからよかったですけど。そろそろ帰らないとまずいですよ。私たち一応お忍びで来たんですから」

 ロイルにかされ、もう一度だけ、とベッドに視線を移した。予期せぬ行動ばかりして俺のことを振り回す婚約者は、まだぐっすりと眠っている。
 さらさらの黒髪も長い睫毛まつげもピンクの唇も、なぜか皆愛おしい。今日出会ったばかりなのにこんなにかれるなんて、どうかしていると思う。

「まさか俺がこんな型破りな黒猫を好きになるなんてな」

 色白の小さい手を掴んで、呪文を唱え、キスをしようとしてやめた。急にキスはしない、今度はきちんとキスさせてくれだなんて、変な約束をしてしまったな。が、そんな約束を律儀に守る自分がおかしくて笑ってしまう。
 代わりに目を閉じて想像する。呪文を唱え細い薬指に口づけをし、そこに王家の紋章が浮かび上がるところを。虹色のリング状に輝くそれは、白い肌にじわじわと吸い込まれるようにして溶け込んでいく。そうすることができたなら……
 けれど、『なんてこと!』と真っ赤になって怒るキルナの顔がちらついた。彼に自分の印を授けるのは、彼の許しを得てからだ。
 ゆっくりと目を開けると、小さな手をそっと布団の中へと戻し、その場を後にした。


 出ていく時と同じく使用人に見つからないように部屋に帰り、雑事を片づけていると、先ほどからロイルが面白がるような視線を向けてきて鬱陶うっとうしい。

「よかったですね。クライス様」
「何がだ。ニヤニヤしながらこちらを見るな」
「婚約者が気に入ったようで何よりです」
「お前にはまだあいつのことは何も話してないだろう」

 俺は照れていることがばれないように、極力声を低くして言った。

「わかりますよ。公爵邸から帰ってからというもの、心ここに在らず。ふわふわふわふわ。綿菓子のように甘~い柔らかい眼差しで、お手紙なんか書いちゃって」

 なんだか悔しいが、その通りなので何も言い返せない。
 ただ、とロイルは声を落として続ける。

「少し気になることがあります。あの髪の色」

 ──漆黒しっこくの髪。
 混じり気のない黒は闇属性の証だ。七属性の中で最もみ嫌われる属性。しかも、彼からは肝心の魔力がほとんど感じられなかった。

「そんな子どもが、クライス様の婚約者として認められるとは思えない」

 第一王子と結婚となれば、将来の王妃の地位を約束されたも同然だ。もちろん力の強い後継を産むために、魔力の量が多く、質も高い者が選ばれる。

「……ああ、それは俺も気になっていた」
「このまますんなり婚約の話は進むのでしょうか」

 おそらくキルナの魔力量や属性について、王家は正確な情報を把握できていない。情報不足か、公爵が故意に隠しているのか。いずれにせよこの秘密が明るみに出たら……

「この婚約、破談になるかもしれません」

 俺の心を見透かしたようにロイルは呟いた。


   * * *


「もう! なんできのうのよるおこしてくれなかったの? よるごはんたべそこねちゃったじゃない。そこのメイド、クビ!」

 若い女性を指差して僕はのたまう。

「そこのメイドじゃありません。メアリーとお呼びください、キルナ様。それに、私をクビにしたらこのやしきのメイドがいなくなります」

 小柄で可愛らしい見た目に反してハキハキと言い返してくる意外な性格が面白くて、思わずまじまじと見てしまった。そばかすの散った小さめの顔に少し垂れ目な女性だ。
 彼女の言う通り、落ちこぼれの面倒を見るよりも、先行き明るく待遇のいいユジンの元で働こうと、ほとんどの使用人がそちらに行ってしまって、僕の元で働くメイドはメアリー一人しかいない。執事はルゥしかいないし、家庭教師はセントラだけ、料理人はベンスだけ。
 それにしてもメアリーか。メイドときたらメアリーだよね、執事ときたらセバスチャンだよねっ、と定番の響きになんだかうれしくなるけれど、そういえば僕は悲しんでいるのだった。

「うぅ~。メアリーがおこしてくれなかったからシフォンケーキがたべられなかったよぅ。ふぇぇん」

 あの奇跡のふわふわが食べられなかったと思うと、無性に泣きたい気分になる。

「そのまま寝かせて差し上げるようにと私が指示したのです」

 僕の泣き声を聞きつけて、ルゥが部屋に入ってきた。

「昨日の分のシフォンケーキも用意してございますから、ご安心ください」
「え、そうなの? じゃあいいや。たべるたべる。いまたべるぅ」

 涙を引っ込めうきうきしながら、僕はルゥと一緒に食堂へと向かった。

「昨日来られたクライス王子からお手紙が届いております」
「え、ああ、クライスね……」

 あの王子様然とした綺麗な顔を思い出すだけで、またしてもぼん! と顔が赤くなる。もうもうもう、知らない。あんな破廉恥はれんちで意地悪な子! 顔も見たくな……あ、でも一緒に寝てくれたのはうれしかったな。やっぱり顔ぐらいは見たいかも。

「それともう一つ、お伝えしたいことがあるのですが」
「んっとぉ、それはあとでいいよ。てがみもあとでみる。わるいけど、いまはケーキのことしかかんがえられないの!」

 食堂の扉をルゥが開くと、その先には長~い豪華なテーブルが見えた。テーブルの中央には僕の好きなジーンの花が飾られ、品よくコーディネートされている。
 僕はいつもこの広いテーブルを独り占めしてご飯を食べる。朝も、昼も、夕方も。今まで誰とも一緒に食べたことがない。お母様はもっと大きな建物にある食堂のテーブルで、お父様は仕事場で食事をとられるの。
 そもそも僕の部屋はお父様やお母様やユジンが暮らしているところから少し離れたとこ、つまり別邸にあるから、遠いしここで食べた方が効率がいいよね。
 えっ? 可哀想? 可哀想じゃないよ、ぜんっぜん。だって最初からそうだったから、別になんとも思わない。前世を思い出した今ではちょっと変かな? と思うことはあるけれど……
 テーブルの上を見ていると、サラダやテリーヌやスープなんかが並べられていく。野菜嫌いの僕はサラダなんて絶対に食べないのにおかしいな。

「あれなぁに?」

 一人分とは思えない量の食事が次々と並べられていくのを見て、不思議に思い訊いてみた。すると、ルゥが言いにくそうに口を開いた。

「今日は旦那様が同席されます、と先ほど申し上げたかったのですが……」

 ええええええぇ!? 

「ルゥ~そんなだいじなこと、もっとはやくおしえてよぉ!」

 肝心なことを言わない執事はクビ!!


 僕が椅子に座って程なくして、見たことのない美丈夫びじょうふが食堂に入ってきた。そしてこれまた見覚えのない顔ぶれの使用人たちが、無駄のない動きで椅子を引いたり高そうなお酒の瓶を運んだりしている。

(この人が僕のお父様なんだ……)

 僕は初めて会うお父様の姿を食い入るように見ていた。
 アッシュブラウンの髪にグリーンサファイアの瞳。土と風属性かな? 男らしいその顔つきは、あんまり僕には似てないみたい。

「……おとうさま」

 思わず口から出た声は小さくて、聞こえていたかもわからない。当然お父様はこちらを見ない。もっと大きな声で言えばよかった、そう思った。
 でも、ううん、と思い直す。聞こえなくてよかったんだ。だってお父様は僕のことがお嫌いだから、声だって聞きたくないに決まっている。もしかしたら、話しかけられてもいないのに口を開けば怒られるかもしれない。僕はギュッと口を閉じて、お父様の方を向いた。
 お父様は一番立派な椅子に座ると、重々しい口調で話し始めた。

「王家からお前に婚約の打診が来た」

 こくり……なるべく神妙しんみょうそうに見えるように頷いた。

「だが、お前は魔力もない上に属性も闇。王子の相手が務まるとは思えん」

 こくり(たしかにそのとおりです)。できるだけ真剣そうに見えるように頷く。

「その点、弟のユジンは光属性を持っている上、魔力も豊富。力は申し分ない」

 こくり(そのとおりだとおもいます。ふたりはすごくおにあいです)。

「それでも、クライス殿下はお前がよいとおっしゃっている」
(ほぇ? ぼく?)

