9 / 12
誰かの日常の話
しおり
しおりを挟む
毎日通る通学路にある、色褪せたベンチと錆びた遊具しかない小さな公園。見かけるのは、よく本を読んでいる女の人と、犬の散歩の休憩をしている老人くらいで、人気はない。そう遠くない場所に、新しくて大きな公園ができたのも、理由の一つだろう。
でも私はこの公園が好きだ。悲しい時や辛い時、軋んだ音を出してベンチに腰掛けると、なんだかほっとするのだ。よくこの公園に来ては、膝の上で課題を進めたり、うたた寝したりしている。静かでのどかで、落ち着ける。
両親は所謂放任主義というやつなのか、私が遅くまで家に帰らなくてもあまり怒らない。この前すっかり爆睡してしまい、何も連絡もせず二十一時頃に帰った時も、
「おかえり、夜道は気をつけなさいね。ご飯温めて食べなさい。お風呂入ったらガス消しておいて」
と、母に言われただけだった。父は少し不機嫌そうな顔をしてお酒を飲んでいたが、何も言ってこなかった。
学校では、特に仲のいい友人がいる訳でもなく、話しかけられれば応じる、分からない所があれば近くの誰かに聞く、という省エネルギーな学園生活を送っていた。一度、隣のクラスだという男子生徒に告白を受けたことがある。
「いつもクールな宮部さんが好きです」
泣きそうな顔で照れながらそう言った。そんな彼の名前は忘れてしまったが、とても真面目でいい子そうに見えた。
「私よりも君にはお似合いの子がいると思うよ。ごめんね」
本当はこの平凡な生活を続けていたかった、という思いもあった。そんな罪悪感からか、彼には幸せになって欲しい、と思っている。
私が入っている部活は書道部だ。少し字が上手く書ける、という理由だけで入部を決意した。文字を書くという行為を、延々と繰り返すこの部活は、案外自分に合っている。無断で休んでも許される、ゆるい部活だというのもあるのだろう。
今日は何を書こうか、と考えながら部室の前に来た時、中から大きな声が聞こえた。入室するのを躊躇う。通り過ぎていく野球部員が、私のことを怪訝そうに見た。そんなことはどうでもいい。普段はお淑やかな部活なのに、一体何があったのだろうか。
「宮部はまだ来ないのか!」
例の大きな声に突然私の苗字を呼ばれ、心臓がばくん、と跳ねた。怒鳴り声だが、これは副部長の声だろう。何が何だかわからず、その場で硬直する。
「副部長、もう少し待ってみましょう。今日学校には来ていましたし、いつも通り少し遅れて来ると思いますよ」
「そうですよ!宮部先輩いつもマイペースな人じゃないですか」
ほかの部員が副部長をなだめている隙に、そっと昇降口方面へ向かう。私は何かしてしまっただろうか。分からない。何もしていないはずだ。ただ黙っていつも字を書いていただけだ。
足が震えている。気がつくと、私は学校を飛び出して例の公園に来ていた。よく見かける読書家の女の人がいた。女性の隣のベンチに座ると、大粒の涙が頬を伝った。
私は悪いことをしたのだろうか。知らず知らずのうちに、副部長を怒らせる真似をしたのだろうか。怖い。辛い。苦しい。そんな感情が溢れては、スカートの上にしみを作っていく。
「大丈夫?」
潤んだ視界が若草色に変わった。制服の袖で涙を拭うと、若草色が大きく揺れた。
「あらあら、これで拭きなさい」
その若草色の正体は、上品なレースのついたハンカチだった。目線を上にあげると、そこにはあの読書家の女性がいた。彼女はハンカチで優しく涙を拭いてくれた。
「眠り姫ちゃんが泣いてるとこ、初めて見たからびっくりしちゃった」
「ね、眠り姫……?」
「よくあなたのこと、ここで見かけるけど、よく寝てるんだもの。すやすやと可愛らしい寝顔でね」
彼女は私の顔を見てそう言い、くすすっと笑った。途端に顔に熱がこもる。今の私の顔は熟したトマトのように真っ赤だろう。
「何があったの、眠り姫ちゃん」
真剣な眼差しで彼女はそう言った。綺麗な瞳。いや、それだけじゃない。彼女はきっと誰が見ても美人だ。白い肌、優しい目、可愛らしい唇、整った鼻、ナチュラルメイク。いつも見かけていたこの人は、こんなにも美しかったのか、と思うほど。
「眠り姫じゃありません……宮部です」
「みやべ、じゃなくて、下の名前を教えてよ」
「宮部、実希。実りと希望で、みきです」
