妻に不倫され間男にクビ宣告された俺、宝くじ10億円当たって防音タワマンでバ美肉VTuberデビューしたら人生爆逆転

小林一咲

文字の大きさ
3 / 17

第3話 扉の向こうへ

しおりを挟む
 契約書に名前を書き入れたボールペンの先が、微かに震えていた。担当者が書類を丁寧に揃え、「おめでとうございます」と深く頭を下げる。防音タワーマンション、最上階の一角。数億という金額が数字として紙の上に記されているのを見つめながら、聖士は静かに息を吐いた。

 この鍵を受け取った瞬間から、もう後戻りはできない。

 手渡された銀色のキーが手のひらの上で冷たく光る。その感触を何度も確かめるように握り締め、聖士はエントランスを抜けた。ガラス張りの自動ドアが静かに開く。吹き抜けのホールは、ホテルのロビーのような静謐さを湛えていた。大理石の床、柔らかな照明、遠くで流れる控えめな音楽。だが耳に届く音は、驚くほど少ない。

「……静かだな」

 口の中で小さく呟き、エレベーターに乗り込む。ボタンを押すと、滑るように上昇していく。耳がわずかに塞がれ、数秒後、扉が開いた。

 長い廊下。厚いカーペットが足音を吸い込み、空調の音さえほとんど感じられない。鍵を差し込み、静かに回す。わずかなクリック音を合図に扉を押し開いた。

 そこに広がっていたのは、別世界のような静寂だった。

 リビングの大きな窓いっぱいに東京の街が広がっている。昼の光が淡く床を照らし、高所特有の澄んだ景色が遠くまで続く。壁は重厚で厚く、床も天井も吸音材で覆われているのが分かる。手を叩いてみても、音はほとんど反響せず、空気の奥に沈んで消えていった。

「……すごい」

 言葉というより、息に混ざった感嘆だった。

 誰にも邪魔されない場所。怒鳴り声も物音も、届かない。自分だけの空間。

 その実感が胸の奥へゆっくり染み込んでいく。

 荷物といってもわずかなスーツケース一つだけだ。ホテル暮らしの数日で、持ち物は極端に減っていた。リビングの隅にそれを置き、窓際に歩み寄る。眼下には道路があり、車が小さな光の粒となって流れている。しかし、音は一切届かない。まるで世界そのものが遠ざかったようだった。

 ソファに腰を下ろすと、背中に疲労がにじみ出てくる。これまで張り詰め続けていた何かが、少しずつ解けていく。ポケットからスマートフォンを取り出し、電源を落とした。誰とも繋がらない時間を、今だけは選びたかった。

「ここから、始めるんだ」

 ゆっくりと言葉にして、天井を仰ぐ。

 午後。宅配業者が次々と荷物を運び込んでくる。巨大な段ボール箱が部屋に積まれ、封を切るたびに新しい機材が姿を現した。業務用マイク、オーディオインターフェース、スタジオ用の吸音パネル、四台並べる予定のモニター。どれも、以前の自分なら手を伸ばすことすら考えなかったものだ。

 設置作業の手伝いに来た業者が配線図を広げ、手際よくケーブルをまとめていく。聖士は横で説明を聞きながら、必要な位置を一つずつ指示した。床に張り巡らされたコード、静かに回転を始める冷却ファンの低い音。それらが、不思議と心地よく感じられる。

「こちらのPCは、レンダリング用と配信用で分けています。負荷分散は自動で行えますので」

「問題ありません。ありがとうございます」

 声に、久しぶりに確かな実感が宿った。

 設置が一通り終わった頃には、日が傾き始めていた。壁一面を覆う吸音パネルが淡い影を落とし、新しいスタジオルームはまだ無機質ながらも、どこか凛としている。椅子に腰を下ろし、机に手を置いた瞬間、胸の奥で小さな震えが走った。

「……ここが、俺の場所か」

 マイクアームを軽く動かし、ポップガードを触る。キーボードのキーを叩く音でさえ、優しく包み込まれて消えていく。

 この空間は、これまで自分を締め付けていたものとは、まるで逆の存在だった。

 夕食は簡単に済ませ、机にノートパソコンを置く。昨日編集したアバターデータを開き、照明環境と表情の調整を続けた。髪の揺れ、瞬きの速度、唇の動き方。細かい数値をいじるたび、画面の中の少女は少しずつ「生きている存在」に近づいていく。

 かつて押し殺してきた「好きなこと」が、今、堂々とこの部屋の真ん中に置かれている。

 胸の奥に、遅れてやってきた熱が静かに溶けた。

 ――あの頃、こんな時間は罪悪感だった。

 ――今は違う。

 つい微笑んでしまう自分に気づき、ふと目を閉じた。

 すると、薄暗い過去の記憶が、不意に脳裏へ浮かび上がった。

 休日の夜。居間のテーブルでパソコンを開き、モデリングをしていた時のこと。彩花に言われた言葉が、耳の奥でよみがえる。

「いい年して、そんな趣味に時間使うの? 家族のこと、もっと考えてよ」

 その一言で、パソコンを閉じた夜。机の引き出しにデータをしまい込み、それきり触れなくなった時間。胸の奥に重い蓋をして、鍵を投げ捨てたつもりだった。

 だが今、その蓋は静かに外されている。

「……戻らない」

 小さく呟き、画面へ視線を戻す。

 過去ではなく、これからの顔を見つめる。

 時計を見ると、すでに深夜を過ぎていた。椅子から立ち上がり、窓辺へ歩く。夜の街はまるで光の海のようで、遠くに伸びる道路が銀色に輝いている。防音ガラスに指先を当てると、外の世界は静寂のまま、ただ光だけを届けていた。

「静かだな……」

 その静けさは、孤独ではなかった。

 自分の内側と向き合うための余白だった。

 寝室に入り、ベッドの端に腰を下ろす。数日間の緊張と慌ただしさが一気に押し寄せ、全身に重さが広がる。天井の淡い照明が視界でぼやけた。

 思考が途切れる直前、心の奥底で小さな声がした。

 ――まだ終わっていない。ここからだ。

 翌朝。目を覚ますと、体の芯まで眠れた感覚があった。カーテンの隙間から差し込む朝日が部屋を柔らかく照らし、静かな空気の中に心地よい緊張が漂っている。

 キッチンに立ち、コーヒーを淹れる。湯気の向こうで、昨日のスタジオルームが静かに佇んでいた。カップを持ったまま椅子に座り、しばらくその光景を見つめる。

「この部屋を、俺の居場所にする」

 その言葉は宣言ではなく、祈りでもなく、確かな約束だった。

 スイッチを入れる。モニターが灯り、PCのファンが微かに回転を始める。マイクのランプが淡く光る。何かが、静かに起動していく音が部屋の奥に溶けていく。

 聖士はキーボードの上で指を止め、息を整えた。

 これから踏み出す一歩が、どこへ辿り着くのかはまだ分からない。

 だが、少なくともこの場所から始まる。

 後戻りはしない。

 視線の先には、まだ名を持たない新しい自分が、静かに待っている気がした。

 ――ここからだ。

 そして、彼はゆっくりと最初のキーを叩いた。

 
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

婚約破棄された翌日、兄が王太子を廃嫡させました

由香
ファンタジー
婚約破棄の場で「悪役令嬢」と断罪された伯爵令嬢エミリア。 彼女は何も言わずにその場を去った。 ――それが、王太子の終わりだった。 翌日、王国を揺るがす不正が次々と暴かれる。 裏で糸を引いていたのは、エミリアの兄。 王国最強の権力者であり、妹至上主義の男だった。 「妹を泣かせた代償は、すべて払ってもらう」 ざまぁは、静かに、そして確実に進んでいく。

裏切りの代償

中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。 尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。 取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。 自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

僕が諦めた初恋の彼女は、偽ヒーローに身も心も捧げた後、全てを失ってから本当のヒーローが僕だったと知ったらしい

ledled
恋愛
高校二年生の水無月湊は、同じ図書委員の学年一の美少女・白鷺院麗華への恋を、戦う前に諦めた。 彼女には、心の底から焦がれる「ヒーロー」がいると知ってしまったからだ。 失恋の痛みを噛み締める湊の耳に、麗華がクラスのチャラ男と付き合い始めたという噂が届く。彼女は、その男こそが探し続けたヒーローだと信じきっていた。 だが湊は知らない。彼女が神格化するヒーローが、過去の記憶すらない自分自身だったことを。 そして麗華もまだ知らない。偽りの愛に全てを捧げた先に待つ絶望と、真実を知った時にはもう何もかもが手遅れだということを。 これは、残酷なすれ違いから始まる、後悔と再生のラブストーリー。 ※この小説は生成AIを活用して執筆しています。内容は人による監修・編集済みです。

敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています

藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。 結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。 聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。 侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。 ※全11話 2万字程度の話です。

親友に恋人を奪われた俺は、姉の様に思っていた親友の父親の後妻を貰う事にしました。傷ついた二人の恋愛物語

石のやっさん
恋愛
同世代の輪から浮いていた和也は、村の権力者の息子正一より、とうとう、その輪のなから外されてしまった。幼馴染もかっての婚約者芽瑠も全員正一の物ので、そこに居場所が無いと悟った和也はそれを受け入れる事にした。 本来なら絶望的な状況の筈だが……和也の顔は笑っていた。 『勇者からの追放物』を書く時にに集めた資料を基に異世界でなくどこかの日本にありそうな架空な場所での物語を書いてみました。 「25周年アニバーサリーカップ」出展にあたり 主人公の年齢を25歳 ヒロインの年齢を30歳にしました。 カクヨムでカクヨムコン10に応募して中間突破した作品を加筆修正した作品です。 大きく物語は変わりませんが、所々、加筆修正が入ります。

友人(勇者)に恋人も幼馴染も取られたけど悔しくない。 だって俺は転生者だから。

石のやっさん
ファンタジー
パーティでお荷物扱いされていた魔法戦士のセレスは、とうとう勇者でありパーティーリーダーのリヒトにクビを宣告されてしまう。幼馴染も恋人も全部リヒトの物で、居場所がどこにもない状態だった。 だが、此の状態は彼にとっては『本当の幸せ』を掴む事に必要だった 何故なら、彼は『転生者』だから… 今度は違う切り口からのアプローチ。 追放の話しの一話は、前作とかなり似ていますが2話からは、かなり変わります。 こうご期待。

処理中です...