 頷くのを忘れて目を見開いた。僕がいいってクライスが? うっかり喜んでしまいそうになる自分にストップをかける。
 違う違う……勘違いしちゃダメだ。これはただの『せいりゃくけっこん』。昨日のプロポーズだって、「ぼくたちはけっこんしない!」なんていきなり言われて、意地になってただけなんだから。
 ゲームでも、ユジンとクライス王子が正式にくっつくのは、悪役令息キルナが断罪された後で、そこまでは婚約者は僕のはず。今のところストーリー通りの展開が進んでいるというだけで、特別な意味なんてない。

「この婚約を受けると陛下にはお伝えした。お前の能力に不安はあるが、他家に殿下の婚約者の座を奪われるわけにはいかん。特に最近は、政治への介入を目論もくろむコーネスト家が、息子をクライス殿下に近づけようと動いている。婚約したからといって油断するな。婚約なんていつでも解消できる不確かなものだ。なんとしても結婚までぎつけなければならない。わかっているな?」
「……」
(えと、なんかしゃべった方がいいのかな。「がんばります」とか、「しょうちしました」とか? でも、どうせうまくいかない婚約なのだし、無責任なことは言わない方がいいのかな? ええと、どうしよ……)

 僕とお父様の視線が交差する。慌てて頷くと、お父様はもう僕に興味を失ったように席を立った。僕が首振り人形になっている間にお父様は朝食を食べ終えたみたいだ。

(そういえば朝ご飯、まだ一口も食べてない)

 テーブルの上には冷たくなったオムレツやパンが、手つかずのまま並んでいた。


「キルナ様、どうかお食事を」

 話をたくさん聞いて疲れたのか、頭がぼうっとしている。近くで声がしたので顔を上げると、心配そうな表情を浮かべるルゥがいた。

「あれ? おとうさまは?」
「もうお仕事に行かれましたよ」
「……そう」
「シフォンケーキをご用意いたしましょうか?」

 僕はふるふると首を横に振った。

「いらない。おなかがちくちくするから、いまはたべられそうにないの」

 力なくそう言うと、彼は僕の額にそっと手を当てた。

「失礼します。ああ、少しお熱があるようです。今日はベッドでお休みしましょう」

「お連れしますね」と一言断ってから、彼は動かない僕の体を抱き上げて寝室に運んだ。僕は広いベッドに横たわり、先ほどのお父様との会話を思い出した。もっとましな受け答えをするべきだったんじゃ……と考え始めると、またお腹のちくちくを感じ、それ以上考えるのをやめた。

「──を取りに行ってきますね」

 頭の中がごちゃごちゃしていたせいで、ルゥが退室する時に告げた言葉を聞き逃してしまった。何を取りに行ったのだろう。ヒントを探してふとサイドテーブルを見ると、青い封蝋ふうろうに王家の紋章がされた封筒が目に入った。

(そうだ。クライスからお手紙が届いたと言っていたっけ)

 手に取ると、お花のような……なんだかとてもいい香りがする。封を開けて読んでみたら、お茶会をするから来ないか? って内容だった。お茶会にクライスの友達も来るから紹介してくれるらしい。子どもだけでやるからとにかく楽しめって。

(なにそれすんごく楽しそう! 早くお返事しなくっちゃ)

