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1巻

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 窓からは西洋風の石畳や街並みが見える。あ、煉瓦れんが造りのオシャレなカフェ。あ、その隣はお菓子屋さんかな。え!? あれはどうなってるの? 店頭の飴がピカピカと七色に光っている。
 馬車の窓を全開にして大声で叫びたい気分だけど、斜め向かいにお父様が座っているから我慢する。仕事に行くついでに送ってくれるらしい。

(ねぇ、おとうさま……)

 僕は一度もこちらを見ないお父様に、心の中で話しかける。

(きょう、もしかしたら、たいへんなことがおきるかもしれないの。うそがばれて、ぼくのせいでおうちもたいへんになるかも。ごめんなさい)

 謝りたい。もう謝って逃げ出したい。でも、それじゃあ僕の役割を果たせない。
 ゲームのキルナは雑魚ざこキャラの死にキャラのくせにこのアイテム一つで卒業まで生き延びたんだから、僕にだってできるはず。お父様に相談なんてしない。一人でなんとかしなくっちゃ。
 とりあえず、まずはクライスの口止めだ。黒髪のことをどうにか内緒にしてもらうしかない。でもどうやって? 悪役らしく、脅して? あの俺様王子様のクライスを脅すなんてことができるかしら。
 ぐるぐる策をっているとなんだか少し気分が悪くなってきた。寝不足気味だし、初めての馬車で酔っちゃったのかもしれない。もっとお外を眺めたいのに……

「着いたぞ」

 王宮に着いた頃には、僕はもうぐったりしていた。

「さっさと歩かないと置いていくぞ」

 どうやら城門からは徒歩のようだ。お城までの長い長い道のりを見て、今日の花占いは当たっていたなと思った。


 それから数十分後、僕はピンチにおちいっていた。置いていくぞと言って、宣言通り置いていくだなんて誰が思うだろうか。

「ここどこぉ?」

 完全に僕は迷子になっていた。必死にお父様の後ろをついていこうとしたものの、ただでさえ速すぎて子どもの足では追いつけない上に、体調も悪くて吐きそぅ……と思っているうちに見失ってしまったのだ。
 とぼとぼとあてどもなく真っ白な廊下を歩きながら、遠方にそびえ立つお城を見上げた。

(お城は七色じゃないんだ……)

 この世界にはやたらと七色が出てくるからお城も七色を期待していたのに、全然違った。そこにあるのは荘厳そうごんな白亜の城で、どこもかしこもちり一つなくピカピカに磨き上げられている。こんな手間のかかる家、自分が住むのは絶対にごめんだって思うけど、でも考え方を変えると、綺麗に保つために雇用が生まれてるってことだよね……
 そこまで考えて僕はいいことを思いついた。あ、そうだ。公爵家を追放されたらここで拭き掃除の仕事をさせてもらおう! 
 こう見えて前世の僕は掃除が好きでよくやっていたの。熱が出て外に出られない時も、机の引き出しや本棚を整理して隅々までほこりを拭き取ると、鬱々うつうつとした気分が晴れて元気が出たのを覚えている。

「そうじふ、いいかも。ぼくのてんしょくかも」

 そんなことを呟きながら、とりあえず通路を奥へ奥へと進んでいくと、たくさん歩いたせいか、汗が止まらなくなってきた。

「ふぅ、あついな」

 この通路は外にあって、両脇には赤や黄など色とりどりのお花が咲いていたり、蝶々みたいな虫が飛んでいたりと景色は最高! なのだけど、なにせ日陰がないのが問題だった。

(さっきからこの飾りが邪魔なんだよね)

 右腕にジャラジャラとついている宝石を取ってポケットに仕舞ってみる。すると大分腕が軽くなった。

(ん、いい感じ。首に巻いてあるスカーフみたいな飾りもいらないや)

 シュルンと外してそれもポケットに入れる。そんな調子で不要なものを外していくと、かなり軽装になり動きやすくなった。ポケットは膨らんで不恰好になってしまったけれど、まぁいいでしょう。
 僕は少しだけ気分がよくなってきて、歩く速度を上げた。建物に入ると通路の右側に手をつけるようにして進む。これ本で読んだの。迷路から出る時は右手を壁から離さずに進めばいつか出られるのだって。あれ? ここって迷路だったかな?

「うわっ」

 通路を曲がるところで急に人が出てきてぶつかってしまった。

「ご、ごめ……」

 思わず謝りそうになったけど、やっぱり謝らない。悪役が謝ったら変だもの。

「あら、ごめんなさい。私がちゃんと前を見ていなかったから」

 ぶつかった相手は同じくらいの歳の女の子だった。さすがに放ってはおけなくて、慌てて尻餅をついているその子に右手を差し出し、助け起こす。その手を取ってすくっと立った女の子は、なんと! 僕より少し身長が高いみたい。く、くやしくなんかないもん。

「ふふ、ありがとう。あなたも今日のお茶会に参加するの?」
「さんかするよ。でも……ばしょがわからないの」

 女の子とお話しすることなんて、前世でもほとんどなかったから緊張する。しかもとびきり可愛い女の子だ。ピンクの大きなリボンでストロベリーブロンドの髪の毛を纏めていて、そういえば少し色彩と雰囲気がクライスに似ているかも?

「クスッ、迷子ね。私も同じところに行くから連れていってあげる。でもその前に……その衣装をなんとかしなきゃね」
「え?」

 彼女は僕の上着を指差した。暑いからと色々触っちゃったせいで、変になってるみたい。別に僕は気にならないんだけどな。

「今日は滅多にない第一王子のお茶会よ。そんな服では行けないわ」
(そうなのかな? どうしよう)

 そう言われると、途端に不安になってきた。

「大~丈夫! 私に任せて。衣装はいっぱい持ってきてるの」

 にっこり笑うとえくぼができてこれまた愛らしい。ぽぉっと見惚みとれていると、いつの間にか大きな衣装室に連れられていた。

「サディ、ただいま」
「あら、ミーネ様。こちらのお方は?」
「さっきね、廊下で運命的な出会いをした子よ」

 ちょっと! 変な紹介をしないでほしい。

「キルナとよんで」
「よろしくお願いいたします。キルナ様。メイドのサディでございます」

 あのねあのね! とミーネがはしゃぐ。

「この子をとびっきり美しく飾り立ててあげたいの」
「またミーネ様の可愛いもの好きが出ましたね」
「だってこんなに可愛いんですもの。私のセンスでもっと美しく仕上げてみせるわ」

 可愛い? 僕が? 何言ってるんだろう、この子。

「私に任せてくださる?」
「え、あ……うん。……よろしく」

 一抹いちまつの不安を覚えたものの、ミーネの迫力に圧倒されて、僕はそれだけしか言えなかった。よくわからないけどなんだか張り切ってくれているし、ここは任せてお茶会に参加できるようにしてもらおう。
 結果から考えると、その判断は明らかに失敗だったと思う。

「…………!?」

 鏡を見て僕は言葉を失った。

「まぁまぁまぁまぁ!」
「素晴らしいわ!」

 二人は声を合わせて絶賛している。

「せっかくなので髪の毛も整えますね。ウィッグもたくさんございますから」

 あまりのことに唖然としてしまい、もうされるがままだ。だって鏡に映っていた僕は――

「どうみてもおんなのこ……」

 若草色のドレスはふんわりと裾が膨らみ、袖は繊細なレースでいろどられ、つややかなハニーブラウンの巻毛は腰につくほど長く、緩やかにハーフアップで纏められている。

「完璧だわ!」

 女性陣は惚れ惚れするような目で鏡の中の僕を見ているけれど……

(僕、女の子になっちゃったよ。ふえーん)


 かくして女の子の姿になってしまった僕は、絶望的な気分でお茶会に向かった。ミーネについていくと、色とりどりの花が咲き乱れる広い庭園に、白を基調にセンスよく配置されたテーブルセットが目に映った。

(ふわぁああああ、なにこれなにこれなにこれ!)

 テーブルの上にはうっとりするほど美しいお菓子が所狭しと並んでいる。クリームたっぷりのケーキに、マカロン、スコーン、クッキー、その横にあるのは……

(あ、これ、七色に光る飴だ! 馬車から見えたやつ! しかも薔薇ばらの形? どうやって作ったんだろ? すっごーい!)
「遅れてごめんなさい、クライス」
「ミーネ姉様。別に構いませんよ。今日は友人だけのお茶会ですから」

 僕が一人興奮している間に、ミーネがクライスに遅刻のお詫びをしている。っていうか、え、姉様? ミーネってクライスのお姉さんなの?
 第一王子のクライスのお姉さんということは、彼女はこの国の王女様ってことだよね。僕は衝撃の事実に目を丸くした。

「ふふ、とっても素敵な人を連れてきたから許してちょうだい」
「姉様のご友人ですか?」
「私はついさっき友達になったのだけど、クライスも知っているはずよ。だってあなたがお茶会の招待状を送ったのでしょ?」

 あ、僕の話をしているみたい。そうだ、挨拶しなきゃ。この格好を見てクライスはどんな反応をするんだろう。大笑いするかな? バカにされる? それともふざけるなって怒る?

(恥ずかしすぎるよぉ! ああ、何年後と言わずむしろ今死にたい!) 

 だけど、もうこうなったからには仕方がない。当たって砕けろ、だ。

「えと、おまねきいただきありがとうございます。キルナ=フェルライト……です」

 普段使い慣れない敬語を駆使して華麗に挨拶してみせる。

(どうだ、クライス。なんか文句があるなら……って、あれ? ないの?)

 クライスったら僕が女の子の格好をしているというのに完全にスルーだ。なんで? もしかしてこの服装で合ってる? いやいやそんなばかな……
「よく来たな、キルナ」と歓迎し、約束通りお友達の紹介をしてくれた。よく見るとここにいるメンバー全員どこかで見たことがある。って、え? なにこの顔ぶれ。これってミーネ以外、全員攻略対象者なんじゃない!?
 記憶にあるものより若いけれども、『虹の海』のゲームパッケージに載っていたイケメンたちだ(くそう、イケメンは五歳の時からイケメンだとは)
 おぼろげな記憶を頼りに頑張って整理してみると……
 クライス=アステリア、明るい金髪。光、火、風、水、氷、土の六属性を持つ。アステリア王国第一王子。
 ロイル=クルーゼン、水色の髪。氷属性。クライスの乳兄弟で側近候補。確か伯爵家だったはず。
 ギア=モーク、茶色の短髪。属性は土? 魔法騎士団長の息子。伯爵家の長男。
 リオン=ブラークス、緑の髪。風属性と、他(忘れた)。魔術師団長の息子で伯爵家の多分三男。
 ノエル=コーネスト、赤い髪。火属性。侯爵家の次男。
 と、うん、まぁこんな感じ。え、全然整理できてない? 残念ながら細かい内容は忘れちゃったの。むしろこれだけ覚えていただけでもすごいと思う。優斗からキャラ設定を聞いていてよかったぁ。ちなみにクライスとこの四人は王宮で一緒に暮らしていて、家庭教師から勉強を教わっているのだって。
 え、僕も仲間に入りたいかって? それは嫌。だって勉強は嫌いなの。

   

   SIDE クライス


(遅いな……)

 好きな人を待つとはこういうことかと、俺は生まれて初めての落ち着かない気分を味わっていた。

「遅れてごめんなさい、クライス」

 西の通路から二人の少女が小走りでこちらに向かってくる。今日呼んだ招待客に女の子の友人はいなかったはずだが、ミーネ姉様と、あともう一人は誰だ? え……?

「えと、おまねきいただきありがとうございます。キルナ=フェルライト……です」

 俺に向かって不安そうに挨拶をする可憐かれんな少女? は、今か今かと待っていたその人で間違いない。が、なぜ女の子の姿に!?

(これはなんだ。何が起きている?)

 透き通る若草色の生地でできたドレスには、白や黄緑色の花がちりばめられ、小さな宝石が控えめにきらめいている。ドレスと同色の大きなリボンが腰からふんわりと流れ、華奢きゃしゃな体つきを強調し、その姿はまるで春の妖精。あまりに似合いすぎている。これでは誰も彼が男だということに気がつかないだろう。
 しかし、好きで着ているというわけではなさそうだ。その証拠に美しい顔は真っ赤に染まり、猛烈に恥ずかしがっていることが伝わってくる。

(あの気の強いキルナが意味もなくこんな格好をするだろうか。何か理由があるのか?)

 ロイルに、頼むから説明してくれとアイコンタクトを送るが、彼もわからないのだろう。大急ぎでぶるぶると首を横に振っている。と、その時だった。
 暖かい風が強く吹き、キルナの腰まで届くハニーブラウンの髪がさらさらとなびいた。
 彼はそれを鬱陶うっとうしそうに手で押さえている。髪? なるほど、そうか! これは『黒髪を隠すための作戦』か。ならばここは話を合わせるべき、なのだろう。多分……

「よ、よく来たな、キルナ。俺の学友たちを紹介しよう。まずはロイルだ」
「はっ、はい。わたくしロイル=クルーゼンと申します。お、お見知り置きを」

 さすがのロイルも事態についていこうと必死なのか、いつもより挨拶が堅苦しくキレがない。

「ギア=モークです。こんなに可愛い女の子と……知り合いになれるなんて、光栄です」

 事情を全く知らないギアは、突然現れた美少女に緊張しているようだ。

「リオン=ブラークスです。よろしくお願いします」

 優しげに笑いかけるリオンは、この中で一番冷静かもしれない。

「僕はノエル=コーネストです。仲よくしてくれるとうれしいな!」

 彼はいつも通り胡散臭うさんくさい笑顔を振りまいている。

「最後に俺の姉、ミーネ」
「ミーネ=アステリアです。よろしくね、キルナちゃん」
「今日は子どもだけのお茶会だから敬語は抜きだ。マナーも気にしなくていい。菓子はセルフ形式にした。好きなものを好きなだけ皿に載せて食べてくれ」

 キルナからの手紙にはお茶会に参加するのは今回が初めてだと書いてあったから、できるだけ堅苦しくないスタイルを考えた。
 自己紹介が終わると自由に食事をしながらの雑談が始まるが、どうにもキルナのことが気になって話が頭に入ってこない。皆の視線の中心は完全に彼(女?)だった。当の本人はというと、甘いものに目がないようで、並んだ焼き菓子やケーキをキラキラした瞳で見つめている。

「ねぇ、クライス」
「なんだ?」

 急にキルナに名前を呼ばれ、声が裏返りそうになる。

「ここにあるおかし、ぜんぶたべてもいいの?」
「ああ、いいとも」
「ほんと?」
「ああ」
「ほんとにほんと?」
「ああ……」
「ほ、ほんとにほんとにほんとにほ……」
「ああ、本当だ。好きなだけ食べていい」

 俺がそう答えると、キルナは「しんじられない!」とかぶりを振った後、ようやく質問をやめ、「おちゃかいってすごいんだね」と、心底うれしそうに自分の皿に菓子を載せ始めた。

「んと、どれにしよぅ、まよっちゃうな……」

 なんて呟きながら宝物でも扱うように一つ一つ真剣に、丁寧に皿に並べていくその姿はまさに天使。ギアなんて食べるのも忘れ、ぼんやりと彼の方ばかり見ている。ミーネは相変わらず可愛いは正義! 目の保養だとばかりに、キルナを見つつ茶を飲んでいる。
 子どもたちしかいないので、とりとめもなくころころと話題は移り変わり、定番の魔法の話になった。貴族の子どもは魔法の話に興味津々だ。魔法大国アステリアは魔法教育に力を入れているから、魔力のある者は十八歳になれば学園に通い本格的に魔法を学ぶことになる。

「やっぱり火がかっこいいよね。ボボボボーって攻撃魔法で魔獣を仕留めてさ」
「風魔法は剣術と合わせるとめちゃくちゃ強いらしいよ」
「やっぱり光魔法でしょ~。人間技とは思えないことができるらしいよ。どんなのかはよく知らないけど」

 一方キルナはというと、会話には加わらず、自分の皿をまるで宝石箱かのように眩しそうに見つめている。だがじっと眺めるばかりでなかなか食べようとしない。
 ようやく動いたかと思うと、スプーンでひとさじ苺のムースケーキをすくって口のところに持っていき、そっと口を開け、食べずにまた口を閉じた。
 何度かそんなことを繰り返していたが、やがて諦めたようにスプーンを置き、今度は小さなクッキーをつまんで口元に運び、しばらく何かを考えるふうな仕草をした後、また皿に戻した。

(……こいつは一体何をしているんだ? 腹でも痛いのだろうか)

 心配になってきた頃、ほぉっと一つため息を吐いて、キルナは思い詰めたような表情で苦しそうに呟いた。

「どうしよぅ……こんなにきれいなおかし、もったいなくてたべられない」
「ぐはぁ! キルナちゃん恐るべし! もぅ異次元のかわゆさだわ!」

 隣で鼻息を荒くしている姉が怖い。


 時間が経ちそろそろ腹も膨れてくると、ノエルとギアがいつものように言い合いを始めた。

「リオンはもう中級魔法が使えるんだ。いいなぁ。それに比べてギアの魔法は全然だもんね~」
「俺は剣の方が得意なんだ! ノエルだってまだ中級魔法は使えないんだから一緒だろ!」
「ええー、ギアと一緒にしないでよぉ。あ、そうだ」

 と、突然ノエルがキルナの方を向いた。

「キルナちゃんは、何か魔法を使ったことはある?」
「え、ぼく?」

 夢中で菓子を眺めていたキルナがようやく顔を上げた。そして一呼吸置いた後、「あの、少しだけ……」と小さく答えた。

(魔法を使ったことがあるのか)

 意外だと思った。あれっぽっちの魔力で何か使える魔法があるのだろうか。ノエルは身を乗り出して続けた。

「すごい! やってみせて?」
「ふぇ?」

 明らかに戸惑っている。見栄を張っただけか? なら止めてやった方がいいだろうかと様子を見守っていると、キルナはなぜか申し訳なさそうに左隣に座っているギアの手を取り、ぎゅうっと握りしめながら、呪文を唱えた。すると――

「あっ、水のお花だ、きれい~」

 水でできた小さな花が、俺たちの頭上にふわふわと浮かんだ。初級の水魔法だ。

「すごいですっ!」
「可愛らしいお花が太陽の光できらめいて、とっても素敵!」

 皆が口々にキルナの魔法を褒め称えている。が、俺はなんだか面白くなかった。

(その手はなんなんだ? なぜギアと手を繋いでいる!?)

 思わず殺気を含んだ目でギアを睨んでしまう。

「あら、ギア。なんだか顔色がよくないわ。具合が悪いの?」

 ミーネ姉様がそう呟いた瞬間だった。

「「「あっ!」」」

 花がただの水に戻ってざばーっとテーブルの上に降りかかり、美しく整えられたテーブルセットが一瞬にして水浸みずびたしになってしまった。積み上げられたマカロンも、クッキーも、ケーキも何もかもびしょ濡れだ。キルナがさも大事そうに眺めていた皿も……

「あ……」

 キルナは青い顔をしてその光景を見つめていた。その手は細かく震え、悲愴感をただよわせ、金の瞳からはぽろぽろと宝石のような雫がこぼれ落ちる。

「ぼく、なんてことを……」

 打ちひしがれ哀れみを誘うその姿は、何か神聖で、触れてはいけないもののように感じる。
 静かに涙を流す姿がこんなに美しいだなんて。

(天使が泣いてる……)

 時が止まったかのように、全員が彼の姿に見惚みとれていた。ああ、やばい、なんだこれ。変な性癖に目覚めそうだ。思考停止状態の頭を無理やり叩き起こし、この場の収拾に全力を注ぐ。

「おい、キルナ。大丈夫だから泣くな」

 そう言って右手をテーブルにかざしながら呪文を唱えると、テーブルの上から水が消え、全てが元通りになった。

「あれ? どう、なったの?」

 キルナが目をパチパチさせている。

「クライス様は上級の光魔法が使えます。その力で、物質の時間をある程度戻すことができるのです。ですからもう大丈夫ですよ、涙を拭いてください」

 ロイルが優しく説明し、ハンカチを手渡した。こいつが気障きざったらしいのはいつものことだが、面白くない。
 キルナは婚約者なのに。

「こっちに来い」
「ふぇ。う、うん……」

 俺に怒られると思っているのか、辛そうに伏せた目はこちらを見ようとしない。

「ほら、これ食べてみろ。シェフ自慢のロイヤルクッキーだ」
「んむ」

 小さな口にウサギ型のクッキーを押し込んでやると、キルナはもぐもぐと口を動かした。さっきまで強張っていた顔がパァッとほころんでいく。

「やっと、笑ったな」

 単純なやつ。俺は苦笑した。本当にわかりやすすぎるな、こいつは。貴族として育てられたとは到底思えない。だが、そこがまた好きだと考えてしまうから始末に負えない。

「ここに座れ」
「ここって? クライスのひざのうえに!? え、なんで?」
「いいから」

 手を掴んで引き寄せようとするが、彼はそれに抵抗して足を突っ張る。

「む、むり!」
「座れ!」
「ひ、やぁっ」

 軽い体を両腕で掴まえて無理やり膝に乗せるという実力行使に移ると、キルナは真っ赤になってこう言った。

「なんてこと!」


   * * *


〝まほうをつかっているとちゅうで、てをはなさない〟。

「何を書かれているのですか?」

 突然ルゥが僕の部屋に入ってきたから、書いている途中の紙をガバッと自分の体で隠した。

「ルゥ、みちゃだめ! これはぼくのたいせつなメモなの!」

 僕は大事なことはなんでもメモしとく派。でも中身を見られるのは恥ずかしいの。
 今は昨日のお茶会の反省点をメモり中。失敗は成功のもとっていうでしょ。だからこれで大丈夫。次は失敗しない。僕は左手を机に備えつけてあるライトにかざした。
 シャランと涼やかな音を鳴らしその存在をアピールしている魔道具フィンガーブレスレットは、ライトの光を反射して輝いている。
 キラキラキラキラ、水の花のように──
 水を好きな形に変える魔法は水魔法の中で一番簡単で、たくさんある初級魔法の中で唯一できるようになったものだった。セントラに教えてもらった後、ルゥと何度も練習して、最初は全然ダメだったけど今では十回やって八回はなんとか成功させられるようになっていて……

(うまくできるようになったはずだったんだけどな)

 ギアの顔色が悪くなったと聞き、思わず手を放したのがいけなかった。魔力が足りず維持できなくなった水の花は一瞬でただの水に戻り、魔法は失敗してしまった。
 ああでも、僕の魔法は全然ダメだったけど、クライスの魔法ときたら。
 僕は机に突っ伏して、昨日のお茶会を思い出す。

『あっ!』

 目の前で花が散っていくのが見えた。
 ひょっとしたら今世で一番かもってくらいうれしくて楽しくてふわふわしていた気分がすうっと消えて、代わりにドロリとしたものが心の中を満たしていくのを感じる。

(僕のせいだ……)

 せっかくこんなに素敵なお茶会に呼んでもらったのに、取り返しのつかないことをした。
 もうみんな僕のことを嫌いになったに違いない。
 ある意味僕って才能あるよね。特に意識していなくても自然と悪役になれちゃうんだもの。王子様のお茶会を台無しにするなんて実に悪役らしい行いだ。大成功だ。いっそのこと、ここで大笑いしてやればいい。はははははーって。ほら、笑え! 
 僕は口元に笑みを浮かべようとしたけれど、なぜだかうまくいかない。
 まあでも十分だ。もう十分悪役だ。
 そう思った時、クライスの声が聞こえた。

『おい、キルナ。大丈夫だから泣くな』
(クライスはばかだな。大丈夫なはずないじゃない)

 返事もせず、こぼれる涙をぬぐうこともせず、ただのろのろと視線を向けた僕に対し、彼は大丈夫だと念を押すように微笑むと、ぐっちゃぐちゃになったテーブルに手をかざして何かの呪文を唱えた。
 するとテーブルは光に包まれて、まるで何もなかったかのようにみるみるうちに元通りになっていく。目の前で起きたことが信じられずに固まっていたら、それは時を戻す上級の光魔法なんだってロイルが教えてくれた。
 時間を操る魔法だなんて、クライスはすごいな。
 こんなすごい力を持っていて、こんな僕を助けてくれるなんて。
 ──こんな人と結婚ができたなら、はきっと幸せに違いない。
 あの後、クライスは僕を自分のところに呼び寄せ、ロイヤルクッキーという世にもおいしいクッキーを食べさせてくれた。それから、なぜか無理やり僕を自分の膝の上に座らせて……

(うひゃああ。そこは思い出すと恥ずかしくなるからやめよう)

 ともかく僕はクライスの膝の上という不名誉な場所から、まだ体調が悪そうなギアに声をかけた。

『ギア、だいじょぶ? きぶんわるくない?』
『ひっ、大丈夫ですから、どうか俺に構わないでください~』

 そのままギアは、ちょっとお手洗いに、と逃げるように席を外した。やっぱり嫌われちゃったんだと思う。僕が勝手に魔力を奪ったから。

『大丈夫だ。ギアの顔色が悪かったのは、俺のせいだから』

 クライスは苦笑いしながらそうフォローしてくれたけど、この魔道具はあんまり使わないようにしようと、その時、僕は心に決めたのだった。

(ん? 何の音?)

 ガガガガガと何かを削ったり組み立てたりするような音が響き、振動で机が揺れた。僕は昨日の回想をやめ、顔を上げて窓の方に目を遣り、その原因をルゥに尋ねる。

「なんだかおそとがさわがしいみたいだけど、なにかしてるの?」
「ええ、それがですね」

 え、なに? 温室を作っている? 温室って植物を育てる場所でしょ。

「そんなの、おかあさまがおゆるしにならないんじゃ?」
「旦那様が許可していますから心配はございません」

 お母様は虫がお嫌いだから、公爵家にはほとんど花が咲いていない。僕は七海として生きていた時、お花が大好きでよく育てていたんだけどな。
 でもね、今も観葉植物はお部屋にたくさん置いて育てているの。花と違って虫はほとんど寄ってこないから、お母様だって嫌がらないでしょ? まぁ、お母様がここに来られることなんてないのだけれど。
 それにしても……温室か。もしそこでお花が育てられたなら素敵だろうな。異世界の花を育てるなんてワクワクするよね。見たこともないお花で満ちた温室を想像してニマニマ笑ってしまう。

(ああ、だめだめ。前世からの妄想癖が出ちゃってる。妄想してる時の顔ってきっと気持ち悪いよね。気をつけなきゃ)
「ねぇ、どうしておんしつをつくっているの?」

 僕の質問に、ルゥはにこりと笑って、「クライス王子からキルナ様へのプレゼントだからです」と答えた。

(へ……? 僕に? クライスからのプレゼント?)

 昨日の帰りはクライスが馬車で送ってくれたのだけど、途中から記憶がない。初めての外出だったし疲れて寝ちゃったみたい。

「クライス王子がキルナ様の好きなものは何かとお尋ねになったので、甘いものとお花だと申し上げました。てっきりお菓子や花束を贈ってこられると思ったのですが」

 贈られたのはまさかの温室だったってこと!? さすが王子様、普通の人間とはスケールが違うな。

「でも、むしがこないかしら……」
「大丈夫ですよ。花の中には虫が嫌うものもございます。クライス王子はその辺のこともきちんと考えておられますよ」

 温室のことを考えると胸がぽかぽかする。クライスのことを考える時と同じように。


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