空中に漢字を書く動作をした美女は、二度頷いてからこちらに振り返り、
「実希ちゃん!可愛いわ!」
と笑った。美しすぎる上に笑うと可愛すぎる。なんて人なんだろう。
「あ、あなたの名前はなんですか」
「雪原鈴華、雪の原っぱに鈴の華。華は難しいほうね」
ゆきはらすずか。雪原鈴華。名前もなんだか綺麗。実希なんて木の幹みたいで、少し霞んで感じる。
「さて実希ちゃん、なんで泣いてたの?」
本来なら知らない人となんか話さないし、ましてやこんな悩みなんて打ち明けない。しかし、彼女の前では、自然と口から零れていくように話してしまった。
「なるほどね。でもそれ、実希ちゃんの勘違いかもしれないわよ?」
「勘違い、ですか……?」
疑問のクエスチョンマークが頭に浮かんだ。
「何か大切なことを話したくて、実希ちゃんのことをずっと待っていたのかもしれないわ。どうしても早く知らせたいのに、実希ちゃんがなかなか来ないから苛立った、とかね。その副部長さんは三年生?」
「はい、そうですけど……」
「尚更ね。きっと受験シーズンで苛立ちやすくなってるのよ」
そう言われてみれば、そうかもしれない。私だってやましいことはないのだ。
「鈴華さんすごいです。でも、私に急いで伝えたいことって何でしょう」
考えてみてもわからない。いや、そうじゃない。いきなり伝えなきゃいけないことができたのだろう。だとしたら今すぐにでも学校に戻らなくては。
「ふふ、行ってらっしゃい、実希ちゃん」
私の決意した顔を見て彼女はにこっと笑った。こくん、と大きく頷き、見慣れた通学路を学校に向けて走った。
部室の前に到着し、息を整えて中の様子を窺う。何も聞こえないが、人がいる気配はする。半紙が擦れる音、墨をする音、筆に墨汁をつける音。もう少し気をつければ、息遣いまで聞こえてきそうだ。
そっとドアに手を添える。深呼吸をして、普段通りを装いドアを開けた。
「こんにちは」
部員が全員私を見た。そして、一斉にあたふたと慌て始めた。
「宮部さん来ちゃった!」
「今日はもう来ないと思ったのに」
ぼそぼそとした言葉と共に。やっぱり私が何かいけないことを?
「あの……」
「宮部!呼ぶまで部室の外で待ってて!」
副部長がそう言った。部長は倉庫の方に走っていく。仕方なく外に出てドアを閉めた。いい気はしないが、待っている間に考えなくては。書道部員たちが自分に何をするつもりなのか。それとも、鈴華さんの言った通りならば、何を伝えるつもりなのか。
「宮部!もういいよ!」
十分くらい経った後だろうか。そんな声に答えるように、二度目の深呼吸をして、ドアを開ける。
「ハッピーバースデー!宮部実希先輩!」
後輩から一斉に祝いの言葉が溢れ出た。刹那、先輩たちがクラッカーを鳴らす。ぱんぱあん、と跳ねるような音が響いた。
「明後日の日曜日、宮部さんの誕生日だから、今日どうしてもお祝いしたくて」
部長が笑みを浮かべてそう口にした。同級生が白い箱を運んでくる。突然の出来事に訳が分からなくなり、困惑した。
「開けてみて」
その言葉に従い箱を開けると、地元で有名なケーキ屋さんの、一番人気があるモンブランが入っていた。頂点に飾られた栗がきらきらと光を反射している。
「わぁ……」
「先生に見つかると厄介だから、食べて食べて!」
「ありがとうございます、いただきます」
プラスチックの透明なスプーンを、艶のある山の中腹に差し込む。内側の白いクリームが露わになる。口に入れると、栗の優しい甘さとクリームのこってりした甘さが口の中に広がる。
「……美味しい」
ぽたり。墨の匂いがする机の上に、目から零れた感謝の気持ちが落ちた。
「ど、どうしたの?」
誰かが発した言葉に、咀嚼したケーキを飲み込んでから応答する。
「すみません。嬉しくて、びっくりしちゃって。誕生日、誰かに覚えてもらえてるなんて、思ってもみなくて」
話しているあいだにも、涙がまた流れていく。
「ありがとうございます、本当に」
その日私は、初めて部活で笑顔を見せた気がした。
六時になって部活の時間が終わり、私は急ぎ足で公園へと向かった。鈴華さんにお礼を言いたかった。
しかし、彼女はもうそこにはいなかった。あったのは、あの若草色のハンカチだけ。その中に本のしおりが挟んであった。しおりには、
「おめでとう」