 そう思うのに、体が重くて動けない。手紙の返事はもうちょっとしてから書こう。
 しばらく休んでいると、ルゥが何かを持って戻ってきた。

「こちらは旦那様からです。キルナ様にお渡しするようにと」

 差し出されたのは豪華な装飾の施された宝石箱だった。

「あ……」

 僕はそれを見て固まる。この箱は見たことがあり、中身も知っている。
『呪いのフィンガーブレスレット』という、ゲームのキルナがいつも左手に着けていたアイテムだ。金のブレスレットから伸びた鎖が中指の指輪へと繋がっていて、その鎖に月の光のようにキラキラ光る宝石がちりばめられた美しい装飾品なのだけど、用途はえげつない。
 どういうものかというと、まずはブレスレット。これには認識阻害の魔法が組み込まれており、ゲーム通りだと、僕の髪の毛は藍色に見えるようになる。これで闇属性だということを隠すことができる。
 そして指輪。このリングに触れた相手の魔力を奪って、自分の魔力にすることができる。ゲームのキルナはこれで人様の魔力をどんどん奪い取って悪事を働いていた。魔力の回復には結構エネルギーを使うから、奪われる方にしてみたら迷惑この上ない代物しろものと言える。

「常に身に着け絶対に外すなと、旦那様のお言いつけです」
「……わかった」

 このアイテムを使ってみんなを騙してクライスの婚約者になるということは、すなわち王家までもあざむくということで……一度着けてしまえば、もう後戻りはできない。

(嫌だ。こんなの着けたくない)

 だけど、ユジンをクライスルートのハッピーエンドに導くために、これは必要なものだ。僕は悪役令息だから、これを着けてたくさんの人に嫌がらせをしなくちゃならない。
 覚悟を決めて左手にめてみると、ブレスレットと指輪は僕にぴったりのサイズで気持ちが悪いほど手に馴染んだ。

(お茶会は来週。いよいよ悪役令息としての生活が始まるんだ)

 今日は土曜日だから、午前中の勉強も午後のレッスンもお休み。いつもならそろそろお庭の散策をするのだけど、まだちょっと頭がぐらぐらするし、天気も悪いから諦めよう。

「ユジンはどうしているかしら」

 僕は窓の外に広がるよどんだ空を眺めた。




   第二章 当たって砕けるお茶会


「いきたい、いきたくない、いきたい、いきたくない……ふぇ、ああ! いきたくないになっちゃった!」
「何を……されているのですか?」

 ルゥが怪訝けげんな顔をしてこちらを見ている。

「きょうのおちゃかいにいきたいきもするけど、いきたくないようなきもするの。なんだかもうわからなくって、はなうらないでしらべてたの」
「左様で……だからジーンの花びらがテーブルの上に散らばっているのですね」
(うぅ、そんなアホの子を見るような目をしないで!)

 ルゥに気を取られていると、すぐ横に布巾を持ったメアリーが無表情で立っていてびくっとする。

「メアリー、だまってちかづかないで! こわいよぉ」
「片づけてもよろしいでしょうか」
「あ、はなびらはおいておいてね。あとでつかうから」

 今日のことが心配で、昨晩はあんまり寝られなかった。お父様は完璧にごまかせると思っていらっしゃるみたいだけれど、僕はもうクライスに会っているから、今さら髪の色を変えても闇属性だということはバレバレなんだよね。
 クライスはあの日、みんなには内緒で遊びに来ていたって手紙に書いてあったから、お父様はそのことを知らないんだ。このまま王宮に行くと、大変なことになるかもしれない。
「嘘吐き!」って言われちゃうかな。クライスにどんな反応をされるか想像すると、お腹がちくちくする。
 王家に嘘を吐くと、どうなるのだろう。牢屋に入れられるのかな? もしかして殺される?
 僕はいい。いつでも死ぬ覚悟はできている。さすがに今日死ぬとなると予定より早すぎるけど、仕方がない。でも、公爵家に迷惑をかけたら……ユジンまで巻き添えになったらどうしよう。

「なにかさくせんをかんがえないと」

 被害を最小限に抑えて、ユジンを守る方法を。 


 別邸の前には大きな馬車が停めてある。これに乗って今から王宮に向かうのだって。

「なにこれ。すごぉい、ひろくてふっかふか」

 質のいいクッションのおかげでお尻は痛くなさそう。扉が閉められガラガラと音を立てながら馬車が走り出した。
 僕が公爵家の門をくぐるのはこれが初めて。行き先が王宮ってこともあって、ひらひらしたのやキラキラしたのがたくさんついた服でおめかしさせられたのには参ったけれど、こうやって外に出られたのは本当にうれしい。

(ふあぁ~、これが王都!)


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