1 / 17
第1話 崩れる日常
しおりを挟む
朝の食卓には、食器の触れ合う乾いた音だけが響いていた。トーストの焦げ目から立ち上る薄い湯気と、冷えたコーヒーの苦い匂い。恩塚《おんづか》 聖士《せいじ》は黙ったままカップを口に運び、味のない液体を喉へと流し込んだ。
妻の彩花《あやか》はスマートフォンの画面を見つめ続け、娘は小さな足音だけを残して玄関へ消えていく。挨拶はない。目すら合わない。
ここ数年、この家の朝はいつもこうだった。
「いってきます」
小さく声を出してみたが、返事はどこからも返ってこなかった。彩花の指は画面の上を滑るばかりで、顔を上げようともしない。聖士は視線を落とし、靴紐を結び直すと、外の冷たい空気へと踏み出した。
通勤電車は満員だった。誰もが無言で、同じ方向へと押し流されていく。その波の中で、自分もただの一つの駒に過ぎない――そう思うたび、胸の奥に小さな痛みが走る。会社へ着くと、会議室の蛍光灯が白く瞼を刺した。
「この案件、誰が責任を取るんだ」
上司の声は鋭く、空気を一瞬で硬く縛った。聖士は静かに手を挙げる。
「私の管理不足です。改善案をまとめて――」
言い終える前に、机を叩く音が響いた。
「言い訳はいらん。結果がすべてだ」
部下は誰も目を合わせようとしない。かばう言葉も、労わりの視線もない。聖士は短く息を吐き、沈黙を飲み込んだ。
会議が終わり、机に戻ると、背中に疲労が重くのしかかった。四十代半ば。積み上げてきたはずの年月は、いつの間にか「責任だけを押し付けられる中間管理職」という役割へすり替わっていた。
仕事を終える頃には、足取りはすっかり重くなっていた。夜風がスーツの隙間から入り込み、体温を奪っていく。玄関の扉を開けると、リビングは淡い照明に照らされ、彩花がソファに座っていた。テーブルの上に水の入ったグラス。両手は膝の上で固く組まれている。
「……話があるの」
嫌な予感が、骨の奥底へと沈んでいく。
聖士はコートをかけ、向かいに座った。彩花は深く息を吸い、まっすぐ彼を見た。
「……高橋くんと付き合ってる。もう、隠すのはやめようと思って」
時間が止まったようだった。耳鳴りがする。室内の音が遠ざかり、自分の心臓の鼓動だけが大きく響く。
「冗談だろう」
唇が乾き、かろうじて声になった。
彩花はまばたきもせず、淡々と続ける。
「もう、あなたを夫として見られない。生活は楽だけど、心が何も感じない……離婚したい」
テーブルの上の水が、わずかに揺れた。聖士は言葉を探した。しかし、何一つ見つからない。十四年間の記憶が、砂丘のように音もなく崩れ落ちていく。
その夜、二人の間に会話はほとんどなかった。冷めた夕食だけが、テーブルの上に取り残されていた。
翌日。会社に着くと、総務から呼び出しがあった。
「人員整理の対象になりました。申し訳ありませんが――」
薄い書類一枚。退職日と、わずかな退職金額。
廊下の向こうで笑い声がした。視線をやると、高橋が同僚と談笑していた。余裕のある笑み。目が合った瞬間、口角がわずかに上がった気がした。
「今までお疲れさまでした」
事務的な声。聖士は自席へ戻り、ダンボールへ荷物を詰め始めた。本、書類、安物のマグカップ。どれも色を失って見えた。
誰も近づいてこない。握手も、ねぎらいの言葉もない。椅子の脚が床を擦る音だけが、やけに大きく響いた。
会社を出ると、空は灰色の雲に覆われ、雨が落ち始めていた。傘を差す気にもなれないまま、冷えたアスファルトの匂いを胸いっぱいに吸い込む。
「家族も、仕事も……全部、終わったんだな」
言葉にした瞬間、胸の奥で何かが崩れ落ちた。街灯の明かりが滲み、世界がぼやける。頬を伝うものが雨なのか涙なのか、自分でも分からなかった。
ふらりとコンビニに入り、ホットコーヒーを買う。財布の奥に押し込まれていた年末ジャンボの束を取り出す。レシートの裏に書かれた当選番号を照らし合わせる。
「どうせ外れてるさ」
乾いた笑いを浮かべながら、一つずつ数字を追う。
一桁、合っている。
二桁、三桁――指先が震え始めた。
「……まさか」
胸の奥が熱くなり、息が詰まる。最後の数字まで一致していた。
通帳に印字された数字を見たのは、翌日の銀行の応接室だった。
1,000,000,000円。
喉が締め付けられ、視界が滲む。拳が静かに震えた。
「おめでとうございます」
職員の声は遠くで反響しているようだった。聖士は深く頭を下げ、涙を必死に堪えた。
ビジネスホテルの小さな部屋に戻り、机にノートを広げる。真ん中に、ゆっくりとペンを走らせた。
――もう、誰にも支配されない。
ここから、人生を作り直す。
窓の外では、雨が止んでいた。夜景の灯りが、以前より少しだけ温かく見えた。
妻の彩花《あやか》はスマートフォンの画面を見つめ続け、娘は小さな足音だけを残して玄関へ消えていく。挨拶はない。目すら合わない。
ここ数年、この家の朝はいつもこうだった。
「いってきます」
小さく声を出してみたが、返事はどこからも返ってこなかった。彩花の指は画面の上を滑るばかりで、顔を上げようともしない。聖士は視線を落とし、靴紐を結び直すと、外の冷たい空気へと踏み出した。
通勤電車は満員だった。誰もが無言で、同じ方向へと押し流されていく。その波の中で、自分もただの一つの駒に過ぎない――そう思うたび、胸の奥に小さな痛みが走る。会社へ着くと、会議室の蛍光灯が白く瞼を刺した。
「この案件、誰が責任を取るんだ」
上司の声は鋭く、空気を一瞬で硬く縛った。聖士は静かに手を挙げる。
「私の管理不足です。改善案をまとめて――」
言い終える前に、机を叩く音が響いた。
「言い訳はいらん。結果がすべてだ」
部下は誰も目を合わせようとしない。かばう言葉も、労わりの視線もない。聖士は短く息を吐き、沈黙を飲み込んだ。
会議が終わり、机に戻ると、背中に疲労が重くのしかかった。四十代半ば。積み上げてきたはずの年月は、いつの間にか「責任だけを押し付けられる中間管理職」という役割へすり替わっていた。
仕事を終える頃には、足取りはすっかり重くなっていた。夜風がスーツの隙間から入り込み、体温を奪っていく。玄関の扉を開けると、リビングは淡い照明に照らされ、彩花がソファに座っていた。テーブルの上に水の入ったグラス。両手は膝の上で固く組まれている。
「……話があるの」
嫌な予感が、骨の奥底へと沈んでいく。
聖士はコートをかけ、向かいに座った。彩花は深く息を吸い、まっすぐ彼を見た。
「……高橋くんと付き合ってる。もう、隠すのはやめようと思って」
時間が止まったようだった。耳鳴りがする。室内の音が遠ざかり、自分の心臓の鼓動だけが大きく響く。
「冗談だろう」
唇が乾き、かろうじて声になった。
彩花はまばたきもせず、淡々と続ける。
「もう、あなたを夫として見られない。生活は楽だけど、心が何も感じない……離婚したい」
テーブルの上の水が、わずかに揺れた。聖士は言葉を探した。しかし、何一つ見つからない。十四年間の記憶が、砂丘のように音もなく崩れ落ちていく。
その夜、二人の間に会話はほとんどなかった。冷めた夕食だけが、テーブルの上に取り残されていた。
翌日。会社に着くと、総務から呼び出しがあった。
「人員整理の対象になりました。申し訳ありませんが――」
薄い書類一枚。退職日と、わずかな退職金額。
廊下の向こうで笑い声がした。視線をやると、高橋が同僚と談笑していた。余裕のある笑み。目が合った瞬間、口角がわずかに上がった気がした。
「今までお疲れさまでした」
事務的な声。聖士は自席へ戻り、ダンボールへ荷物を詰め始めた。本、書類、安物のマグカップ。どれも色を失って見えた。
誰も近づいてこない。握手も、ねぎらいの言葉もない。椅子の脚が床を擦る音だけが、やけに大きく響いた。
会社を出ると、空は灰色の雲に覆われ、雨が落ち始めていた。傘を差す気にもなれないまま、冷えたアスファルトの匂いを胸いっぱいに吸い込む。
「家族も、仕事も……全部、終わったんだな」
言葉にした瞬間、胸の奥で何かが崩れ落ちた。街灯の明かりが滲み、世界がぼやける。頬を伝うものが雨なのか涙なのか、自分でも分からなかった。
ふらりとコンビニに入り、ホットコーヒーを買う。財布の奥に押し込まれていた年末ジャンボの束を取り出す。レシートの裏に書かれた当選番号を照らし合わせる。
「どうせ外れてるさ」
乾いた笑いを浮かべながら、一つずつ数字を追う。
一桁、合っている。
二桁、三桁――指先が震え始めた。
「……まさか」
胸の奥が熱くなり、息が詰まる。最後の数字まで一致していた。
通帳に印字された数字を見たのは、翌日の銀行の応接室だった。
1,000,000,000円。
喉が締め付けられ、視界が滲む。拳が静かに震えた。
「おめでとうございます」
職員の声は遠くで反響しているようだった。聖士は深く頭を下げ、涙を必死に堪えた。
ビジネスホテルの小さな部屋に戻り、机にノートを広げる。真ん中に、ゆっくりとペンを走らせた。
――もう、誰にも支配されない。
ここから、人生を作り直す。
窓の外では、雨が止んでいた。夜景の灯りが、以前より少しだけ温かく見えた。
0
あなたにおすすめの小説
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
婚約破棄された翌日、兄が王太子を廃嫡させました
由香
ファンタジー
婚約破棄の場で「悪役令嬢」と断罪された伯爵令嬢エミリア。
彼女は何も言わずにその場を去った。
――それが、王太子の終わりだった。
翌日、王国を揺るがす不正が次々と暴かれる。
裏で糸を引いていたのは、エミリアの兄。
王国最強の権力者であり、妹至上主義の男だった。
「妹を泣かせた代償は、すべて払ってもらう」
ざまぁは、静かに、そして確実に進んでいく。
裏切りの代償
中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。
尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。
取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。
自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
僕が諦めた初恋の彼女は、偽ヒーローに身も心も捧げた後、全てを失ってから本当のヒーローが僕だったと知ったらしい
ledled
恋愛
高校二年生の水無月湊は、同じ図書委員の学年一の美少女・白鷺院麗華への恋を、戦う前に諦めた。
彼女には、心の底から焦がれる「ヒーロー」がいると知ってしまったからだ。
失恋の痛みを噛み締める湊の耳に、麗華がクラスのチャラ男と付き合い始めたという噂が届く。彼女は、その男こそが探し続けたヒーローだと信じきっていた。
だが湊は知らない。彼女が神格化するヒーローが、過去の記憶すらない自分自身だったことを。
そして麗華もまだ知らない。偽りの愛に全てを捧げた先に待つ絶望と、真実を知った時にはもう何もかもが手遅れだということを。
これは、残酷なすれ違いから始まる、後悔と再生のラブストーリー。
※この小説は生成AIを活用して執筆しています。内容は人による監修・編集済みです。
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
親友に恋人を奪われた俺は、姉の様に思っていた親友の父親の後妻を貰う事にしました。傷ついた二人の恋愛物語
石のやっさん
恋愛
同世代の輪から浮いていた和也は、村の権力者の息子正一より、とうとう、その輪のなから外されてしまった。幼馴染もかっての婚約者芽瑠も全員正一の物ので、そこに居場所が無いと悟った和也はそれを受け入れる事にした。
本来なら絶望的な状況の筈だが……和也の顔は笑っていた。
『勇者からの追放物』を書く時にに集めた資料を基に異世界でなくどこかの日本にありそうな架空な場所での物語を書いてみました。
「25周年アニバーサリーカップ」出展にあたり 主人公の年齢を25歳 ヒロインの年齢を30歳にしました。
カクヨムでカクヨムコン10に応募して中間突破した作品を加筆修正した作品です。
大きく物語は変わりませんが、所々、加筆修正が入ります。
友人(勇者)に恋人も幼馴染も取られたけど悔しくない。 だって俺は転生者だから。
石のやっさん
ファンタジー
パーティでお荷物扱いされていた魔法戦士のセレスは、とうとう勇者でありパーティーリーダーのリヒトにクビを宣告されてしまう。幼馴染も恋人も全部リヒトの物で、居場所がどこにもない状態だった。
だが、此の状態は彼にとっては『本当の幸せ』を掴む事に必要だった
何故なら、彼は『転生者』だから…
今度は違う切り口からのアプローチ。
追放の話しの一話は、前作とかなり似ていますが2話からは、かなり変わります。
こうご期待。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる