8 / 19
第8話 声は魔法より先に
しおりを挟む
海の匂いが、強かった。
潮の香りに混じって、生臭い気配が漂っている。嫌な予感がする時の匂いだ。港町の人たちが「最近はずっとこうだ」と言っていたのを思い出す。漁に出られず、夜は沖が騒がしい。そんな話を聞いた時点で、ただ事ではないと思っていた。
僕は海岸線から少し高い場所に設けられた指揮位置に立っていた。前方には砂浜、その先には灰色がかった海が広がっている。空は曇っているが、視界は悪くない。
陣形はすでに整っていた。
前線よりやや後方に魔法師団三百。一定間隔で魔力の波長をずらし、同時詠唱による干渉を防いでいる。さすがはイリナだ。細かい説明をされても、正直なところ僕には半分も理解できないが、少なくとも「無駄がない」ということだけは分かる。
さらに前、波打ち際には獣人重装歩兵団五百。巨大な盾を構え、砂浜にしっかりと足を踏みしめている。アダライスが中央で腕を組み、静かに前を睨んでいた。
完璧だと思った。
少なくとも、僕の目にはそう見えた。
敵影が現れたのは、最初は沖合だった。黒い点が、波の合間に浮かんでは消える。やがてそれが数を増し、はっきりとした形になる。
「来ます」
誰かが短く告げた。
イリナが杖を上げる。合図はそれだけだった。
次の瞬間、空気が震えた。
火球、氷槍、雷撃。属性の違う魔法が時間差で放たれ、海面と砂浜を同時に叩く。魔物の群れが悲鳴を上げる暇もなく、弾け飛んだ。
距離は十分。魔法師団の射程の中だ。
突破してくる個体がいると、獣人重装歩兵団が動く。重い盾で弾き、斧や大剣で薙ぎ払う。動きに無駄がない。撮り逃しはない。
――強い。
率直にそう思った。
これなら、問題ない。被害も最小限で済む。そう感じて、少しだけ肩の力が抜けた。
だが、その感覚は長く続かなかった。
「……数が、減っていない?」
後方で、魔法師団の誰かが呟いた。
僕も気づいていた。倒している。確実に倒している。それなのに、海の向こうの黒点は減らない。それどころか、増えているように見えた。
新たな群れが、さらにその後ろから現れる。
イリナが眉をひそめた。
「補充速度が異常ね……」
魔力の消費が、想定より早い。魔法師団の詠唱間隔が、わずかに短くなっているのが分かる。無理をしているわけではないが、長引けば確実に消耗する。
獣人重装歩兵団も同じだ。今は余裕があるが、波のように押し寄せる敵を相手にし続ければ、集中力は削られていく。
嫌な予感が、はっきりと形を持ち始めた。
その時だった。
海の動きが、おかしくなった。
波が、止まった。
正確には、引いた。さっきまで打ち寄せていた波が、不自然なほど静かに後退していく。砂浜が、広がる。
「……?」
誰かが息を呑む音がした。
次の瞬間、海面が盛り上がった。
巨大な影が、水の下から浮かび上がる。触腕。一本ではない。何本も、太く、長いものが、ゆっくりと姿を現した。
「クラーケン……!」
しかも、大きい。
いや、大きすぎる。
今まで相手にしていた魔物たちとは、存在の重みが違う。海そのものが、そいつに従っているように見えた。
「キングクラスだ……」
誰かの声が、震えていた。
理解した。
今までの群れは、前座だ。本命は、最初からこれだった。
前線に、わずかな揺らぎが生じた。
魔法師団の詠唱が、一瞬だけ遅れる。獣人重装歩兵の一部が、無意識に足を引く。
恐怖だ。
理屈ではなく、感覚的なもの。勝てるかどうか以前に、「相手にしていい存在なのか」という迷いが、空気に混じる。
まずい、と思った。
命令を出すべきか? 撤退? 集中攻撃?
どれも、頭では浮かぶ。でも、今この瞬間に必要なのは、そういう言葉じゃない気がした。
僕は気づいた。
この場にいる誰もが、僕を見ている。
判断を仰いでいる、というより、安心を求めている目だった。
なら。
やるしかない。
僕は一歩、前に出た。団長旗のすぐそば。足が少し震えているのが、自分でも分かる。
声を出す。腹から。
「大丈夫だ!」
自分でも驚くほど、はっきりとした声だった。
魔法の詠唱じゃない。戦術的な指示でもない。ただの言葉だ。
「今まで通りでいい! ちゃんと、押さえられてる!」
誰かの肩が、少しだけ下がるのが見えた。
「焦らなくていい! 無理しなくていい!」
嘘は言っていない。事実だ。こちらの連携は崩れていない。敵が強いのは確かだが、まだ耐えられる。
「死なないで!」
その言葉が、口から出た瞬間、場の空気が変わった。
派手な変化じゃない。魔力が爆発したわけでも、光が走ったわけでもない。
でも、確実に。
呼吸が揃った。
魔法師団の詠唱が安定する。獣人重装歩兵の足が、再び砂に深く食い込む。
命中率が上がる。連携が滑らかになる。
誰かが、僕を見て頷いた。
イリナが、ちらりとこちらを見る。その目が、わずかに見開かれたのを、僕は見逃さなかった。
アダライスが、牙を剥いて笑う。
「……面白えな」
何が起きているのか、正直、分からない。
僕はただ、声を出しただけだ。魔法も、スキルも、何も使っていない。そもそもそんなモノは持ち合わせていない。
それでも、戦線は持ち直している。
クラーケンが、触腕を振り上げる。海水が飛び散る。
それを見て、僕は思った。
怖い。
当たり前だ。あんなもの、怖くないはずがない。
でも。
逃げたい、とは思わなかった。
ここで下がったら、また誰かが前に出て、無理をする。それだけは、嫌だった。
「……頼む」
小さく、誰にも聞こえない声で呟く。
僕は戦えない。
でも。
みんなが、無事に帰れるなら。
それだけでいい。
クラーケンに向かって、魔法が集中する。獣人重装歩兵が、うねる触腕に突っ込んでいく。
僕は、ただ立っていた。
声を失わないように。
それが、今の僕にできる唯一の戦い方だった。
潮の香りに混じって、生臭い気配が漂っている。嫌な予感がする時の匂いだ。港町の人たちが「最近はずっとこうだ」と言っていたのを思い出す。漁に出られず、夜は沖が騒がしい。そんな話を聞いた時点で、ただ事ではないと思っていた。
僕は海岸線から少し高い場所に設けられた指揮位置に立っていた。前方には砂浜、その先には灰色がかった海が広がっている。空は曇っているが、視界は悪くない。
陣形はすでに整っていた。
前線よりやや後方に魔法師団三百。一定間隔で魔力の波長をずらし、同時詠唱による干渉を防いでいる。さすがはイリナだ。細かい説明をされても、正直なところ僕には半分も理解できないが、少なくとも「無駄がない」ということだけは分かる。
さらに前、波打ち際には獣人重装歩兵団五百。巨大な盾を構え、砂浜にしっかりと足を踏みしめている。アダライスが中央で腕を組み、静かに前を睨んでいた。
完璧だと思った。
少なくとも、僕の目にはそう見えた。
敵影が現れたのは、最初は沖合だった。黒い点が、波の合間に浮かんでは消える。やがてそれが数を増し、はっきりとした形になる。
「来ます」
誰かが短く告げた。
イリナが杖を上げる。合図はそれだけだった。
次の瞬間、空気が震えた。
火球、氷槍、雷撃。属性の違う魔法が時間差で放たれ、海面と砂浜を同時に叩く。魔物の群れが悲鳴を上げる暇もなく、弾け飛んだ。
距離は十分。魔法師団の射程の中だ。
突破してくる個体がいると、獣人重装歩兵団が動く。重い盾で弾き、斧や大剣で薙ぎ払う。動きに無駄がない。撮り逃しはない。
――強い。
率直にそう思った。
これなら、問題ない。被害も最小限で済む。そう感じて、少しだけ肩の力が抜けた。
だが、その感覚は長く続かなかった。
「……数が、減っていない?」
後方で、魔法師団の誰かが呟いた。
僕も気づいていた。倒している。確実に倒している。それなのに、海の向こうの黒点は減らない。それどころか、増えているように見えた。
新たな群れが、さらにその後ろから現れる。
イリナが眉をひそめた。
「補充速度が異常ね……」
魔力の消費が、想定より早い。魔法師団の詠唱間隔が、わずかに短くなっているのが分かる。無理をしているわけではないが、長引けば確実に消耗する。
獣人重装歩兵団も同じだ。今は余裕があるが、波のように押し寄せる敵を相手にし続ければ、集中力は削られていく。
嫌な予感が、はっきりと形を持ち始めた。
その時だった。
海の動きが、おかしくなった。
波が、止まった。
正確には、引いた。さっきまで打ち寄せていた波が、不自然なほど静かに後退していく。砂浜が、広がる。
「……?」
誰かが息を呑む音がした。
次の瞬間、海面が盛り上がった。
巨大な影が、水の下から浮かび上がる。触腕。一本ではない。何本も、太く、長いものが、ゆっくりと姿を現した。
「クラーケン……!」
しかも、大きい。
いや、大きすぎる。
今まで相手にしていた魔物たちとは、存在の重みが違う。海そのものが、そいつに従っているように見えた。
「キングクラスだ……」
誰かの声が、震えていた。
理解した。
今までの群れは、前座だ。本命は、最初からこれだった。
前線に、わずかな揺らぎが生じた。
魔法師団の詠唱が、一瞬だけ遅れる。獣人重装歩兵の一部が、無意識に足を引く。
恐怖だ。
理屈ではなく、感覚的なもの。勝てるかどうか以前に、「相手にしていい存在なのか」という迷いが、空気に混じる。
まずい、と思った。
命令を出すべきか? 撤退? 集中攻撃?
どれも、頭では浮かぶ。でも、今この瞬間に必要なのは、そういう言葉じゃない気がした。
僕は気づいた。
この場にいる誰もが、僕を見ている。
判断を仰いでいる、というより、安心を求めている目だった。
なら。
やるしかない。
僕は一歩、前に出た。団長旗のすぐそば。足が少し震えているのが、自分でも分かる。
声を出す。腹から。
「大丈夫だ!」
自分でも驚くほど、はっきりとした声だった。
魔法の詠唱じゃない。戦術的な指示でもない。ただの言葉だ。
「今まで通りでいい! ちゃんと、押さえられてる!」
誰かの肩が、少しだけ下がるのが見えた。
「焦らなくていい! 無理しなくていい!」
嘘は言っていない。事実だ。こちらの連携は崩れていない。敵が強いのは確かだが、まだ耐えられる。
「死なないで!」
その言葉が、口から出た瞬間、場の空気が変わった。
派手な変化じゃない。魔力が爆発したわけでも、光が走ったわけでもない。
でも、確実に。
呼吸が揃った。
魔法師団の詠唱が安定する。獣人重装歩兵の足が、再び砂に深く食い込む。
命中率が上がる。連携が滑らかになる。
誰かが、僕を見て頷いた。
イリナが、ちらりとこちらを見る。その目が、わずかに見開かれたのを、僕は見逃さなかった。
アダライスが、牙を剥いて笑う。
「……面白えな」
何が起きているのか、正直、分からない。
僕はただ、声を出しただけだ。魔法も、スキルも、何も使っていない。そもそもそんなモノは持ち合わせていない。
それでも、戦線は持ち直している。
クラーケンが、触腕を振り上げる。海水が飛び散る。
それを見て、僕は思った。
怖い。
当たり前だ。あんなもの、怖くないはずがない。
でも。
逃げたい、とは思わなかった。
ここで下がったら、また誰かが前に出て、無理をする。それだけは、嫌だった。
「……頼む」
小さく、誰にも聞こえない声で呟く。
僕は戦えない。
でも。
みんなが、無事に帰れるなら。
それだけでいい。
クラーケンに向かって、魔法が集中する。獣人重装歩兵が、うねる触腕に突っ込んでいく。
僕は、ただ立っていた。
声を失わないように。
それが、今の僕にできる唯一の戦い方だった。
0
あなたにおすすめの小説
辺境の落ちこぼれと呼ばれた少年、実は王も龍も跪く最強でした
たまごころ
ファンタジー
村で「落ちこぼれ」と呼ばれた少年アレン。魔法も剣も使えず、追放される運命だった。
だが彼の力は、世界の理そのものに干渉する“神級スキル”だった。
自覚のないまま危機を救い、美女を助け、敵を粉砕し、気づけば各国の王も、竜すらも彼に頭を下げる。
勘違いと優しさと恐るべき力が織りなす、最強無自覚ハーレムファンタジー、ここに開幕!
借金5億で異世界転移、よりによって金本位制の世界だった
夜明け一葉
ファンタジー
32歳の個人トレーダー・佐藤慧は、5年間の雪辱を賭けたトレードで5億円の借金を抱え、意識を失った。目覚めると、そこは剣と魔法が存在する見知らぬ世界だった。常識が通じない異世界で、金貨を見るだけで嘔吐する「金アレルギー」を抱えながら、若き冒険者リナと出会い、生き延びる術を探し始める。諦めることだけができなかった男が、新たな世界で再び立ち上がる異世界サバイバル譚。
記憶喪失の私はギルマス(強面)に拾われました【バレンタインSS投下】
かのこkanoko
恋愛
記憶喪失の私が強面のギルドマスターに拾われました。
名前も年齢も住んでた町も覚えてません。
ただ、ギルマスは何だか私のストライクゾーンな気がするんですが。
プロット無しで始める異世界ゆるゆるラブコメになる予定の話です。
小説家になろう様にも公開してます。
男女比がおかしい世界の貴族に転生してしまった件
美鈴
ファンタジー
転生したのは男性が少ない世界!?貴族に生まれたのはいいけど、どういう風に生きていこう…?
最新章の第五章も夕方18時に更新予定です!
☆の話は苦手な人は飛ばしても問題無い様に物語を紡いでおります。
※ホットランキング1位、ファンタジーランキング3位ありがとうございます!
※カクヨム様にも投稿しております。内容が大幅に異なり改稿しております。
※各種ランキング1位を頂いた事がある作品です!
元勇者は魔力無限の闇属性使い ~世界の中心に理想郷を作り上げて無双します~
桜井正宗@オートスキル第1巻発売中
ファンタジー
魔王を倒した(和解)した元勇者・ユメは、平和になった異世界を満喫していた。しかしある日、風の帝王に呼び出されるといきなり『追放』を言い渡された。絶望したユメは、魔法使い、聖女、超初心者の仲間と共に、理想郷を作ることを決意。
帝国に負けない【防衛値】を極めることにした。
信頼できる仲間と共に守備を固めていれば、どんなモンスターに襲われてもビクともしないほどに国は盤石となった。
そうしてある日、今度は魔神が復活。各地で暴れまわり、その魔の手は帝国にも襲い掛かった。すると、帝王から帝国防衛に戻れと言われた。だが、もう遅い。
すでに理想郷を築き上げたユメは、自分の国を守ることだけに全力を尽くしていく。
【コミカライズ決定】勇者学園の西園寺オスカー~実力を隠して勇者学園を満喫する俺、美人生徒会長に目をつけられたので最強ムーブをかましたい~
エース皇命
ファンタジー
【HOTランキング2位獲得作品】
【第5回一二三書房Web小説大賞コミカライズ賞】
~ポルカコミックスでの漫画化(コミカライズ)決定!~
ゼルトル勇者学園に通う少年、西園寺オスカーはかなり変わっている。
学園で、教師をも上回るほどの実力を持っておきながらも、その実力を隠し、他の生徒と同様の、平均的な目立たない存在として振る舞うのだ。
何か実力を隠す特別な理由があるのか。
いや、彼はただ、「かっこよさそう」だから実力を隠す。
そんな中、隣の席の美少女セレナや、生徒会長のアリア、剣術教師であるレイヴンなどは、「西園寺オスカーは何かを隠している」というような疑念を抱き始めるのだった。
貴族出身の傲慢なクラスメイトに、彼と対峙することを選ぶ生徒会〈ガーディアンズ・オブ・ゼルトル〉、さらには魔王まで、西園寺オスカーの前に立ちはだかる。
オスカーはどうやって最強の力を手にしたのか。授業や試験ではどんなムーブをかますのか。彼の実力を知る者は現れるのか。
世界を揺るがす、最強中二病主人公の爆誕を見逃すな!
※小説家になろう、カクヨム、pixivにも投稿中。
無自覚に世界最強だった俺、追放後にチートがバレて全員ざまぁされる件
fuwamofu
ファンタジー
冒険者団から「役立たず」と追放された青年リオ。
実は彼のスキル《創造》は、世界の理を作り替える最強の能力だった。
追放後、孤独な旅に出るリオは、自身の無自覚な力で人々を救い、国を救い、やがて世界の中心に立つ。
そんな彼の元には、かつて彼を見下していた美少女たちが次々と跪いていく──。
これは、無自覚に世界を変えてしまう青年の、ざまぁと覇道の物語。
追放された村人A、実は神々が恐れる規格外の英雄だった ~無自覚のまま世界最強に成り上がる村人、気づけばハーレムを築いていた件~
にゃ-さん
ファンタジー
村人として静かに暮らしていた青年レイルは、能力査定で「最弱」と評され、仲間から追放されてしまう。だがその能力「小さな加護」は、神々すら知らぬ万能の力の一端に過ぎなかった。
無自覚なまま溢れる力を振るい、魔王軍の計画を打ち砕き、気づけば人々から「奇跡の英雄」と崇められていく。
これは、本人だけが自分を平凡だと思い込んでいる最強村人の物語。勘違いされながらも、人々を救い、仲間を増やしていく、ざまぁと笑いと胸熱が交差する異世界ファンタジー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる