様々な日常を描いていく

和泉響

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誰かの日常の話

放課後に

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 夕焼けに照らされた校舎に、無機質な機械音が木霊する。その音を聴いて校舎から出る者が殆どだが、その中に反対方向へ足を運ぶ生徒が一人。膝丈のスカートを揺らしながら校舎に飛び込むと、急いで靴を下駄箱に入れ、上履きに履き替えた。通りがかった教師に軽く挨拶をして、階段を駆け上がる。
 教室に入り、少し息を整えながら自分の席に移動した。明日提出する課題を机に忘れてしまったのだ。まだ半分も終わっていないので、明日の朝では間に合わない。中から課題を取り出して確認したあと、鞄に入れる。外から元気な運動部の声が聞こえていた。
 ぼーん。
 突然、ピアノの音が耳に入った。今日は確か吹奏楽部は部活が無かったはずだ。ぎこちない音は、やがて綺麗な音色を奏で始める。音楽室から誰もいないはずなのに、ピアノの音が聞こえてくる……これは学校の七不思議というやつだろうか。自分の中に好奇心が溢れてくるのがわかった。
 足を忍ばせて、そっと音楽室に近づく。ふぅっと深呼吸してから、ドアを力任せに開けた。その瞬間、ピアノの音が途切れ、がたがたという音が続く。慌ててピアノに近づいてみたものの、誰もいない。楽譜が譜面板に乗ったままであり、鍵盤蓋も開いていることから、今まで誰かがピアノを弾いていたのだと推測できる。ドアを開けた時のあの音……幽霊なら、音を立てずに消滅するだろう。
「誰かいるんですよね?」
 空間に私の声が響く。返答はない。一番隠れやすそうなところから、その人物を探してみる。
 すると呆気なくその人物は見つかった。木琴の下に頭を突っ込んで隠れたつもりになっているが、まさに頭隠して尻隠さず、スカートが丸見えである。上履きの色から、彼女は一年生で後輩だとわかると、少し悪戯をしたくなってしまう。
「どこにいるんですか……?」
 なんて言いながら楽器を動かす度、木琴の下のスカートが揺れる。人見知りなのだろうか、震えているようにも見える。素性が気になるので話しかけてみたいが、びっくりさせてしまうだろう。一体どうしたものか。

 そうだ、この子に手紙を書こう。そう思い、早速鞄の中から筆箱とメモ用紙を取り出した。
『ピアノすごく綺麗だったよ。また来るので、聴かせてね』
 と書いたメモを、ピアノの譜面板の上に置く。失礼しました、とドアを閉めて早々と下校した。
 家に着いて、夕飯の支度をしている母親に声をかける。自分の部屋に入る前に、ふと隣の部屋を見てしまう。……妹の部屋だ。妹は私のことが大嫌いで、滅多に顔を合わせてくれない。久々に顔を見ても、様々な罵詈雑言が浴びせられる。今年私の中学校に入学したが、一度も一緒に登下校したことは無い。
「なんでそんなに毛嫌いするかな……」
 嫌われるようなことをした覚えはないが、親によるとどうやら私の成績が妹より良いらしく、どうしても比べてしまうらしい。確かに人と比べられることは誰しもが嫌だろう。しかしここまで来ると、私も悲しい。
 自分の部屋に入ると、どっと疲れが押し寄せる。瞼がとろんと落ちてくる感覚がして、慌てて頬を叩く。課題をやってから、受験勉強もしなければいけない。寝ている場合ではないのだ。重たい身体を机に押し付けて、ノートを広げた。それから夕飯までひたすらペンを走らせ、いつも通りお風呂に入った後も勉強してから寝た。
 次の日の放課後も、あのピアノの音は校舎の中を駆け抜けていた。昨日よりも丁寧にドアを開けたが、やはり彼女は同じように木琴の下に隠れてしまった。ただ一つだけ昨日と違うことは、ピアノの譜面板に楽譜だけでなく、一枚のメモも置いてあったことだ。
『ありがとうございます。私自信がなくて、そう言ってもらえるとすごく嬉しいです。まだ恥ずかしくて顔も合わせられなくて、すみません』
 その紙をそっと胸ポケットに入れると、新しいメモに返事を書く。
『返事ありがとう。人見知りなんだね。いつか顔見せてくれると嬉しいな。また、ピアノ聴きに来るね』
 そうして、何回も何回も彼女と手紙を交換した。今時古臭いかもしれないが、私たちにはそれが合っていたのだろう。彼女もだんだん心を許してくれるようになり、彼女自身について少しずつ教えてくれた。
 彼女は小学二年生の頃からピアノを習っているが、人見知りなうえ極度のあがり症であるため、コンクールや発表会では上手く演奏ができないそうだ。
    次のコンクールでいい成績が収められなかった場合、ピアノから引退しようと密かに決意した彼女は、こうして毎日放課後に練習している。誰がいつ来るかわからないこの状況が、彼女の性格を鍛えているらしい。
『いよいよ来週です。今から緊張して心臓がばくばくしています。あの、もし宜しければ、来ていただけませんか?あなたが来てくれることを知ってるだけで、緊張せずに頑張れると思うんです』
『もちろん。日時と場所を教えてくれれば、必ず行くよ。お互いまだ顔も合わせてないけど、君のことはなんだかわかるような気がする。精一杯応援するから、頑張ってね』
 返事のメモをそっと譜面板の上に乗せて、そのまま下校した。
家に着くと、母親に呼び止められた。
「来週の土曜日、月希つきのピアノのコンクールなんだけど、陽子ようこも来る?」
 月希とは妹の名前で、陽子は私の名前だ。妹がピアノを習っているのは初耳である。放課後の彼女がふと頭をよぎった。
「なんだか大切なコンクールらしいわ。陽子は呼ばなくていいって言われたけど、どうする?」
「もちろん行くよ。いくら嫌われていようと大切な妹なんだから」
 もしかしたら彼女と同じコンクールなのかもしれない。そしたら同級生だし、何か接点があればお互い仲良くなれるだろう。そうなったら嬉しい。
 次の日彼女にコンクールの時間を教えてもらうと、やはり妹と同じコンクールであることが判明した。未だに私に顔を見せてくれないのだが、果たして本当に大丈夫なのだろうか……。不安な気持ちはきっと、彼女の方が何倍も大きい筈だ。私が弱気になってしまってはいけない。
『土曜日必ず成功するよ、自信持って』
 そう書いたメモの切れ端を、いつも通り譜面板の上に置いた。

 やがて土曜日になり、母と一緒にコンクール会場へ向かった。プログラムを係員から貰い、目を通す。十四人のうち五番目に、妹の名前を見つける。その右側には中学校の名前も書いてあった。この中学校の名前を辿っていけば、あの子の名前も……。
 ブー。
 開演のブザーが鳴り、ホール全体が薄暗くなる。司会者のはきはきとした明るい声が、演奏者や曲の名前を観客に伝えている。一人、また一人とピアノの発表が終わっていき、とうとう妹の番になった。
「五番、田辺月希たなべ つき。曲名は『乙女の祈り』、作曲バダジェフスカ」
 桃色のドレスに、小さい花飾りを頭に付けた妹が、拍手の音とともにピアノの前に現れる。鍵盤に手を添えると、拍手の音がすっと収まる。
 しかし、しんと静まり返ったホールには、なかなかピアノの音色が響かない。観客はそれでもホールの静寂を解くことは無い。桃色のドレスが震えているのがわかる。次第に観客に落ち着きが失われていくと、その震えは一層大きくなったかのように見えた。

「月希!放課後の練習を思い出して!」

 ホールに叩きつけるような大きな声が、桃色の彼女を奮い立たせた。妹は……田辺月希は、あの放課後の彼女だ。プログラムには私の学校名は一つしかなかった。
 妹はびくっと目を見開いたが、なにか決意したようにゆっくりと椅子に座った。滑らかな手つきで鍵盤に手を置くと、リズムよく曲を奏で始める。白と黒の鍵盤の上を、肌色の細い腕が駆け走る。ゆったりとした曲調にも、力強さが確かに伝わってくる。観客は彼女のメロディーに魅されていく。乙女の祈りが、彼女の祈りが、ホール全体に染み渡る。全てが彼女の虜になっていく……。

 演奏が終わり、彼女は拍手喝采を浴びながら舞台の袖に消えていった。まだコンクールは続くが、もうこのホールは彼女のものになっているような気がした。
 次の演奏者のピアノの音がくぐもって聴こえるのは、私だけなのだろうか。味気なく感じるのは、本当に私だけなのだろうか。ぼうっとしている間に、最後の演奏になってしまった。もう、コンクールが終わる。

 これを機に妹が私に心を開いてくれたら嬉しい。彼女の努力を知っているのは……私だけなのだから。
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