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第1章 人生の転換期
第1話 崩れる日常
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朝の食卓には、食器の触れ合う乾いた音だけが響いていた。トーストの焦げ目から立ち上る薄い湯気と、冷えたコーヒーの苦い匂い。恩塚《おんづか》 聖士《せいじ》は黙ったままカップを口に運び、味のない液体を喉へと流し込んだ。
妻の彩花《あやか》はスマートフォンの画面を見つめ続け、娘は小さな足音だけを残して玄関へ消えていく。挨拶はない。目すら合わない。
ここ数年、この家の朝はいつもこうだった。
「いってきます」
小さく声を出してみたが、返事はどこからも返ってこなかった。彩花の指は画面の上を滑るばかりで、顔を上げようともしない。聖士は視線を落とし、靴紐を結び直すと、外の冷たい空気へと踏み出した。
通勤電車は満員だった。誰もが無言で、同じ方向へと押し流されていく。その波の中で、自分もただの一つの駒に過ぎない――そう思うたび、胸の奥に小さな痛みが走る。会社へ着くと、会議室の蛍光灯が白く瞼を刺した。
「この案件、誰が責任を取るんだ」
上司の声は鋭く、空気を一瞬で硬く縛った。聖士は静かに手を挙げる。
「私の管理不足です。改善案をまとめて――」
言い終える前に、机を叩く音が響いた。
「言い訳はいらん。結果がすべてだ」
部下は誰も目を合わせようとしない。かばう言葉も、労わりの視線もない。聖士は短く息を吐き、沈黙を飲み込んだ。
会議が終わり、机に戻ると、背中に疲労が重くのしかかった。四十代半ば。積み上げてきたはずの年月は、いつの間にか「責任だけを押し付けられる中間管理職」という役割へすり替わっていた。
仕事を終える頃には、足取りはすっかり重くなっていた。夜風がスーツの隙間から入り込み、体温を奪っていく。玄関の扉を開けると、リビングは淡い照明に照らされ、彩花がソファに座っていた。テーブルの上に水の入ったグラス。両手は膝の上で固く組まれている。
「……話があるの」
嫌な予感が、骨の奥底へと沈んでいく。
聖士はコートをかけ、向かいに座った。彩花は深く息を吸い、まっすぐ彼を見た。
「……高橋くんと付き合ってる。もう、隠すのはやめようと思って」
時間が止まったようだった。耳鳴りがする。室内の音が遠ざかり、自分の心臓の鼓動だけが大きく響く。
「冗談だろう」
唇が乾き、かろうじて声になった。
彩花はまばたきもせず、淡々と続ける。
「もう、あなたを夫として見られない。生活は楽だけど、心が何も感じない……離婚したい」
テーブルの上の水が、わずかに揺れた。聖士は言葉を探した。しかし、何一つ見つからない。十四年間の記憶が、砂丘のように音もなく崩れ落ちていく。
その夜、二人の間に会話はほとんどなかった。冷めた夕食だけが、テーブルの上に取り残されていた。
翌日。会社に着くと、総務から呼び出しがあった。
「人員整理の対象になりました。申し訳ありませんが――」
薄い書類一枚。退職日と、わずかな退職金額。
廊下の向こうで笑い声がした。視線をやると、高橋が同僚と談笑していた。余裕のある笑み。目が合った瞬間、口角がわずかに上がった気がした。
「今までお疲れさまでした」
事務的な声。聖士は自席へ戻り、ダンボールへ荷物を詰め始めた。本、書類、安物のマグカップ。どれも色を失って見えた。
誰も近づいてこない。握手も、ねぎらいの言葉もない。椅子の脚が床を擦る音だけが、やけに大きく響いた。
会社を出ると、空は灰色の雲に覆われ、雨が落ち始めていた。傘を差す気にもなれないまま、冷えたアスファルトの匂いを胸いっぱいに吸い込む。
「家族も、仕事も……全部、終わったんだな」
言葉にした瞬間、胸の奥で何かが崩れ落ちた。街灯の明かりが滲み、世界がぼやける。頬を伝うものが雨なのか涙なのか、自分でも分からなかった。
ふらりとコンビニに入り、ホットコーヒーを買う。財布の奥に押し込まれていた年末ジャンボの束を取り出す。レシートの裏に書かれた当選番号を照らし合わせる。
「どうせ外れてるさ」
乾いた笑いを浮かべながら、一つずつ数字を追う。
一桁、合っている。
二桁、三桁――指先が震え始めた。
「……まさか」
胸の奥が熱くなり、息が詰まる。最後の数字まで一致していた。
通帳に印字された数字を見たのは、翌日の銀行の応接室だった。
1,000,000,000円。
喉が締め付けられ、視界が滲む。拳が静かに震えた。
「おめでとうございます」
職員の声は遠くで反響しているようだった。聖士は深く頭を下げ、涙を必死に堪えた。
ビジネスホテルの小さな部屋に戻り、机にノートを広げる。真ん中に、ゆっくりとペンを走らせた。
――もう、誰にも支配されない。
ここから、人生を作り直す。
窓の外では、雨が止んでいた。夜景の灯りが、以前より少しだけ温かく見えた。
妻の彩花《あやか》はスマートフォンの画面を見つめ続け、娘は小さな足音だけを残して玄関へ消えていく。挨拶はない。目すら合わない。
ここ数年、この家の朝はいつもこうだった。
「いってきます」
小さく声を出してみたが、返事はどこからも返ってこなかった。彩花の指は画面の上を滑るばかりで、顔を上げようともしない。聖士は視線を落とし、靴紐を結び直すと、外の冷たい空気へと踏み出した。
通勤電車は満員だった。誰もが無言で、同じ方向へと押し流されていく。その波の中で、自分もただの一つの駒に過ぎない――そう思うたび、胸の奥に小さな痛みが走る。会社へ着くと、会議室の蛍光灯が白く瞼を刺した。
「この案件、誰が責任を取るんだ」
上司の声は鋭く、空気を一瞬で硬く縛った。聖士は静かに手を挙げる。
「私の管理不足です。改善案をまとめて――」
言い終える前に、机を叩く音が響いた。
「言い訳はいらん。結果がすべてだ」
部下は誰も目を合わせようとしない。かばう言葉も、労わりの視線もない。聖士は短く息を吐き、沈黙を飲み込んだ。
会議が終わり、机に戻ると、背中に疲労が重くのしかかった。四十代半ば。積み上げてきたはずの年月は、いつの間にか「責任だけを押し付けられる中間管理職」という役割へすり替わっていた。
仕事を終える頃には、足取りはすっかり重くなっていた。夜風がスーツの隙間から入り込み、体温を奪っていく。玄関の扉を開けると、リビングは淡い照明に照らされ、彩花がソファに座っていた。テーブルの上に水の入ったグラス。両手は膝の上で固く組まれている。
「……話があるの」
嫌な予感が、骨の奥底へと沈んでいく。
聖士はコートをかけ、向かいに座った。彩花は深く息を吸い、まっすぐ彼を見た。
「……高橋くんと付き合ってる。もう、隠すのはやめようと思って」
時間が止まったようだった。耳鳴りがする。室内の音が遠ざかり、自分の心臓の鼓動だけが大きく響く。
「冗談だろう」
唇が乾き、かろうじて声になった。
彩花はまばたきもせず、淡々と続ける。
「もう、あなたを夫として見られない。生活は楽だけど、心が何も感じない……離婚したい」
テーブルの上の水が、わずかに揺れた。聖士は言葉を探した。しかし、何一つ見つからない。十四年間の記憶が、砂丘のように音もなく崩れ落ちていく。
その夜、二人の間に会話はほとんどなかった。冷めた夕食だけが、テーブルの上に取り残されていた。
翌日。会社に着くと、総務から呼び出しがあった。
「人員整理の対象になりました。申し訳ありませんが――」
薄い書類一枚。退職日と、わずかな退職金額。
廊下の向こうで笑い声がした。視線をやると、高橋が同僚と談笑していた。余裕のある笑み。目が合った瞬間、口角がわずかに上がった気がした。
「今までお疲れさまでした」
事務的な声。聖士は自席へ戻り、ダンボールへ荷物を詰め始めた。本、書類、安物のマグカップ。どれも色を失って見えた。
誰も近づいてこない。握手も、ねぎらいの言葉もない。椅子の脚が床を擦る音だけが、やけに大きく響いた。
会社を出ると、空は灰色の雲に覆われ、雨が落ち始めていた。傘を差す気にもなれないまま、冷えたアスファルトの匂いを胸いっぱいに吸い込む。
「家族も、仕事も……全部、終わったんだな」
言葉にした瞬間、胸の奥で何かが崩れ落ちた。街灯の明かりが滲み、世界がぼやける。頬を伝うものが雨なのか涙なのか、自分でも分からなかった。
ふらりとコンビニに入り、ホットコーヒーを買う。財布の奥に押し込まれていた年末ジャンボの束を取り出す。レシートの裏に書かれた当選番号を照らし合わせる。
「どうせ外れてるさ」
乾いた笑いを浮かべながら、一つずつ数字を追う。
一桁、合っている。
二桁、三桁――指先が震え始めた。
「……まさか」
胸の奥が熱くなり、息が詰まる。最後の数字まで一致していた。
通帳に印字された数字を見たのは、翌日の銀行の応接室だった。
1,000,000,000円。
喉が締め付けられ、視界が滲む。拳が静かに震えた。
「おめでとうございます」
職員の声は遠くで反響しているようだった。聖士は深く頭を下げ、涙を必死に堪えた。
ビジネスホテルの小さな部屋に戻り、机にノートを広げる。真ん中に、ゆっくりとペンを走らせた。
――もう、誰にも支配されない。
ここから、人生を作り直す。
窓の外では、雨が止んでいた。夜景の灯りが、以前より少しだけ温かく見えた。
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