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冬空3.

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「そうですか、秘書課ですか。わかりました」

 佐藤は内線を切ると軽く息を吐いた。さて、どうしようか。鬼塚に早急にサインを欲しい書類があるのだが、秘書課に行ってて帰ってこないらしい。

 ま、こっちから行くか。

 佐藤は書類を持って立ち上がると、エレベーターホールへ向かう。
 
 秘書課なら四条課長もいるだろう。ついでに確認しておきたいことがあるから丁度いいし。
 以前のことだけど覚えているかな? あの人は覚えてなくても答えを出すだろうけど。
 実際、記憶喪失っていう方がむしろ疑わしいくらいだ。
 鬼塚さんも相変わらす無茶言うしなあ。笑顔で持って来るからなあ。自分の交渉力を、他人も当たり前に持っていると思っているのかな。

 そんなことを考えながら廊下を歩いていると、女性の言い合うような声がどこかから聞こえた。不思議に思って声がした方を覗いてみるが誰もいない。
 あれ? っと思っていると、すぐそばの資料室から声が漏れ聞こえてきた。

 正直、このまま立ち去ろうかなと思ったのだが、声に聞き覚えがある以上そういうわけにはいかないなあ、と、意を決して佐藤は資料室のドアを開ける。
 開けた瞬間、女性の怒った声が耳に飛び込んできた。

「はあ? あんたに何がわかるって言うのよ。笑わせないでよ、何にもできないお嬢さんのくせして。何にも知らないくせに」
「何もかも知らないってわけじゃないわ」

 こちらはもう少し抑えた声。よく知っている声だ。
 書架に隠れて姿は見えない。

「知ってるつもり、でしょお。大体、あいつを楽しませることなんて全然できないじゃん。いい加減飽きられてたわよ。一晩だけのその辺の女のほうがマシじゃん?」
「勝手な作り話しないで」
「なんで作り話? ほんっとお嬢さんはおっとりしてていいわあ。ま、認めないあたり、捨てられる女って感じだけど」

 うわ、きっつ、と佐藤が姿を探しながら思った時、バシッと平手打ちらしい音がひびいた。
 やばっと思った瞬間もう一度同じような、でも、もっと大きな音がする。

 やばいでしょ! 勅使川原さんどこ⁉︎

 部屋の最奥に二人はいた。

「何してるの! 仕事中だよ!」
「関係ないし」

 と、言ったのは美園だった。その前で一花が立っている。

「関係ないかもしれないけど! 喧嘩しちゃダメでしょ?」

 美園がバカにしたような視線を佐藤に向ける。佐藤は一瞬たじろいだ。

 そりゃ、ちょっと言い方変だったかもしれないけれど、それにしてもこの人の目力怖いよ!

「すいません、佐藤さん」

 一花がうなだれながら言う。

「うん、喧嘩はやめようね」

 分が悪いからね。

「ちょっと知ったような口聞くから、腹がたっただけよ。ヘンな日本語喋ってるところしか知らないくせしてさ。まあ、もう今さらいいんだけど。今さら関係ないし。あと、佐藤さん、だっけ。女の喧嘩に口挟まない方がいいわよ」

 僕だって口なんか挟みたくないよ。

 そう思う佐藤の横をすり抜けて、美園は部屋を出て行った。資料室の戸が閉まる音と同時に一花が座り込む。

「大丈夫? 勅使川原さん」
「はい、すみません。仕事中に…」

 そう言うと、下を向いてしまった。

「うん、まあ、なんていうか、あの人、怖いよね」

 一花は小さく笑った。

「あのさ、勅使川原さん。僕が口挟む事じゃないとは思うけど、もっとちゃんと怒って反論してもいい気がするよ? あ、喧嘩はダメなんだけど」

 佐藤はうなだれている一花を見て続けた。

「なんだか、けっこう言われていたようだったから」
「……そうですね。すみません、ご迷惑をお掛けしました」

 そう言って一花は立ち上がった。

 うわっ、この人、言ってること全然聞いてないよね。もちろん僕には関係のない事なんだから、いいのだけどさ。

 そう思う。でも、一花の頰を見ると赤くなっていて、そうは言ってもなあ、と思う。

「ちょっとだけここで待てる?」

 そう言って佐藤はいったん部屋を出ると、ハンカチを洗面所で濡らしてすぐに戻った。
 それを一花に、使ってないからきれいだから、と言って渡した。一花は驚いたようだったが、お礼の言葉とともに濡れたハンカチを受け取ると、頬に当てた。

「……腹は立つんですけど、言ってることは案外間違ってないなって思うんです。だから……」

 そう、一花がつぶやくように言った。
 佐藤は美園の言ってたことを思い返す。なんとなく、文脈はわかる。

「でも、そうかなあ。美園さんの言ってたことだって、所詮は一面だと思うけどなあ。本人じゃないしね。確認しようがないのがつらいよね」

 うん、と頷いた一花が一息遅れて驚いた視線を佐藤に向ける。佐藤は苦笑した。

「あれでしょ? 四条さんのことでしょ?」
「え、どうして⁈ 」
「美園さんが絡むとしたら他にないし、それに、課長と勅使川原さんって付き合ってるんだろうなとは思っていたんだ」
「隠せているつもりだったのに」
「うん、まあ、気づかれてはいないと思うけど。僕は会う機会多かったし」

 まだ訝しげな一花に佐藤は続けた。

「元々さ、鬼塚さんと三人でよく一緒にいるところを見かけていたんだけど、鬼塚さんつながりなんだろうなって思っていたんだよね。でも、いつだったかな。エレベーターで課長とすれ違った時があったんだよ。彼が降りてきて僕が乗る方だったんだけど、すれ違う時、なんていうか課長が楽しそうだったから、珍しいなと思ったら中に勅使川原さんが一人でいてさ。そしたらこっちは妙にふてくされてて」

 佐藤は思い出し笑いをする。

「それで、もしかしたらと思い始めてさ」
「佐藤さん、鋭すぎ……」
「いや、これって鋭いって話じゃないでしょ。たまたま目撃しただけで」

 一花が黙って首を振って下を向く。

「おかしいって思いましたよね? ……以前からの知り合いです。社内恋愛というわけではなくて……」

 その様子を見て佐藤は言った。

「いや、別に。びっくりはしたけど、正直言うと。でもさ、課長が何を思っていたかなんて僕にはわからないわけで、人それぞれあるんじゃないのかな」

 一花は下を向いたまま頷いた。

「……じゃあ、もう行くね。勅使川原さんはゆっくり戻りな。なにか言われたら僕から仕事頼まれたって言っていいから」

 謝罪とお礼の言葉を一花が言う。

「いいよ。あとさ、僕が口挟む事でもないけど、課長、君といる時ってなんとなく楽しそうに見えたよ。それに美園さんはあんなこと言ってたけど」

 佐藤は一呼吸置いて、もう一度自分の中で反芻して確認してから口にした。

「四条さんが間違うってことあるかな。他人がなんと言おうと気にしない人だよね? 僕はそれで仕事上で板挟みになったこともあるのに。自分の彼女のことだよ?」

 一花が佐藤に視線を動かして小さく笑った。

「ごめんなさい、佐藤主任」
「ほんとだよね。後からフォローはしてもらってるからいいけど。鬼塚さんといいさ、結構困った人たちだと思うよ」

 そうなのだ。事務的な作業を実行していく身にもなって欲しいんだよなあ。それでも、あの二人とよく関わるようになって、会社に来るのがずっと楽しくなったと感じる。
 
 佐藤は一花を残して資料室を後にすると、上階の秘書課へ向かった。
 
 四条課長の記憶は戻らないのだろうか。一花さんもかわいそうに。
 
 階段を使って上階に上がると、人の声が聞こえた。

 ……あれ? 鬼塚さんか?

 そう思って佐藤はオフィスではなく声のした方へ向かう。階段から続く廊下の奥、倉庫のある行き止まっているところの方だ。
 佐藤は角を曲がろうとして足を止めた。正確には鬼塚の声に足を止めさせられた。

「お前さ、今なんといった?」

 低い声。
 ちょっと、待てよ。鬼塚さん、怒ってるのか? なんだ?

 当事者でもないのに、佐藤は恐る恐る陰から覗き込む。
 鬼塚が壁に向かう形で立っている。その向かいにいるのは、四条だった。

 うっわ。なんなんだよ。

 四条は「別に」とか言ったようだった「あ?」とか言って鬼塚が睨みつけている。
 佐藤からはその横顔が見えるだけだったが、すぐ顔を引っ込めた。

 こっえ~。鬼塚さんガチ怖いよ。なんなんだよ。っていうか、あんな怖い人を目の前にして、なんで四条さんもあんなに余裕なんだ? おかしいだろ。

 鬼塚の陰からちらっと見えた四条は、微笑すら浮かべているように見えた。
 隠れている佐藤の耳に、壁を叩くような大きな音が届いた。

 ⁈

 佐藤はまたビクつきながら陰から覗き込む。すると、鬼塚の右腕が四条の顔のすぐ脇の壁に伸ばされていた。

 え? なに? 壁ドン? あるのは殺気だけど⁈
 なんだこれ。……コブラ対マングース? いや、違うな、うーんと、ベンガルトラ対ユキヒョウ? ……って待て、なに考えてる! 自分。それどころじゃあないだろ。
 鬼塚さんは怒りモードだし、四条さんは煽ってるかってくらい冷静だし。どうすんだよ。
 立ち去るか? どうする? ああ、頼むから、長身筋肉質同士で殴り合いとか始めてくれるなよ!

 と、鬼塚の手が壁から外され、その手が拳を作った。
 佐藤は考えるより早く声を上げて飛び出した。

「二人ともなにやっているんですか!!」

 鬼塚が振り返る。睨みつけてくる。佐藤は体が勝手にビクッとして止まるのを感じた。

「……なんだ、佐藤か」

 鬼塚が低い声で言う。

「なんだじゃないです。なにしてんですか!」
「べっつに」

 そう答えた鬼塚はすでにいつもの様子だった。

「なにが! まじ、ビビりますよ。大体、会社内で揉め事起こしたらあんた達といえど、お咎めなしとはいかないだろうが!」

 佐藤はドキドキして言い回しがおかしくなる。

「なんでもありません。ただの、コミュニケーションです」

 四条が微笑しながら言ったので、思わず睨みつけてしまう。

「本当です。指一本、お互いに触れていませんよ」

 触れてたらやばいだろう!

 だが、二人とも、本当に何にもなかったような顔を既にしていた。その事が逆に腹立たしい。

「怖い顔するなって。ところでお前こそこんなとこでなにしてんの?」

 そう言う鬼塚に向かって、佐藤は手にしていた書類を勢いよく差し出した。

「この前頼まれてた案件、相手側からオッケーとりました。気が変わらないうちに進めるので、さっさとサイン下さい」
「うわ、本当か。さすが、佐藤。仕事確実にこなしてくれるよな」

 そう嬉しそうに言いながら筆記具を探す鬼塚に、四条が自分のボールペンを差し出す。

 佐藤は内心でため息をついた。調子いいよなあ。でも、この人は嬉しい感情を波及させるんだよなあ、とも思う。

 鬼塚が筆記体でサインするのを見ながら佐藤は言った。

「まあ、いいんですけど。まったく、今日は何が起こってるのかと思いますよ。あっちもこっちも」
「あっちはどっちよ」

 鬼塚がボールペンを四条に返しながら聞く。

「美園さんと勅使川原さんです。喧嘩してるとこ出くわして、止めて来てみたらこっちも……」

 言い終わらないうちに四条が口を挟んだ。

「どこでですか?」
「え?」
「場所」
「下の資料室。でも、もういないかも……」

 四条は聞き終わらないうちに立ち去った。階段を駆け下りて行く音がする。
 佐藤は榛瑠の勢いに呆然としながら言った。

「……あの人は一体、誰の心配をしているんでしょうね」
「さあな」

 そう横で答えた鬼塚を見上げると、にたにた笑っている。
 そういえば喧嘩の原因はなんだったのかな。僕が改めて聞くことでもないけ……。

「あ、しまった。四条さんにも聞きたいことがあったんだった!」
「後にしとけよ」

 鬼塚が佐藤の肩をたたいた。
 
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