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第11話 暴かれた名と、切り捨てる過去
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朝、ジム帰りにコンビニでコーヒーを買い、そのままエレベーターで部屋へ戻った。玄関で靴を脱ぎながらポケットのスマホを確認すると、未読メールの通知が一件だけ光っていた。
差出人は――元妻。
躊躇してから、画面を開く。
そこには、長い文章が詰め込まれていた。
「お願い。今日だけは聞いて。
ニュース、見た? ネットでも広まってる。
“姫宮みことの中身は中年男性”って書かれてる記事。
……あれ、あなたのことでしょう?」
体のどこかが一瞬だけ冷たくなる。
(来たか。やっぱり、時間の問題だったか)
スクロールすると、さらに続いていた。
「娘が……学校で泣いて帰ってきたの。
クラスの子に言われたって。
“お前の父親、女のフリして配信してる変態だって”って。もう学校行きたくないって、ずっと泣いてるの。どうしてくれるの?」
指先が止まる。
息を吸い、吐く。
胸の奥で、感情が静かに沈んでいくのが分かった。
(……いや、待てよ)
不倫したのは誰だ。
家族を壊したのは誰だ。
親権を手放させられたとき、あの子は俺を「もう会わなくていい」と書いた。その選択を背中から押しつけたのは、どちらの側の大人だった。
なのに――今さら「助けて」か。
メールはさらに続いていた。
「お願いだから、一度話して。あの子のお父さんは、あなたしかいないんだから……」
俺はスマホをゆっくりテーブルへ置いた。
しばらく無言で天井を見つめ、それから椅子に腰を下ろす。
(……どうでもいい)
怒りでも悲しみでもない。
それは、ただの結論だった。
親権は向こうにある。
育てる責任も、環境を整える義務も、すべて母親の側にある。
俺は、静かにスマホを手に取り、返信欄を開いた。
指を動かしながら、言葉を絞り込む。
「不倫して家庭を壊したのはそっちだろ。
親権も養育も、すべてお前が選んで背負った責任だ。困ったときだけ“父親”を持ち出すな。転校でも引っ越しでも、好きにしろ。高橋の金でどうにでもなるだろ。」
そこまで打ち込んで、一度だけ読み返す。
余計な感情を挟むつもりはなかった。
(これ以上、俺の人生に踏み込ませるつもりはない)
最後に一文だけ、続ける。
「今後、何かあっても俺に直接連絡するな。
必要があるなら、弁護士を通せ」
送信ボタンを押す。
数秒後、送信完了の表示が浮かぶ。
それを確認した俺は、受信フォルダへ戻り――元妻とのスレッドを選び、迷いなく削除した。
画面から、その名前が消える。
胸の奥に残ったのは、寂しさでも未練でもなく、ただひとつの静かな感覚だった。
――自由。
俺は深く息を吐き、窓の外を見た。
防音タワマンの高層階から見下ろす街は、今日も忙しなく動いている。
過去は切り捨てた。
これから進む場所は、ここだ。
そして夜になれば――また、配信ボタンを押す。
逃げ場ではない。
今は、俺の居場所だから。
◇◇◇
それから、およそ二ヶ月が過ぎた。
配信は順調だった。
深夜の雑談枠、ゲーム配信、ASMR寄りのまったり配信――気がつけば固定リスナーも増え、数字は静かだが確実に伸び続けていた。
その日の午後、いつものように動画編集を終え、コーヒーを淹れて一息ついたところで、ノートPCにメール通知が表示された。
差出人を見て、思わず背筋が固くなる。
(……この名前、見覚えがあるな)
業界最大手と言っていい、超有名Vライバー事務所。名前をクリックし、ゆっくり本文を開いた。
「はじめまして。
貴チャンネルの配信と活動を拝見し、ぜひお話をさせていただきたいと考え、ご連絡いたしました。
もしご興味があれば、事務所所属という形で今後の活動をご一緒できればと存じます。
一度、打ち合わせのお時間をいただけますでしょうか。」
しばらく画面を見つめたまま、言葉を失っていた。
(……マジかよ。あの事務所から?)
心臓の鼓動が静かに早くなる。
先月、配信サイトから振り込まれた収益を確認したときの衝撃が、頭の奥によみがえった。桁を何度も数え、銀行アプリを閉じては開き、現実であることを確かめた。
――あのとき悟った。
(この規模になると、もう個人の趣味の領域じゃない)
税金、経費、確定申告。
これまで会社に任せていた分野を、今は自分一人で管理しなければならない。
実は配信者仲間からのDMにも、同じ助言が何度かあった。
〈法人化や税理士の手配は、事務所所属のほうが楽ですよ〉
〈運営サポートが入ると、活動の幅も広がります〉
合理的に考えれば、たしかにメリットは大きい。
だが同時に、胸の奥がわずかに引き締まる。
(事務所に入れば、自由は減る)
イベント出演、案件スケジュール、企画への参加、共同配信。
縛りや制約も増えるだろう。
今の俺の配信ペースは、俺が俺のために選んだ生活のリズムだ。そこに外から手を入れられることへの不安は、どうしても消えない。
画面を閉じかけたところで、最後の一文が目に入った。
「まずは、お話だけでも結構です。」
少しだけ肩の力が抜けた。
(……そうか。いきなり契約じゃない。話を聞くだけなら)
迷いはまだ完全には消えていない。
だが背を向けるには――あまりにも大きな扉だった。
俺はキーボードに指を置き、短く返信を打つ。
「お声がけありがとうございます。
ぜひ一度、お話を伺わせてください。」
送信ボタンを押す。
画面に残った余韻をじっと見つめながら、ゆっくりと息を吐いた。
(どうなるかは分からない。だけど――)
静かな鼓動だけが、胸の奥で確かに鳴っていた。
数日後、指定された日時と住所が返信で届き、俺はスケジュール帳に小さく予定を書き込む。
――事務所へ行って話を聞く。
新しい何かが始まるかもしれない。
あるいは、何も選ばず戻ってくるだけかもしれない。
だがそれでも、今はただ一つだけ。
俺は、前へ進むと決めていた。
差出人は――元妻。
躊躇してから、画面を開く。
そこには、長い文章が詰め込まれていた。
「お願い。今日だけは聞いて。
ニュース、見た? ネットでも広まってる。
“姫宮みことの中身は中年男性”って書かれてる記事。
……あれ、あなたのことでしょう?」
体のどこかが一瞬だけ冷たくなる。
(来たか。やっぱり、時間の問題だったか)
スクロールすると、さらに続いていた。
「娘が……学校で泣いて帰ってきたの。
クラスの子に言われたって。
“お前の父親、女のフリして配信してる変態だって”って。もう学校行きたくないって、ずっと泣いてるの。どうしてくれるの?」
指先が止まる。
息を吸い、吐く。
胸の奥で、感情が静かに沈んでいくのが分かった。
(……いや、待てよ)
不倫したのは誰だ。
家族を壊したのは誰だ。
親権を手放させられたとき、あの子は俺を「もう会わなくていい」と書いた。その選択を背中から押しつけたのは、どちらの側の大人だった。
なのに――今さら「助けて」か。
メールはさらに続いていた。
「お願いだから、一度話して。あの子のお父さんは、あなたしかいないんだから……」
俺はスマホをゆっくりテーブルへ置いた。
しばらく無言で天井を見つめ、それから椅子に腰を下ろす。
(……どうでもいい)
怒りでも悲しみでもない。
それは、ただの結論だった。
親権は向こうにある。
育てる責任も、環境を整える義務も、すべて母親の側にある。
俺は、静かにスマホを手に取り、返信欄を開いた。
指を動かしながら、言葉を絞り込む。
「不倫して家庭を壊したのはそっちだろ。
親権も養育も、すべてお前が選んで背負った責任だ。困ったときだけ“父親”を持ち出すな。転校でも引っ越しでも、好きにしろ。高橋の金でどうにでもなるだろ。」
そこまで打ち込んで、一度だけ読み返す。
余計な感情を挟むつもりはなかった。
(これ以上、俺の人生に踏み込ませるつもりはない)
最後に一文だけ、続ける。
「今後、何かあっても俺に直接連絡するな。
必要があるなら、弁護士を通せ」
送信ボタンを押す。
数秒後、送信完了の表示が浮かぶ。
それを確認した俺は、受信フォルダへ戻り――元妻とのスレッドを選び、迷いなく削除した。
画面から、その名前が消える。
胸の奥に残ったのは、寂しさでも未練でもなく、ただひとつの静かな感覚だった。
――自由。
俺は深く息を吐き、窓の外を見た。
防音タワマンの高層階から見下ろす街は、今日も忙しなく動いている。
過去は切り捨てた。
これから進む場所は、ここだ。
そして夜になれば――また、配信ボタンを押す。
逃げ場ではない。
今は、俺の居場所だから。
◇◇◇
それから、およそ二ヶ月が過ぎた。
配信は順調だった。
深夜の雑談枠、ゲーム配信、ASMR寄りのまったり配信――気がつけば固定リスナーも増え、数字は静かだが確実に伸び続けていた。
その日の午後、いつものように動画編集を終え、コーヒーを淹れて一息ついたところで、ノートPCにメール通知が表示された。
差出人を見て、思わず背筋が固くなる。
(……この名前、見覚えがあるな)
業界最大手と言っていい、超有名Vライバー事務所。名前をクリックし、ゆっくり本文を開いた。
「はじめまして。
貴チャンネルの配信と活動を拝見し、ぜひお話をさせていただきたいと考え、ご連絡いたしました。
もしご興味があれば、事務所所属という形で今後の活動をご一緒できればと存じます。
一度、打ち合わせのお時間をいただけますでしょうか。」
しばらく画面を見つめたまま、言葉を失っていた。
(……マジかよ。あの事務所から?)
心臓の鼓動が静かに早くなる。
先月、配信サイトから振り込まれた収益を確認したときの衝撃が、頭の奥によみがえった。桁を何度も数え、銀行アプリを閉じては開き、現実であることを確かめた。
――あのとき悟った。
(この規模になると、もう個人の趣味の領域じゃない)
税金、経費、確定申告。
これまで会社に任せていた分野を、今は自分一人で管理しなければならない。
実は配信者仲間からのDMにも、同じ助言が何度かあった。
〈法人化や税理士の手配は、事務所所属のほうが楽ですよ〉
〈運営サポートが入ると、活動の幅も広がります〉
合理的に考えれば、たしかにメリットは大きい。
だが同時に、胸の奥がわずかに引き締まる。
(事務所に入れば、自由は減る)
イベント出演、案件スケジュール、企画への参加、共同配信。
縛りや制約も増えるだろう。
今の俺の配信ペースは、俺が俺のために選んだ生活のリズムだ。そこに外から手を入れられることへの不安は、どうしても消えない。
画面を閉じかけたところで、最後の一文が目に入った。
「まずは、お話だけでも結構です。」
少しだけ肩の力が抜けた。
(……そうか。いきなり契約じゃない。話を聞くだけなら)
迷いはまだ完全には消えていない。
だが背を向けるには――あまりにも大きな扉だった。
俺はキーボードに指を置き、短く返信を打つ。
「お声がけありがとうございます。
ぜひ一度、お話を伺わせてください。」
送信ボタンを押す。
画面に残った余韻をじっと見つめながら、ゆっくりと息を吐いた。
(どうなるかは分からない。だけど――)
静かな鼓動だけが、胸の奥で確かに鳴っていた。
数日後、指定された日時と住所が返信で届き、俺はスケジュール帳に小さく予定を書き込む。
――事務所へ行って話を聞く。
新しい何かが始まるかもしれない。
あるいは、何も選ばず戻ってくるだけかもしれない。
だがそれでも、今はただ一つだけ。
俺は、前へ進むと決めていた。
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