8 / 12
誰かの日常の話
協力者
しおりを挟む
「間もなく三番線に列車が通過いたします……危ないですので、黄色い線の内側に……」
無機質なアナウンスが、人々で溢れている駅のホームに、ノイズにかき消されながらもその音を響かせていた。聞き慣れたその注意喚起に、人々は耳を傾けない。
ホームに、一人の少女がふらふらと歩いてきた。その眼は、無。少女は有名な進学校の制服を身につけ、長めのスカートをゆらゆらと揺らしている。黄色い線を悠々と超えていく彼女に、誰も気づいていない。その身体は、左方から来る減速しない列車の前に吸い込まれるように……。
「諦めないでください」
少女の手を背の高い男がしっかりと掴んだ。刹那、列車が轟音とともに目の前を通過していく。少女は顔を伏せ、静かに涙を落とす。
「死にたかったんです……邪魔しないでください」
少女は手を振り解こうと抵抗したが、男の手はさらに力を増す。怪訝な眼を向けられた男は、困ったように、少女にこう言った。
「どうせ死ぬなら、最期に、私の手伝いをして頂けませんか?」
少女が男に連れてこられたのは、まだ築年数が少ないように見える、綺麗なアパートだった。男は二階に上り、角部屋の鍵を開ける。
「さあ、中に入って」
少女は一瞬躊躇ったが、男の紳士的な対応に負けたのか、渋々中に入った。至って普通の、男性の一人暮らしの部屋。それが第一印象であった。
「いきなり連れてきてすみません。私は黒田と申します」
黒田はマグカップに温かいココアを入れ、少女に差し出した。甘い香りが漂うそれを見つめながら、少女はか細い声で言葉を紡ぐ。
「私は……雨野愉良といいます……」
心なしかその声は震えているようだ。黒田は優しい声で語りかけた。
「もし良ければ……なぜ雨野さんが命を絶とうとしていたのか、教えていただけませんか」
彼女がスカートをぐっと握ると、規則正しく並んだひだがくしゃりと歪んだ。口を開けて閉じ、また開けると、黒田の眼を見て、ぽつりぽつりと話し始める。
「私は……父を、一年前に亡くしました。それから母は、狂ったように私に暴力を振るうようになりました。試験の点数が悪くなると、すぐ大声で怒鳴られ、殴りつけられました」
彼女のスカートに、じわり、じわりと広がりながら、悲しい水玉模様ができていく。彼女にとって母親は、絶対に解けない、固い主従関係のようなもので縛られた存在だった。黒田はただ黙って、彼女の紡ぐ言葉を待つ。
「丁度その頃から、私は学校でいじめを受けるようになりました。その理由は……私が、学校でも人気がある男子生徒に告白され、付き合い始めたからでした。最初は優しかった彼も、面倒事には巻き込まれたくなかったようで……気づいた時にはもう、連絡が取れませんでした」
黒田がそっと紺色のハンカチを差し出す。彼女はそれを受け取り、眼に直接押し当て、静かに涙を拭き取る。
「彼も利口です。私と、やることは全てやりましたから。……皮肉ですね」
嘲るように彼女は言うが、涙は一向に止まろうとしない。
「お辛かったですね」
黒田がそう言うと、彼女はぼろぼろと大きな涙を落とし、声をあげて泣いた。黒田は彼女の頭を優しく撫でる。やがて涙が止まると、赤くなった目を黒田に向けて、深々とお辞儀をし、感謝の意を示した。
「ありがとう、ございます」
鼻水を啜りながら彼女はそう言った。黒田はその言葉を聞くと、どういたしましてと言わんばかりに、彼女にほほ笑みかけた。
「雨野さん……私の手伝いの件なのですが」
黒田がぼそぼそとそう言うと、彼女は口に含んだココアをこくっと飲み干して眼を向けた。
「貴女の自殺を止めておいて、頼めることではないと思います……」
黒田の目線が彼女から離れる。どうやら、この言葉のあとに続く言葉を、口に出していいか迷っているようだ。
「私は……黒田さんの、力になりたいです」
彼女のその声は、黒田の背中を押したかのように見えた。
「では手伝ってください……私の、自殺を」
黒田が押し入れを開くと、いくつもの練炭が顔を見せた。押入れの中は、半透明な青色のビニールが張り巡らされている。彼女は音を立てて唾液を飲み込んだ。
「医師の友人に頼んで、特別に強い効能がある睡眠薬を売ってもらいました」
黒田は覇気のない笑顔でそう言った。彼女の心の底には、黒田に対する小さな恐怖心が芽生えつつあった。
「雨野さんは、僕が押入れに入ったら、家の鍵を外から閉めて、その鍵をどこかに捨ててほしいんです」
かちゃっと、装飾品が全く付いていない鍵が机の上に置かれた。その些細な金属音にも、彼女はびくっと身体を震わせてしまう。
「雨野さん、嫌なら断っていただいていいのですよ……」
恐れる彼女を見て、黒田はそう声をかけた。彼女は弾かれたように背筋を伸ばす。美しい艶の髪がかさりと揺れた。
「一つ、質問をしてもいいですか」
「ええ、もちろんです」
彼女は一度、ゆっくりと呼吸をすると、黒田に問いかけた。
「なぜ、鍵を内側から自分で閉めないんですか」
「……ではこちらに来てください」
黒田は玄関に歩いて行くと、彼女に向かって手招きした。彼女がドアノブを見る……閉めるためのつまみがない。正確には、つまみがねじ取られたようになり、鍵がかけられないようになっていた。
「ここに引っ越してきた時からこうなっています。内側から鍵がかけられません」
「そうだったんですね」
「幸いドアのチェーンはありますので良いのですが、もし誰かが開けてしまって、一酸化炭素が外に漏れ出したら……近隣住民の方々に迷惑をかけてしまいます……」
自殺をする時点でかなり迷惑をかけるはずなのに、この人はそんなことを気にするんだな、と彼女は思った。きっと心が優しい人なのだろう。錆びた匂いがする銀色の鍵を握りしめると、真っ直ぐな瞳で、はっきりとした口調で彼女はこう言った。
「黒田さん、私に任せてください」
黒田が自殺をするのは今日の夜中、丑三つ時の間と決まった。彼女はその間に、どこに鍵を捨てるべきか考えなくてはならない。周辺の地図を見ながら、赤ペンを片手にチェックマークや丸印をつけている。
「雨野さんは、今日家に帰らなくて良いのですか?」
「はい、死ぬつもりで置き手紙を書いてきましたので」
飄々と答えた彼女の眼は、やる気で満ちている……本気そのものであった。
「……頼もしいです」
黒田は苦笑を交えた不思議な笑みで彼女を見た。しかし彼女はその笑みに気づかない様子で、依然として赤ペンを地図に走らせていた。
「この川に流してもらおうかな……」
彼女は独り言をぼそっと呟いた。どうやら鍵を川に捨てる計画を立てたらしい。黒田も彼女のやる気を見習うかのように、七輪を黙々と用意している。時間は刻々と過ぎていき、気づけば西日が部屋に差し込んでいた。
「雨野さん、夕飯は何に致しましょうか」
黒田がそう聞いた直後、彼女の胃が収縮し情けなく音を立てた。彼女は顔を真っ赤に染め上げ、お腹をそっと抑える。二度目の音が鳴り響き、黒田は我慢出来ずにくすっと笑ってしまった。
「恥ずかしいです……」
「笑ってしまいすみません。でも仕方ないですよ、お昼も食べてませんからね。」
優しい微笑みで黒田はそう言い、出前を取りましょうか、とメニューを開いて彼女に渡した。
「黒田さんは最期の晩餐なんですよ。自分で選んでください」
彼女は遠慮がちにそう口にした。黒田はその言葉に素直に従い、チーズたっぷりのピザを選ぶ。彼女はピザという気分ではなかったが、黒田に合わせてメニューを開く。鮮やかな色のピザがずらりと並んでいるのを見ると、つい唾液が滲み出てきた。彼女はベーコンやサラミといった肉系のピザを選んだ。
ピザの配達を待っている間、彼女は黒田にまた一つ質問をした。それは、彼の自殺理由についてである。
「会社の借金を抱え、妻と子に見捨てられて離婚しました。もう生きる意味はありません。借金もとても返済できる額ではありませんし」
悲しそうに俯いた黒田は、今にもその優しい眼から涙が溢れ出そうに見えた。彼女が先程彼に貰ったハンカチを差し出そうとした時、ドアのベルが鳴り響いた。
部屋中に香ばしい匂いが漂っている。しかしその匂いの元凶は、余程お腹が減っていたのか、僅か十五分ほどで食べ尽くされていた。
「美味しかったです」
「ご馳走様でした」
二人は手を合わせ、静かに呟いた。これが黒田にとっての最期の晩餐。丑三つ時が刻々と迫っていた。
「黒田さんは最後にやりたいことはないんですか」
「……もうないですね。準備を万全にして、自殺しましょう」
「わかりました」
二人はそれから少し仮眠を取ることにした。横になった彼女は、同じく横になっている黒田の背中を見つめながら、自分の今後のことを考えていた。いっそ鍵を持ったまま川に飛び込んでしまおうか、それともまだ生きてみようか。それとも……。
ぴりりりり。
深夜零時、小さめに設定されたアラーム音で黒田は目覚めた。隣に寝ていたはずの彼女の姿が見えない。先に起きたのだろうか。
……いや、これから自殺の手助けをするのに、そんな呑気に寝ていられるはずもないか。そう考えながら黒田は用意してあった遺書を確認し、机の上に丁寧に置いた。
刹那、黒田は呼吸が出来なくなった。背後から気配を消して近づいてきた雨野に、首を絞められている。どこから見つけてきたのか、以前首吊り自殺をしようとした、長いロープで。
「っが、あぁ」
意識が途切れる寸前に、彼女は手の力を緩めた。黒田は訳が分からないまま、どさ、とその身体を倒した。咳き込む彼の身体を彼女は無理矢理起こし、二人共倒れ込むように押し入れに入った。
「どう、し……て」
彼女はまたロープを彼の首に巻き付け、めいいっぱい力をぶつけた。その力はどこから湧いてくるのか、とても高校生の女子の力とは信じ難い。首にめり込んでいくロープ。彼女はそれをさらにもう一周させると、また圧倒的な力で締め付ける。
「私、死ぬ前に、殺してみたかったんです。人を」
彼はひくひくと息を喘ぐように繋いでいる。もう意識は無さそうだ。口や鼻の穴から体液が流れていく。排泄物らしき臭いも充満していた。
「死後の世界があればお会いしましょう」
そして黒田は完全に動かなくなった。彼女は用意してあったマッチで、練炭の真ん中にある着火剤に一つずつ火を灯していった。最後に全ての集熱板を被せ終わると、ぱん、とゆっくり押し入れの戸を閉めた。
暗闇の中、彼女は黒田が用意していた薬を飲んだ。もう動かない黒田の上にそっと倒れると、やがて深い眠りについた。
無機質なアナウンスが、人々で溢れている駅のホームに、ノイズにかき消されながらもその音を響かせていた。聞き慣れたその注意喚起に、人々は耳を傾けない。
ホームに、一人の少女がふらふらと歩いてきた。その眼は、無。少女は有名な進学校の制服を身につけ、長めのスカートをゆらゆらと揺らしている。黄色い線を悠々と超えていく彼女に、誰も気づいていない。その身体は、左方から来る減速しない列車の前に吸い込まれるように……。
「諦めないでください」
少女の手を背の高い男がしっかりと掴んだ。刹那、列車が轟音とともに目の前を通過していく。少女は顔を伏せ、静かに涙を落とす。
「死にたかったんです……邪魔しないでください」
少女は手を振り解こうと抵抗したが、男の手はさらに力を増す。怪訝な眼を向けられた男は、困ったように、少女にこう言った。
「どうせ死ぬなら、最期に、私の手伝いをして頂けませんか?」
少女が男に連れてこられたのは、まだ築年数が少ないように見える、綺麗なアパートだった。男は二階に上り、角部屋の鍵を開ける。
「さあ、中に入って」
少女は一瞬躊躇ったが、男の紳士的な対応に負けたのか、渋々中に入った。至って普通の、男性の一人暮らしの部屋。それが第一印象であった。
「いきなり連れてきてすみません。私は黒田と申します」
黒田はマグカップに温かいココアを入れ、少女に差し出した。甘い香りが漂うそれを見つめながら、少女はか細い声で言葉を紡ぐ。
「私は……雨野愉良といいます……」
心なしかその声は震えているようだ。黒田は優しい声で語りかけた。
「もし良ければ……なぜ雨野さんが命を絶とうとしていたのか、教えていただけませんか」
彼女がスカートをぐっと握ると、規則正しく並んだひだがくしゃりと歪んだ。口を開けて閉じ、また開けると、黒田の眼を見て、ぽつりぽつりと話し始める。
「私は……父を、一年前に亡くしました。それから母は、狂ったように私に暴力を振るうようになりました。試験の点数が悪くなると、すぐ大声で怒鳴られ、殴りつけられました」
彼女のスカートに、じわり、じわりと広がりながら、悲しい水玉模様ができていく。彼女にとって母親は、絶対に解けない、固い主従関係のようなもので縛られた存在だった。黒田はただ黙って、彼女の紡ぐ言葉を待つ。
「丁度その頃から、私は学校でいじめを受けるようになりました。その理由は……私が、学校でも人気がある男子生徒に告白され、付き合い始めたからでした。最初は優しかった彼も、面倒事には巻き込まれたくなかったようで……気づいた時にはもう、連絡が取れませんでした」
黒田がそっと紺色のハンカチを差し出す。彼女はそれを受け取り、眼に直接押し当て、静かに涙を拭き取る。
「彼も利口です。私と、やることは全てやりましたから。……皮肉ですね」
嘲るように彼女は言うが、涙は一向に止まろうとしない。
「お辛かったですね」
黒田がそう言うと、彼女はぼろぼろと大きな涙を落とし、声をあげて泣いた。黒田は彼女の頭を優しく撫でる。やがて涙が止まると、赤くなった目を黒田に向けて、深々とお辞儀をし、感謝の意を示した。
「ありがとう、ございます」
鼻水を啜りながら彼女はそう言った。黒田はその言葉を聞くと、どういたしましてと言わんばかりに、彼女にほほ笑みかけた。
「雨野さん……私の手伝いの件なのですが」
黒田がぼそぼそとそう言うと、彼女は口に含んだココアをこくっと飲み干して眼を向けた。
「貴女の自殺を止めておいて、頼めることではないと思います……」
黒田の目線が彼女から離れる。どうやら、この言葉のあとに続く言葉を、口に出していいか迷っているようだ。
「私は……黒田さんの、力になりたいです」
彼女のその声は、黒田の背中を押したかのように見えた。
「では手伝ってください……私の、自殺を」
黒田が押し入れを開くと、いくつもの練炭が顔を見せた。押入れの中は、半透明な青色のビニールが張り巡らされている。彼女は音を立てて唾液を飲み込んだ。
「医師の友人に頼んで、特別に強い効能がある睡眠薬を売ってもらいました」
黒田は覇気のない笑顔でそう言った。彼女の心の底には、黒田に対する小さな恐怖心が芽生えつつあった。
「雨野さんは、僕が押入れに入ったら、家の鍵を外から閉めて、その鍵をどこかに捨ててほしいんです」
かちゃっと、装飾品が全く付いていない鍵が机の上に置かれた。その些細な金属音にも、彼女はびくっと身体を震わせてしまう。
「雨野さん、嫌なら断っていただいていいのですよ……」
恐れる彼女を見て、黒田はそう声をかけた。彼女は弾かれたように背筋を伸ばす。美しい艶の髪がかさりと揺れた。
「一つ、質問をしてもいいですか」
「ええ、もちろんです」
彼女は一度、ゆっくりと呼吸をすると、黒田に問いかけた。
「なぜ、鍵を内側から自分で閉めないんですか」
「……ではこちらに来てください」
黒田は玄関に歩いて行くと、彼女に向かって手招きした。彼女がドアノブを見る……閉めるためのつまみがない。正確には、つまみがねじ取られたようになり、鍵がかけられないようになっていた。
「ここに引っ越してきた時からこうなっています。内側から鍵がかけられません」
「そうだったんですね」
「幸いドアのチェーンはありますので良いのですが、もし誰かが開けてしまって、一酸化炭素が外に漏れ出したら……近隣住民の方々に迷惑をかけてしまいます……」
自殺をする時点でかなり迷惑をかけるはずなのに、この人はそんなことを気にするんだな、と彼女は思った。きっと心が優しい人なのだろう。錆びた匂いがする銀色の鍵を握りしめると、真っ直ぐな瞳で、はっきりとした口調で彼女はこう言った。
「黒田さん、私に任せてください」
黒田が自殺をするのは今日の夜中、丑三つ時の間と決まった。彼女はその間に、どこに鍵を捨てるべきか考えなくてはならない。周辺の地図を見ながら、赤ペンを片手にチェックマークや丸印をつけている。
「雨野さんは、今日家に帰らなくて良いのですか?」
「はい、死ぬつもりで置き手紙を書いてきましたので」
飄々と答えた彼女の眼は、やる気で満ちている……本気そのものであった。
「……頼もしいです」
黒田は苦笑を交えた不思議な笑みで彼女を見た。しかし彼女はその笑みに気づかない様子で、依然として赤ペンを地図に走らせていた。
「この川に流してもらおうかな……」
彼女は独り言をぼそっと呟いた。どうやら鍵を川に捨てる計画を立てたらしい。黒田も彼女のやる気を見習うかのように、七輪を黙々と用意している。時間は刻々と過ぎていき、気づけば西日が部屋に差し込んでいた。
「雨野さん、夕飯は何に致しましょうか」
黒田がそう聞いた直後、彼女の胃が収縮し情けなく音を立てた。彼女は顔を真っ赤に染め上げ、お腹をそっと抑える。二度目の音が鳴り響き、黒田は我慢出来ずにくすっと笑ってしまった。
「恥ずかしいです……」
「笑ってしまいすみません。でも仕方ないですよ、お昼も食べてませんからね。」
優しい微笑みで黒田はそう言い、出前を取りましょうか、とメニューを開いて彼女に渡した。
「黒田さんは最期の晩餐なんですよ。自分で選んでください」
彼女は遠慮がちにそう口にした。黒田はその言葉に素直に従い、チーズたっぷりのピザを選ぶ。彼女はピザという気分ではなかったが、黒田に合わせてメニューを開く。鮮やかな色のピザがずらりと並んでいるのを見ると、つい唾液が滲み出てきた。彼女はベーコンやサラミといった肉系のピザを選んだ。
ピザの配達を待っている間、彼女は黒田にまた一つ質問をした。それは、彼の自殺理由についてである。
「会社の借金を抱え、妻と子に見捨てられて離婚しました。もう生きる意味はありません。借金もとても返済できる額ではありませんし」
悲しそうに俯いた黒田は、今にもその優しい眼から涙が溢れ出そうに見えた。彼女が先程彼に貰ったハンカチを差し出そうとした時、ドアのベルが鳴り響いた。
部屋中に香ばしい匂いが漂っている。しかしその匂いの元凶は、余程お腹が減っていたのか、僅か十五分ほどで食べ尽くされていた。
「美味しかったです」
「ご馳走様でした」
二人は手を合わせ、静かに呟いた。これが黒田にとっての最期の晩餐。丑三つ時が刻々と迫っていた。
「黒田さんは最後にやりたいことはないんですか」
「……もうないですね。準備を万全にして、自殺しましょう」
「わかりました」
二人はそれから少し仮眠を取ることにした。横になった彼女は、同じく横になっている黒田の背中を見つめながら、自分の今後のことを考えていた。いっそ鍵を持ったまま川に飛び込んでしまおうか、それともまだ生きてみようか。それとも……。
ぴりりりり。
深夜零時、小さめに設定されたアラーム音で黒田は目覚めた。隣に寝ていたはずの彼女の姿が見えない。先に起きたのだろうか。
……いや、これから自殺の手助けをするのに、そんな呑気に寝ていられるはずもないか。そう考えながら黒田は用意してあった遺書を確認し、机の上に丁寧に置いた。
刹那、黒田は呼吸が出来なくなった。背後から気配を消して近づいてきた雨野に、首を絞められている。どこから見つけてきたのか、以前首吊り自殺をしようとした、長いロープで。
「っが、あぁ」
意識が途切れる寸前に、彼女は手の力を緩めた。黒田は訳が分からないまま、どさ、とその身体を倒した。咳き込む彼の身体を彼女は無理矢理起こし、二人共倒れ込むように押し入れに入った。
「どう、し……て」
彼女はまたロープを彼の首に巻き付け、めいいっぱい力をぶつけた。その力はどこから湧いてくるのか、とても高校生の女子の力とは信じ難い。首にめり込んでいくロープ。彼女はそれをさらにもう一周させると、また圧倒的な力で締め付ける。
「私、死ぬ前に、殺してみたかったんです。人を」
彼はひくひくと息を喘ぐように繋いでいる。もう意識は無さそうだ。口や鼻の穴から体液が流れていく。排泄物らしき臭いも充満していた。
「死後の世界があればお会いしましょう」
そして黒田は完全に動かなくなった。彼女は用意してあったマッチで、練炭の真ん中にある着火剤に一つずつ火を灯していった。最後に全ての集熱板を被せ終わると、ぱん、とゆっくり押し入れの戸を閉めた。
暗闇の中、彼女は黒田が用意していた薬を飲んだ。もう動かない黒田の上にそっと倒れると、やがて深い眠りについた。
0
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…
しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。
高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。
数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。
そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…
BL 男達の性事情
蔵屋
BL
漁師の仕事は、海や川で魚介類を獲ることである。
漁獲だけでなく、養殖業に携わる漁師もいる。
漁師の仕事は多岐にわたる。
例えば漁船の操縦や漁具の準備や漁獲物の処理等。
陸上での魚の選別や船や漁具の手入れなど、
多彩だ。
漁師の日常は毎日漁に出て魚介類を獲るのが主な業務だ。
漁獲とは海や川で魚介類を獲ること。
養殖の場合は魚介類を育ててから出荷する養殖業もある。
陸上作業の場合は獲った魚の選別、船や漁具の手入れを行うことだ。
漁業の種類と言われる仕事がある。
漁師の仕事だ。
仕事の内容は漁を行う場所や方法によって多様である。
沿岸漁業と言われる比較的に浜から近い漁場で行われ、日帰りが基本。
日本の漁師の多くがこの形態なのだ。
沖合(近海)漁業という仕事もある。
沿岸漁業よりも遠い漁場で行われる。
遠洋漁業は数ヶ月以上漁船で生活することになる。
内水面漁業というのは川や湖で行われる漁業のことだ。
漁師の働き方は、さまざま。
漁業の種類や狙う魚によって異なるのだ。
出漁時間は早朝や深夜に出漁し、市場が開くまでに港に戻り魚の選別を終えるという仕事が日常である。
休日でも釣りをしたり、漁具の手入れをしたりと、海を愛する男達が多い。
個人事業主になれば漁船や漁具を自分で用意し、漁業権などの資格も必要になってくる。
漁師には、豊富な知識と経験が必要だ。
専門知識は魚類の生態や漁場に関する知識、漁法の技術と言えるだろう。
資格は小型船舶操縦士免許、海上特殊無線技士免許、潜水士免許などの資格があれば役に立つ。
漁師の仕事は、自然を相手にする厳しさもあるが大きなやりがいがある。
食の提供は人々の毎日の食卓に新鮮な海の幸を届ける重要な役割を担っているのだ。
地域との連携も必要である。
沿岸漁業では地域社会との結びつきが強く、地元のイベントにも関わってくる。
この物語の主人公は極楽翔太。18歳。
翔太は来年4月から地元で漁師となり働くことが決まっている。
もう一人の主人公は木下英二。28歳。
地元で料理旅館を経営するオーナー。
翔太がアルバイトしている地元のガソリンスタンドで英二と偶然あったのだ。
この物語の始まりである。
この物語はフィクションです。
この物語に出てくる団体名や個人名など同じであってもまったく関係ありません。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる