白衣とブラックチョコレート

宇佐田琴美

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白衣の天使編

過呼吸と腹黒 3

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「朝早く電子カルテを乗せたワゴンの音で目が覚めて……サチはいつもみたいに、夜勤をしていた真理亜お姉ちゃんのあとをこっそり着いて行った。お姉ちゃんが向かったのは、一番奥の大部屋の、廊下側の患者のところだった」

「それって……」

 雛子は心当たりがあった。初めて受け持ちをしたあの日。

「小林さん……?」

 雛子が元々受け持つ予定になっていた患者だった。

「真理亜お姉ちゃんは、その人の点滴をすごく速くした。一気に落として、その後しばらくすると元に戻した。それから、机に置いてあったその人の薬を白衣のポケットに入れた」

「朝の薬を飲ませなかったってことっ……?」

 あの日、小林は日勤帯で不整脈を起こし、ICUに運ばれた。元々心不全があったところに点滴で負荷をかけられ、更に内服をしなかったとなれば急変したとしてもおかしくない。

 恭平が受け持ちを交代してくれなければ、雛子が対応することになっていた。

「何で今になってそんな事をしたんだろうって思ってた。でもステーションにある受け持ちの割り振りを見て分かった。狙いは雛子だって」

 幸子は語気強く言い切る。

「でもその日の受け持ちは変更になった。それに普段は恭平が雛子の仕事ぶりをチェックしてる。真理亜お姉ちゃんもたぶんそれを警戒していた。だから隙を狙った。それがあの夏の日だ」

「そんな……」

 すらすらと淀みなく話して聞かせる幸子。だが雛子は未だ信じられない気持ちが強かった。

「まずお姉ちゃんは、一号室にいた寝たきりの人の点滴に触っていた。二歳のサチにした時と同じように」

「っ……」

 点滴漏れが起こったのは、一号室に入院していた難病の吉澤だった。

「その後しばらくして、お姉ちゃんは雛子を連れて患者のところに戻った。それで点滴が刺し直しになった」

 あの日の事が思い出される。幸子の証言は、現実と乖離するどころか全て雛子の記憶の通りだった。

「そして雛子が点滴を入れて部屋を出るとすぐ、真理亜お姉ちゃんが戻ってきて点滴の速さを上げた。そのままお姉ちゃんは処置室に行って、雛子が採血するのを手伝ってた」

「そんな……」

 雛子はくらくらと目眩がした。幸子の言う事がとても子どもの戯言とは思えない。それは全てを見た者にしか証言できない内容に思えた。

「ありがとうさっちゃん……もう……分かった……」

 もう聞きたくない。嘘だと思いたい。頭がパンクしそうだった。

「雛子、サチは嘘なんか」

「分かってる……」

 幸子は嘘をついていない。だからこそ、受け入れたくない事実が目の前に突きつけられ、どうしていいか分からなくなった。

「話してくれてありがとう、さっちゃん……この事は……」

「うん、誰にも言わない」

 およそ五歳とは思えぬ物分りの良さで、幸子は頷いて見せた。














 幸子の病室を出る。ステーション裏の人気のない場所まで行くと、雛子は耐えきれずしゃがみ込んだ。

「うっ……」

 目の前がぐるぐると回り、物凄く気分が悪い。

 吐き気がする。息が詰まる。

突如襲った不安感を抑え込もうと、雛子は震える手で白衣のポケットから取り出した頓用薬を内服する。

「はぁっ……落ち、着いて……お願いっ……」


 考えるな。


 考えるな。


 考えるな。



「考えちゃ、ダメっ……」



 残酷な真実など、もうたくさんだ。







「どうしましたか?」







 唐突に間近でかけられた声に、雛子はふと我に返った。

「あっ……」

 雛子と同じように、片膝をついて傍らにしゃがみ込む白衣の男性。

「鷹峯、せんせっ……」

 咄嗟に手を出して、鷹峯の胸に縋った。微かに消毒用アルコールの匂いがする。

 いつも通りの飄々とした笑みを浮かべている彼はその実、五感全てを駆使して雛子の身体に何が起きているか探ろうとしているように見えた。平静を装いたくて、雛子は金魚のように口を開閉した。

「せんせ、私は」

「大丈夫ですよ、落ち着いて深呼吸」

 ゆっくりと背中を擦られると、不思議と高ぶっていた感情が凪いでいった。


「落ち着きましたか?」


 繰り返し深く息を吐くごとに、吐き気を催すほどの胸のざわつきは消えていく。


「すみません……大丈夫です……」


 素面になると途端に恥ずかしくなって、雛子は顔を隠すように立ち上がった。


「何か悩みがあるのなら私が聞きましょうか」


「っ……」


 
 見抜かれている。



「いえ、大丈夫、です」


 いっその事話してしまおうか。


「そうですか。では、私はこれで」


 鷹峯はあっさりと引き下がり、雛子に背を向ける。


(あれ、そういえば……)


 そういえば、鷹峯は何故真理亜の事を毛嫌いしているのだろう。



『なぁんか前々から嫌われてるのよねぇ』



 真理亜は心当たりがないような口ぶりだった。しかし、もしも本当に彼女が鷹峯の患者に手を出していたとしたら。

 それに鷹峯が気付いていたとしたら。



 どう思うだろうか。




「あのっ、鷹峯先生! やっぱりご相談したいことが……」



 くるりと振り返ったその顔は、酷く愉しそうに口角を釣りあげていた。

 しかし細められた瞳は、まるで獲物を狙う蛇のような鋭い光を放つ。



「はい、ではまた今夜」
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