白衣とブラックチョコレート

宇佐田琴美

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出会いと別れ編

さよなら 2

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 真理亜が翔太の汚れた口元をタオルで綺麗に拭う。雛子はそれを離れたところから見やり、静かに病室を出た。

「外回りに徹します」

 ステーションでモニターの設定をしていた大沢に声をかける。

「良いの? あんた、最期くらい……」

「いえ、私は……そんな資格、ないので……」

 先程は緊急時だから入室せざるを得なかっただけだ。自分にそう語りかけ、無理矢理納得させる。

 この後受け持ち患者の手術がある。そろそろ術衣に着替えさせなければならない。

 ナースコールが鳴る。電話口から、点滴ポンプのアラームが聞こえてくる。

 痛みを訴える患者がいる。氷枕を変えて欲しいと言う患者がいる。

 病棟には、翔太以外にも多くの患者が、看護師がベッドサイドに来てくれる事を望んでいる。




 翔太が急変して、父親と妹が駆けつけ、主治医が状況の説明と鎮静薬の投与を行い、数時間が経った。時刻は夜勤帯に切り替わる頃だ。


「あ……波形が」

 ぽつりと誰かが呟き、皆の注目がステーションのセントラルモニターに集まった。


 フラットな波形と0の文字が、命の終わりを無機質に告げていた。


「……僕、説明行ってくるね」

 主治医が恭平を連れ、翔太の病室へ向かう。

「……なんか、急でしたね」

 水嶋が呟き、各々頷く。

「朝までは本当に今まで通り変わらなかったものね……御家族は覚悟が決まっていたのか、そこまで取り乱したりはしてなかったから良かったけれど……」

 真理亜は悲しげに瞳を伏せた。

 病室から主治医と恭平が戻ってくる。主治医は夜勤リーダーの石川に詳細を告げ、「あとよろしくね」とスタッフに声をかけ病棟を後にした。
 
「エンゼルケアしてきます」

 恭平が石川に告げた。

 時間外労働なんて珍しい。そんな風に茶化す人は誰もいなかった。

 皆、恭平がプライマリーとして翔太を大切に思っていたのを知っていたからだ。

「ひなっち、来て」

「えっ?」

 突然呼ばれ、雛子は面食らった。処置室に向かう恭平に慌てて着いていく。


「さ、桜井さんっ? 私は御家族に会うのも断られてて……」

 恭平は処置室の棚からエンゼルケアセットを取り出すと、続いて湯灌用のお湯を用意してワゴンに乗せさっさと翔太の部屋に向かう。

「その家族からの、たっての希望だ」

 雛子が理由を聞く前に、恭平は病室のドアをノックして室内へと足を踏み入れた。

「この度はご愁傷様でした」

 恭平に習い、雛子も深く頭を下げる。病室には両親と、兄の顔をしげしげと覗き込む幼い妹がいた。

「あのね、お兄ちゃん、天国行っちゃったの」

 妹の紫織は雛子と目が合うと、泣くわけでもなく平然とそう口にした。

「そっか……そうだね」

 それ以上何と声をかければいいのか、雛子には分からなかった。

「雨宮さん」

 静かな声で、父親が雛子を呼んだ。

「ありがとうございました」

 そう言って頭を下げた両親に、雛子は虚をつかれ慌てる。

「えっ、あ、あの、頭を上げてください……私はっ……」

 ちらりと母親を見やる。母親は顔を上げると、真っ直ぐに雛子の目を見つめた。

「雨宮さん、あの時はつい手を挙げてしまってすみませんでした……私……」

「い、いえっ、私の方こそ……勝手な事をしてしまい、申し訳ありませんでしたっ……」

 雛子の謝罪に、父親は穏やかな笑みを見せてくれた。

「喜んでいたんですよ、翔太は」

「っ……それ……」

 翔太の使っていた車椅子から父親が何かを取り出す。それはあの日雛子が用意したサッカーボールだった。

「久しぶりに目をキラキラさせてましたよ。一回だけだったけどすごく嬉しかった、まだ自分はこんなに強くボールを蹴る事が出来たんだ、ってね」

 父親から差し出されたボールを受け取る。そこには翔太の字でメッセージが書き込まれていた。


『雛子へ

自分を信じろ

翔太』



「翔太くんっ……」
 
 雛子はボールを抱き締めると、穏やかな顔で眠っている翔太の枕元にしゃがんだ。

「翔太くん、ねぇこれ、私貰って良いのかな?」

 翔太からの返事はない。それでも、いつもの照れ臭そうな顔で微笑んでいるように見えた。







 両親と妹、そして恭平と雛子の五人で、翔太の身体を拭いた。

 退院の服装は、翔太の推薦が決まっていたはずの高校の制服だった。



「お世話になりました」

 霊安室から棺が出棺し、霊柩車に乗せられる。残っていた日勤者全員で裏口に並び、父親の挨拶に無言で一礼した。

 やがて家族も霊柩車に乗り、それは静かに走り出す。車の姿が見えなくなるまで、皆で頭を下げた。


「お疲れさん」


 霊柩車が去り、スタッフもバラバラと帰っていく。そんな中、茫然と車が消えていった方を見つめる雛子に恭平が声をかける。

「嘘じゃないよ、翔太の父親が言ってたあの言葉」





 件の日、夜勤明けで寝ていたところを呼び出された恭平は、雛子が翔太にサッカーをさせて大問題になったと知り慌てて病棟へ戻った。

 面談室では怒りの収まらない母親とそれを宥める父親、必死で謝る主治医、師長、雛子の姿。とにかく全員で謝罪をし、雛子の担当を外すことで何とかその場を収めてもらうことができた。

 修羅場から解放され雛子と共にインシデントレポートを仕上げた恭平は、帰宅前に翔太の病室へと向かった。

『翔太』

 恭平が声をかけると、翔太は驚いたようにベッドから飛び起きた。

『恭平さん! え、まさか恭平さんまで呼び出されたの?』

 そこにいた翔太があまりにもいつも通りで、恭平は何だか拍子抜けしたのを覚えている。

『ねぇ聞いてよ! 俺めっちゃすげぇシュート、雛子に見せてやったんだ!』

 嬉しそうに語る翔太に、ひとまず体調に異変はなさそうだという事を認識して恭平は安堵する。

『でもやべーんだよ。母さん怒っちゃって雛子の事ぶってさ。死ぬほど痛てーんだよなアレ……』

 思い出して身震いする翔太。自身も母親を怒らせてその平手を食らったことがあるのだろう。

『でもさ、俺もうすぐ死ぬじゃん?』

 翔太は事も無げに宣う。

『嬉しかったんだよなぁ、最期にボール蹴れて。マジで最高だったんだよなぁ』

『……そうか』

 晴れ晴れと笑ったその笑顔に、少なくとも雛子の行動が100%間違いではなかったのだと恭平は確信を持てた。





「っ……うっ……」

 恭平から翔太の言葉を聞き、雛子はついに耐えられなくなった。幾筋もの涙が頬を伝い、真っ赤な夕日が照らす赤いアスファルトに落ちて黒いシミを作っていった。

「もっと自信、持って良いと思う。俺も」

「はいっ……」

 大きな手のひらが俯いた雛子の頭にそっと乗り、ぽんぽんと二回優しく置かれた。





 翔太がこの世を去ったのは、夏の終わりがすぐそこまで来てきている、そんな頃の事だった。












出会いと別れ編【fin.】
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