と書かれていた。
家に帰ってから両親に、
「あのさ、雪原鈴華さんって人、近所に住んでると思うんだけど、知らないかな」
と聞いてみた。どうしても感謝の気持ちを伝えたかった。その言葉を聞いた母は、急に真剣な眼差しになり、洗い物をしていた手を止めた。
「お前、どこでその名前を聞いたんだ」
いつも無口な父も反応した。有名な人なのだろうか。何故か嫌な予感がした。
「今日、その人に悩みを聞いてもらって、助けてもらったの。でもお礼が言えてなくて」
今日見た彼女のことを思い出しながらそう言った。両親は顔を見合わせ、母が泣きそうな顔になりながらこう言った。
「雪原鈴華さんは、三年前に通り魔に襲われて亡くなっているのよ」
と。
それから私はハンカチや本のしおりを見せて、細かく説明した。母の言った言葉が理解出来なかった。しかし父がパソコンで調べた事件の記事と、その写真を見て、私は絶句してしまった。
平成××年の五月二十八日、当時二十二歳の雪原鈴華さんが、帰宅路で通り魔に襲われ死亡した。果物ナイフで滅多刺しにされていたという。犯人はすぐに捕まった。名前は××××、当時四十八歳で、会社にリストラされて自暴自棄になっていたそうだ。無性にイライラし、誰でもいいから殺したかった、と供述している。
そんな短い記事に添えられた写真は二枚。一枚は人を殺したとは到底思えないほど、穏やかな笑顔の犯人。もう一枚は、放課後に助けてくれた、あの美しく可憐な女性。正しく鈴華さんだった。
彼女はあの公園で本を読むのが好きだったらしい。将来の夢は小説家だったそうだ。これは後日、私が雪原家に行って聞いた話だ。
「ありがとうね、実希さん」
鈴華さんのお母さんは、彼女によく似た笑顔で迎えてくれた。あの公園での出来事を話すと、涙をぼろぼろと流した。
「あの子は昔から本当に優しい子だったのよ」
仏壇の前に座り、彼女の遺影を目の前にする。楽しそうに笑う彼女は、もうこの世にいない。
ちーん。
鈴棒でお鈴を鳴らす。線香の匂いが充満する中、目を閉じて手を合わせ、念じる。
鈴華さん、私を助けてくれてありがとうございました。本当に嬉しかったです。
目を開け、鈴華さんのお母さんに、ハンカチとしおりを渡す。
「あの日、鈴華さんから頂いたものです。お返し致します」
「あら……いいのよ、これはあなたが持っていて。大切にしてね」
ハンカチに包まれたしおりを改めて見た時、しおりに書かれた文字は、
「ありがとう」
に変わっていた。
でも私はこの公園が好きだ。悲しい時や辛い時、軋んだ音を出してベンチに腰掛けると、なんだかほっとするのだ。よくこの公園に来ては、膝の上で課題を進めたり、うたた寝したりしている。静かでのどかで、落ち着ける。
両親は所謂放任主義というやつなのか、私が遅くまで家に帰らなくてもあまり怒らない。この前すっかり爆睡してしまい、何も連絡もせず二十一時頃に帰った時も、
「おかえり、夜道は気をつけなさいね。ご飯温めて食べなさい。お風呂入ったらガス消しておいて」
と、母に言われただけだった。父は少し不機嫌そうな顔をしてお酒を飲んでいたが、何も言ってこなかった。
学校では、特に仲のいい友人がいる訳でもなく、話しかけられれば応じる、分からない所があれば近くの誰かに聞く、という省エネルギーな学園生活を送っていた。一度、隣のクラスだという男子生徒に告白を受けたことがある。
「いつもクールな宮部さんが好きです」
泣きそうな顔で照れながらそう言った。そんな彼の名前は忘れてしまったが、とても真面目でいい子そうに見えた。
「私よりも君にはお似合いの子がいると思うよ。ごめんね」
本当はこの平凡な生活を続けていたかった、という思いもあった。そんな罪悪感からか、彼には幸せになって欲しい、と思っている。
私が入っている部活は書道部だ。少し字が上手く書ける、という理由だけで入部を決意した。文字を書くという行為を、延々と繰り返すこの部活は、案外自分に合っている。無断で休んでも許される、ゆるい部活だというのもあるのだろう。
今日は何を書こうか、と考えながら部室の前に来た時、中から大きな声が聞こえた。入室するのを躊躇う。通り過ぎていく野球部員が、私のことを怪訝そうに見た。そんなことはどうでもいい。普段はお淑やかな部活なのに、一体何があったのだろうか。
「宮部はまだ来ないのか!」
例の大きな声に突然私の苗字を呼ばれ、心臓がばくん、と跳ねた。怒鳴り声だが、これは副部長の声だろう。何が何だかわからず、その場で硬直する。
「副部長、もう少し待ってみましょう。今日学校には来ていましたし、いつも通り少し遅れて来ると思いますよ」
「そうですよ!宮部先輩いつもマイペースな人じゃないですか」
ほかの部員が副部長をなだめている隙に、そっと昇降口方面へ向かう。私は何かしてしまっただろうか。分からない。何もしていないはずだ。ただ黙っていつも字を書いていただけだ。
足が震えている。気がつくと、私は学校を飛び出して例の公園に来ていた。よく見かける読書家の女の人がいた。女性の隣のベンチに座ると、大粒の涙が頬を伝った。
私は悪いことをしたのだろうか。知らず知らずのうちに、副部長を怒らせる真似をしたのだろうか。怖い。辛い。苦しい。そんな感情が溢れては、スカートの上にしみを作っていく。
「大丈夫?」
潤んだ視界が若草色に変わった。制服の袖で涙を拭うと、若草色が大きく揺れた。
「あらあら、これで拭きなさい」
その若草色の正体は、上品なレースのついたハンカチだった。目線を上にあげると、そこにはあの読書家の女性がいた。彼女はハンカチで優しく涙を拭いてくれた。
「眠り姫ちゃんが泣いてるとこ、初めて見たからびっくりしちゃった」
「ね、眠り姫……?」
「よくあなたのこと、ここで見かけるけど、よく寝てるんだもの。すやすやと可愛らしい寝顔でね」
彼女は私の顔を見てそう言い、くすすっと笑った。途端に顔に熱がこもる。今の私の顔は熟したトマトのように真っ赤だろう。
「何があったの、眠り姫ちゃん」
真剣な眼差しで彼女はそう言った。綺麗な瞳。いや、それだけじゃない。彼女はきっと誰が見ても美人だ。白い肌、優しい目、可愛らしい唇、整った鼻、ナチュラルメイク。いつも見かけていたこの人は、こんなにも美しかったのか、と思うほど。
「眠り姫じゃありません……宮部です」
「みやべ、じゃなくて、下の名前を教えてよ」
「宮部、実希。実りと希望で、みきです」
空中に漢字を書く動作をした美女は、二度頷いてからこちらに振り返り、
「実希ちゃん!可愛いわ!」
と笑った。美しすぎる上に笑うと可愛すぎる。なんて人なんだろう。
「あ、あなたの名前はなんですか」
「雪原鈴華、雪の原っぱに鈴の華。華は難しいほうね」
ゆきはらすずか。雪原鈴華。名前もなんだか綺麗。実希なんて木の幹みたいで、少し霞んで感じる。
「さて実希ちゃん、なんで泣いてたの?」
本来なら知らない人となんか話さないし、ましてやこんな悩みなんて打ち明けない。しかし、彼女の前では、自然と口から零れていくように話してしまった。
「なるほどね。でもそれ、実希ちゃんの勘違いかもしれないわよ?」
「勘違い、ですか……?」
疑問のクエスチョンマークが頭に浮かんだ。
「何か大切なことを話したくて、実希ちゃんのことをずっと待っていたのかもしれないわ。どうしても早く知らせたいのに、実希ちゃんがなかなか来ないから苛立った、とかね。その副部長さんは三年生?」
「はい、そうですけど……」
「尚更ね。きっと受験シーズンで苛立ちやすくなってるのよ」
そう言われてみれば、そうかもしれない。私だってやましいことはないのだ。
「鈴華さんすごいです。でも、私に急いで伝えたいことって何でしょう」
考えてみてもわからない。いや、そうじゃない。いきなり伝えなきゃいけないことができたのだろう。だとしたら今すぐにでも学校に戻らなくては。
「ふふ、行ってらっしゃい、実希ちゃん」
私の決意した顔を見て彼女はにこっと笑った。こくん、と大きく頷き、見慣れた通学路を学校に向けて走った。
部室の前に到着し、息を整えて中の様子を窺う。何も聞こえないが、人がいる気配はする。半紙が擦れる音、墨をする音、筆に墨汁をつける音。もう少し気をつければ、息遣いまで聞こえてきそうだ。
そっとドアに手を添える。深呼吸をして、普段通りを装いドアを開けた。
「こんにちは」
部員が全員私を見た。そして、一斉にあたふたと慌て始めた。
「宮部さん来ちゃった!」
「今日はもう来ないと思ったのに」
ぼそぼそとした言葉と共に。やっぱり私が何かいけないことを?
「あの……」
「宮部!呼ぶまで部室の外で待ってて!」
副部長がそう言った。部長は倉庫の方に走っていく。仕方なく外に出てドアを閉めた。いい気はしないが、待っている間に考えなくては。書道部員たちが自分に何をするつもりなのか。それとも、鈴華さんの言った通りならば、何を伝えるつもりなのか。
「宮部!もういいよ!」
十分くらい経った後だろうか。そんな声に答えるように、二度目の深呼吸をして、ドアを開ける。
「ハッピーバースデー!宮部実希先輩!」
後輩から一斉に祝いの言葉が溢れ出た。刹那、先輩たちがクラッカーを鳴らす。ぱんぱあん、と跳ねるような音が響いた。
「明後日の日曜日、宮部さんの誕生日だから、今日どうしてもお祝いしたくて」
部長が笑みを浮かべてそう口にした。同級生が白い箱を運んでくる。突然の出来事に訳が分からなくなり、困惑した。
「開けてみて」
その言葉に従い箱を開けると、地元で有名なケーキ屋さんの、一番人気があるモンブランが入っていた。頂点に飾られた栗がきらきらと光を反射している。
「わぁ……」
「先生に見つかると厄介だから、食べて食べて!」
「ありがとうございます、いただきます」
プラスチックの透明なスプーンを、艶のある山の中腹に差し込む。内側の白いクリームが露わになる。口に入れると、栗の優しい甘さとクリームのこってりした甘さが口の中に広がる。
「……美味しい」
ぽたり。墨の匂いがする机の上に、目から零れた感謝の気持ちが落ちた。
「ど、どうしたの?」
誰かが発した言葉に、咀嚼したケーキを飲み込んでから応答する。
「すみません。嬉しくて、びっくりしちゃって。誕生日、誰かに覚えてもらえてるなんて、思ってもみなくて」
話しているあいだにも、涙がまた流れていく。
「ありがとうございます、本当に」
その日私は、初めて部活で笑顔を見せた気がした。
六時になって部活の時間が終わり、私は急ぎ足で公園へと向かった。鈴華さんにお礼を言いたかった。
しかし、彼女はもうそこにはいなかった。あったのは、あの若草色のハンカチだけ。その中に本のしおりが挟んであった。しおりには、
「おめでとう」
と書かれていた。
家に帰ってから両親に、
「あのさ、雪原鈴華さんって人、近所に住んでると思うんだけど、知らないかな」
と聞いてみた。どうしても感謝の気持ちを伝えたかった。その言葉を聞いた母は、急に真剣な眼差しになり、洗い物をしていた手を止めた。
「お前、どこでその名前を聞いたんだ」
いつも無口な父も反応した。有名な人なのだろうか。何故か嫌な予感がした。
「今日、その人に悩みを聞いてもらって、助けてもらったの。でもお礼が言えてなくて」
今日見た彼女のことを思い出しながらそう言った。両親は顔を見合わせ、母が泣きそうな顔になりながらこう言った。
「雪原鈴華さんは、三年前に通り魔に襲われて亡くなっているのよ」
と。
それから私はハンカチや本のしおりを見せて、細かく説明した。母の言った言葉が理解出来なかった。しかし父がパソコンで調べた事件の記事と、その写真を見て、私は絶句してしまった。
平成××年の五月二十八日、当時二十二歳の雪原鈴華さんが、帰宅路で通り魔に襲われ死亡した。果物ナイフで滅多刺しにされていたという。犯人はすぐに捕まった。名前は××××、当時四十八歳で、会社にリストラされて自暴自棄になっていたそうだ。無性にイライラし、誰でもいいから殺したかった、と供述している。
そんな短い記事に添えられた写真は二枚。一枚は人を殺したとは到底思えないほど、穏やかな笑顔の犯人。もう一枚は、放課後に助けてくれた、あの美しく可憐な女性。正しく鈴華さんだった。
彼女はあの公園で本を読むのが好きだったらしい。将来の夢は小説家だったそうだ。これは後日、私が雪原家に行って聞いた話だ。
「ありがとうね、実希さん」
鈴華さんのお母さんは、彼女によく似た笑顔で迎えてくれた。あの公園での出来事を話すと、涙をぼろぼろと流した。
「あの子は昔から本当に優しい子だったのよ」
仏壇の前に座り、彼女の遺影を目の前にする。楽しそうに笑う彼女は、もうこの世にいない。
ちーん。
鈴棒でお鈴を鳴らす。線香の匂いが充満する中、目を閉じて手を合わせ、念じる。
鈴華さん、私を助けてくれてありがとうございました。本当に嬉しかったです。
目を開け、鈴華さんのお母さんに、ハンカチとしおりを渡す。
「あの日、鈴華さんから頂いたものです。お返し致します」
「あら……いいのよ、これはあなたが持っていて。大切にしてね」
ハンカチに包まれたしおりを改めて見た時、しおりに書かれた文字は、
「ありがとう」
に変わっていた。
0
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…
しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。
高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。
数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。
そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…
BL 男達の性事情
蔵屋
BL
漁師の仕事は、海や川で魚介類を獲ることである。
漁獲だけでなく、養殖業に携わる漁師もいる。
漁師の仕事は多岐にわたる。
例えば漁船の操縦や漁具の準備や漁獲物の処理等。
陸上での魚の選別や船や漁具の手入れなど、
多彩だ。
漁師の日常は毎日漁に出て魚介類を獲るのが主な業務だ。
漁獲とは海や川で魚介類を獲ること。
養殖の場合は魚介類を育ててから出荷する養殖業もある。
陸上作業の場合は獲った魚の選別、船や漁具の手入れを行うことだ。
漁業の種類と言われる仕事がある。
漁師の仕事だ。
仕事の内容は漁を行う場所や方法によって多様である。
沿岸漁業と言われる比較的に浜から近い漁場で行われ、日帰りが基本。
日本の漁師の多くがこの形態なのだ。
沖合(近海)漁業という仕事もある。
沿岸漁業よりも遠い漁場で行われる。
遠洋漁業は数ヶ月以上漁船で生活することになる。
内水面漁業というのは川や湖で行われる漁業のことだ。
漁師の働き方は、さまざま。
漁業の種類や狙う魚によって異なるのだ。
出漁時間は早朝や深夜に出漁し、市場が開くまでに港に戻り魚の選別を終えるという仕事が日常である。
休日でも釣りをしたり、漁具の手入れをしたりと、海を愛する男達が多い。
個人事業主になれば漁船や漁具を自分で用意し、漁業権などの資格も必要になってくる。
漁師には、豊富な知識と経験が必要だ。
専門知識は魚類の生態や漁場に関する知識、漁法の技術と言えるだろう。
資格は小型船舶操縦士免許、海上特殊無線技士免許、潜水士免許などの資格があれば役に立つ。
漁師の仕事は、自然を相手にする厳しさもあるが大きなやりがいがある。
食の提供は人々の毎日の食卓に新鮮な海の幸を届ける重要な役割を担っているのだ。
地域との連携も必要である。
沿岸漁業では地域社会との結びつきが強く、地元のイベントにも関わってくる。
この物語の主人公は極楽翔太。18歳。
翔太は来年4月から地元で漁師となり働くことが決まっている。
もう一人の主人公は木下英二。28歳。
地元で料理旅館を経営するオーナー。
翔太がアルバイトしている地元のガソリンスタンドで英二と偶然あったのだ。
この物語の始まりである。
この物語はフィクションです。
この物語に出てくる団体名や個人名など同じであってもまったく関係ありません。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる