顔面最強、戦力最弱男は今日も戦わず逃げ出したい〜容姿に全振りした僕が、なぜか最強扱いされています〜

小林一咲

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第8話 声は魔法より先に

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 海の匂いが、強かった。

 潮の香りに混じって、生臭い気配が漂っている。嫌な予感がする時の匂いだ。港町の人たちが「最近はずっとこうだ」と言っていたのを思い出す。漁に出られず、夜は沖が騒がしい。そんな話を聞いた時点で、ただ事ではないと思っていた。

 僕は海岸線から少し高い場所に設けられた指揮位置に立っていた。前方には砂浜、その先には灰色がかった海が広がっている。空は曇っているが、視界は悪くない。

 陣形はすでに整っていた。

 前線よりやや後方に魔法師団三百。一定間隔で魔力の波長をずらし、同時詠唱による干渉を防いでいる。さすがはイリナだ。細かい説明をされても、正直なところ僕には半分も理解できないが、少なくとも「無駄がない」ということだけは分かる。

 さらに前、波打ち際には獣人重装歩兵団五百。巨大な盾を構え、砂浜にしっかりと足を踏みしめている。アダライスが中央で腕を組み、静かに前を睨んでいた。

 完璧だと思った。

 少なくとも、僕の目にはそう見えた。

 敵影が現れたのは、最初は沖合だった。黒い点が、波の合間に浮かんでは消える。やがてそれが数を増し、はっきりとした形になる。

「来ます」

 誰かが短く告げた。

 イリナが杖を上げる。合図はそれだけだった。

 次の瞬間、空気が震えた。

 火球、氷槍、雷撃。属性の違う魔法が時間差で放たれ、海面と砂浜を同時に叩く。魔物の群れが悲鳴を上げる暇もなく、弾け飛んだ。

 距離は十分。魔法師団の射程の中だ。

 突破してくる個体がいると、獣人重装歩兵団が動く。重い盾で弾き、斧や大剣で薙ぎ払う。動きに無駄がない。撮り逃しはない。

 ――強い。

 率直にそう思った。

 これなら、問題ない。被害も最小限で済む。そう感じて、少しだけ肩の力が抜けた。

 だが、その感覚は長く続かなかった。

「……数が、減っていない?」

 後方で、魔法師団の誰かが呟いた。

 僕も気づいていた。倒している。確実に倒している。それなのに、海の向こうの黒点は減らない。それどころか、増えているように見えた。

 新たな群れが、さらにその後ろから現れる。

 イリナが眉をひそめた。

「補充速度が異常ね……」

 魔力の消費が、想定より早い。魔法師団の詠唱間隔が、わずかに短くなっているのが分かる。無理をしているわけではないが、長引けば確実に消耗する。

 獣人重装歩兵団も同じだ。今は余裕があるが、波のように押し寄せる敵を相手にし続ければ、集中力は削られていく。

 嫌な予感が、はっきりと形を持ち始めた。

 その時だった。

 海の動きが、おかしくなった。

 波が、止まった。

 正確には、引いた。さっきまで打ち寄せていた波が、不自然なほど静かに後退していく。砂浜が、広がる。

「……?」

 誰かが息を呑む音がした。

 次の瞬間、海面が盛り上がった。

 巨大な影が、水の下から浮かび上がる。触腕。一本ではない。何本も、太く、長いものが、ゆっくりと姿を現した。

「クラーケン……!」

 しかも、大きい。

 いや、大きすぎる。

 今まで相手にしていた魔物たちとは、存在の重みが違う。海そのものが、そいつに従っているように見えた。

「キングクラスだ……」

 誰かの声が、震えていた。

 理解した。

 今までの群れは、前座だ。本命は、最初からこれだった。

 前線に、わずかな揺らぎが生じた。

 魔法師団の詠唱が、一瞬だけ遅れる。獣人重装歩兵の一部が、無意識に足を引く。

 恐怖だ。

 理屈ではなく、感覚的なもの。勝てるかどうか以前に、「相手にしていい存在なのか」という迷いが、空気に混じる。

 まずい、と思った。

 命令を出すべきか? 撤退? 集中攻撃?
 どれも、頭では浮かぶ。でも、今この瞬間に必要なのは、そういう言葉じゃない気がした。

 僕は気づいた。

 この場にいる誰もが、僕を見ている。

 判断を仰いでいる、というより、安心を求めている目だった。

 なら。

 やるしかない。

 僕は一歩、前に出た。団長旗のすぐそば。足が少し震えているのが、自分でも分かる。

 声を出す。腹から。

「大丈夫だ!」

 自分でも驚くほど、はっきりとした声だった。

 魔法の詠唱じゃない。戦術的な指示でもない。ただの言葉だ。

「今まで通りでいい! ちゃんと、押さえられてる!」

 誰かの肩が、少しだけ下がるのが見えた。

「焦らなくていい! 無理しなくていい!」

 嘘は言っていない。事実だ。こちらの連携は崩れていない。敵が強いのは確かだが、まだ耐えられる。

「死なないで!」

 その言葉が、口から出た瞬間、場の空気が変わった。

 派手な変化じゃない。魔力が爆発したわけでも、光が走ったわけでもない。

 でも、確実に。

 呼吸が揃った。

 魔法師団の詠唱が安定する。獣人重装歩兵の足が、再び砂に深く食い込む。

 命中率が上がる。連携が滑らかになる。

 誰かが、僕を見て頷いた。

 イリナが、ちらりとこちらを見る。その目が、わずかに見開かれたのを、僕は見逃さなかった。

 アダライスが、牙を剥いて笑う。

「……面白えな」

 何が起きているのか、正直、分からない。

 僕はただ、声を出しただけだ。魔法も、スキルも、何も使っていない。そもそもそんなモノは持ち合わせていない。

 それでも、戦線は持ち直している。

 クラーケンが、触腕を振り上げる。海水が飛び散る。

 それを見て、僕は思った。

 怖い。

 当たり前だ。あんなもの、怖くないはずがない。

 でも。

 逃げたい、とは思わなかった。

 ここで下がったら、また誰かが前に出て、無理をする。それだけは、嫌だった。

「……頼む」

 小さく、誰にも聞こえない声で呟く。

 僕は戦えない。

 でも。

 みんなが、無事に帰れるなら。

 それだけでいい。

 クラーケンに向かって、魔法が集中する。獣人重装歩兵が、うねる触腕に突っ込んでいく。

 僕は、ただ立っていた。

 声を失わないように。

 それが、今の僕にできる唯一の戦い方だった。
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