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お正月

二日(ⅲ)

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 冬の日差しが白いレースカーテン越しに入ってきていた。お正月って昼間でも静かだ。そう思っていると、遠くからお寺の鐘の音が聞こえた。

「……彼は完璧で、迷ってた。完璧な事に挫折しかかってた。初めは気晴らしにお酒飲みに行ってたりしただけだったのよ。元々仲良かったし。……まあ、つまりそういう事。始まるつもりはなかったのにね、って言い訳か」

 言い繕った所で変わらない。結婚はまだだったとはいえ、事実上の不倫だ。
 董也は何も言わない。優しい顔のままだ。

「呆れたでしょ?」
「別に、それはない。たださ」
「ただ。何よ」
「距離が遠いとやっぱり圧倒的に不利だなあって」
「何の話」
「僕の話。近くにいたら、絶対、本気になんてさせなかったのにって思ってさ」
「何それ」

 私は少し笑ってしまった。

「呆れた?僕が自分の事ばっかりで」
「それはない」

 董也の問いに答えてから付け加えた。

「それに、本気だったかもわかんないし」
「でも、気持ちを止めれなかったんだろ? そんな負け試合、わかってて」
「本当だよね、なんでだろ」

 私は伸びをした。それから、座っているのも辛く感じて、そのままソファに横に倒れた。
 すぐ近くの董也の体に触れないように注意して。

「……好き、でいいよ。それでいいじゃん」

 董也の声が頭の上から降ってくる。優しくて柔らかい声。この声に逆らうのは難しい、昔から。

「……可哀想だと思っちゃったのよね」
「咲歩ちゃん、助けがちだから」
「違うよ」
 
 そう、違う。

「可哀想な彼といて、可哀想な自分が癒されてたのよ」

 そこには純粋さの代わりに抜け出せない甘さがあった。お互いそうだった。そして、先に抜け出したのは彼だった。私はどうしていいかわからず、ただただ怯えていた。

「……わかるよ」
「うそ、董也は絶対不倫とかしないじゃん」

 いつも誠実であろうとするし、間違ったことしないじゃない。

「そこじゃなくてさ」

 そう言って董也は抱えてたクッションを私の顔に被せた。

「本当に終われたなら、僕はおめでとうって言うよ。そんな見知らぬ完璧野郎より、咲歩ちゃんの方が大事だからさ」
「身贔屓甚だしいね」

 私はクッションの下から答える。涙が溢れそうだった。なんでまだ出てこようとするのかな。ウンザリするほど泣いたのに。

「それに僕にとっては悪くない結果だし」
「……最悪」 

 昔から変な所で自分勝手なんだよ、董也は。そして変な慰め方をする。

「……地獄に落ちればいいのに」
「ひどいな」
「あなたじゃない」

 私は少し笑いながら答える。

「私の話。呪いをかけてるの、自分に」

 そうすれば、楽だから。

「そいつ、婚約者とは?」
「……相手と別れて、私に結婚しようって」

 元々、結婚に迷ってた、君はきっかけにすぎないから気にしなくていいと、彼は言った。それは本当だったろう。でも。

「断ったけど」

 目を瞑ると、その時の彼の顔が今でも浮かぶ。いつもの、動じない体を装おうとするその下から、失望とそして何より悲しみが見えていた。

「……彼ね、婚約破棄してかなりもめたみたい。重役の娘さんだったから昇進コースからも外れてさ。彼女は彼に夢中だったから……。私は気分転換に髪を切って、そんで終わり」

 クッションを頭に載せたまま、ソファに顔を埋める。

「咲歩ちゃん」
「……誰も幸せにならなかった」

 私は唇を噛み締める。泣いちゃダメだ。……泣いたら、董也が私を慰めなくてはならなくなる。

「……呪われてなよ」

 クッション越しに頭に置かれた手が優しく感じる。

 董也は私の最初の呪い。優しいまま、ずっと、そこにある。

「でもさ、あれだよね。その婚約者から慰謝料とか請求されたら大変だね」

 急に董也が明るい声でいった。

「よくわかんないけど、多分だけど、私の事は彼女知らないみたい。二人で会ってた期間も短いし」

 その事が嬉しい訳ではないけれど、だからといってどうしようもない。

「でも、ほら、探偵とか使ったらわかるよ、きっと」
「そうだね、その時は……きちんとするよ」
「あ、ちなみに次の僕の役、探偵なんだ。当て馬じゃなくて」

 は? 何の話?

 急な話の展開に、私は上体を起こして董也に向かって座り直した。

「なんなの?」

 董也は両手で私の頬を包み込むと楽しそうに言った。

「いや、だからさ。咲歩ちゃんが慰謝料で困ったら代わりに払ってあげられるように仕事しなくちゃなって」

 そう言って親指でゴシゴシと私の涙の後をふく。

 なんなのそれ。

 私は手を払った。

「関係ないじゃん」
「関係あるし」
「なんで」
「咲歩ちゃんの事だから」

 そう言う董也の笑顔は明るくて困ってしまう。私の呪いをとかないでくれ。

「……関係ないよ、とあには」

 彼はいきなり私を引き寄せると抱きしめた。

「ちょ、ちょっと!」
「その呼び名、久しぶりに聞いた」

 一瞬なんの事? と思う。無意識に呼んでいた。でもああ、そうね、久しぶり。久しぶりに言っちゃった。
 幼稚園の頃、とうや、と上手く言えなくて、とーやがとーあ、そして、とあ、になって、ずっとそう呼んでいた。別れるまでだったかな。

「ちょっともう、いいから。仕事しなよ」

 私は董也を引き剥がしながら言う。

「そうだった。稼がないと」

 なんかね。

「おじさんの書斎借りていい?」
「どうぞ。でも埃っぽいかもよ、年末に掃除はしたけど」

 仕事で海外に行ってから10年近く、持ち主が使っていない部屋だ。
 大丈夫、と言って、董也は部屋を出ていった。
 私はそのままソファに再び横になる。

 なんだか疲れたな。ずっと疲れてる。
 でもきっと元気になるだろう、そのうち。

 クッションを枕にしながら、さっき頭に感じた手の感覚を思い出す。

 小さく、とあ、と言ってみる。
 こそばゆくて背中がムズムズした。

 うん、二度と言わない。
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