様々な日常を描いていく

和泉響

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少し切ない話

黄色い涙

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 くらくらするような香りを胸いっぱいに吸い込みながら、店のシャッターを開けた。眼球に直接刺さるような朝日に照らされる、赤、白、黄色。一言では表せないような、様々な緑に茶色。
 そんなカラフルな視界に目をふっと細めた。閉じこもっていた香りたちは、一斉に外へ溢れ出て溶け込んでいく。
 
 まだ僕が言葉を話せないような頃、両親は離婚した。それから僕を一人で育ててくれた母は、病にかかり、二年前に他界していった。当時僕は高校三年生で、学校でその訃報を知らされた。
 母は誰にでも笑顔を絶やさず、この花屋、『華祭り』をずっと営み続けていた。末期のがんが発見されても、延命治療を拒否して、僕のためだと言いながら働いていた。
 その姿は僕の心を鷲掴んだ。僕が華祭りを継ごうと考えるのに、そう時間はかからなかった。
「母さん、あのな……」
 母に伝えたときは、驚きながらもとても喜んでくれて、涙をぽたぽたと流していた。 
 
 高校を卒業したら、華祭りを必ず継ぐ。そう約束した次の日に、母の様態は急変し、永遠の眠りについた。四十七歳だった。残ったのは母のように明るい花たちと、まるで命の値段とでも言いたげな、大量の保険金だった。
 高校を無事卒業した後は、大学に進まず華祭りの開店準備を進めた。準備にこそ時間はかかったが、母の二年目の命日に復活開店できる。それが、今日だ。
「裏庭の花壇も整えなきゃな」
 母がいなくなってから、母が好きだった向日葵を育て始めた。上手く育てられた向日葵は、種と共に売り物になる。陽の光に向かってぐんぐん背を伸ばし、大輪の花をぱあっと咲かせるその姿は、とても母に似ていると思う。
 母が結婚して間もない頃、父に買ってもらったという小さな赤いシャベルを使い、土を整える。所々赤い塗装が剥がれ、本来の銀色の鉄が見えてしまっている。
 自分たちを捨てた男がくれたものなんて……と思うが、今このスコップは母の形見でもある。捨てられるわけがない。
 大きく育って、植木鉢が狭苦しい花たちを、新しく大きい鉢に植え替える。爽やかな水色をしたジョウロに、並々と水をそそぎ入れ、絶妙な水の量を花に与える。多すぎても少なすぎてもいけない。全て、幼少期から母をずっと見てきて学んだことだ。
 
 台所からぴぃーっと音が聞こえた。やかんの中の湯が沸騰した合図だ。土臭くなった手を洗う。体質なのかどうかは分からないが、朝はあまり食べられない。今日の朝食は紅茶で済ませる予定だ。
 熱湯でティーポットを素早く洗い流し、リーフをティーポットに入れる。沸騰してきた瞬間の熱湯を少し高めの位置から注いでいく。少しの間蒸らした後、最後の一滴までティーカップに注ぎきる。
 ふんわりと漂う香りに、とろりと目を閉じ、少しずつ冷ましながらゆっくり飲んでいく。鼻腔から香りが抜けていく快感に酔いしれながら、もう一度華祭りの中を見渡した。
 母のいたあの頃と、殆ど変わらないように見える。これなら開店しても大丈夫。優しく元気な母の声が聞こえた気がした。
 
 紅茶を飲み終わり時計を見ると、いよいよ開店時間が迫っていた。慌ててティーカップを片付け、母の黄緑色のエプロンを身につける。本日オープンと書かれた立て掛け看板を外に出す。
「本日、花屋華祭り、二年越しの再開店です!」
 元気な声を通りに投げかける。通行人がちらっと目配せをして、また何処かへと歩いていく。まあ、最初からそんな幸先いいわけが無い。花を飾ったり、水をあげたりしながら、ゆっくりと待つとしよう。
「あの……すみません」
 声をかけられ、ぱっと顔を上げると、五十代くらいの細身の男性が立っていた。
 髪の毛はオールバックで整えられている。左手首には高級感のあるシルバーの腕時計を付けており、黒いスーツをかっちりと着こなしている。よく見ると、きらきらとしたストライプ模様が入っているようだ。白いワイシャツに、紫色のネクタイを締めている。
 誰かに似ている気がしたが、それが誰なのかはわからなかった。
「いらっしゃいませ、なにかお探しのものはありますか?」
 再開店初のお客様で、とても気品のある人だ。自然と背筋が伸びた。
「はい、向日葵はありますか?」
 胸が熱く疼く。再開店初のお客様は、母が生前好きだった向日葵を求めていた。彼は、母に会ったことがあるのだろうか。もしかして常連さんだったのか。知りたい、という好奇心が溢れ出てくる。
「……どうされましたか?」
 彼が少し心配そうにして、僕の顔を覗き込む。目元が優しい顔立ちだな、と思った。いけない……今は自分の仕事に集中しなければ。
「少し考え事をしておりました。申し訳ございません。向日葵なら奥にありますので、こちらに来て頂けますか」
「はい」
 彼と先程整えた裏庭の花壇へ行く。彼は向日葵を五本選ぶと、花束にして欲しいと頼んできたので、快く承る。彼は目を細めながら、懐かしむように花壇を見ていた。
「もしかして、再開店する前のこの店に来たことがあるんですか」
 花束を渡す時、思い切って彼に聞いてみた。僕でも知っているような有名ブランドの財布を取り出しながら、彼は答える。
「……遠い昔に」
 眉をひそめて、悲しそうに。
「母のことはご存知ですか?」
「はい。とても明るい女性でした」
 過去形の口調。彼は、母が今生きていないことを知っている。母とどんな関係だったのだろうか。
「では、ありがとうございました」
 その疑問を投げかける前に、彼は華祭りから姿を消した。店の前で振り返り、深々と一礼をして。
 
 その後も何人かお客様が来た。と言っても、昔馴染みのおじさんやおばさんばかりだったが、それはそれでとても楽しく、とても嬉しかった。
「頑張れよ華ちゃん」
「華ちゃんって呼ばないでくださいよ」
「いい名前じゃないか、華が輝いて華輝はなきって」
「それなら、華輝って呼んでください」
 小さい頃からお世話になっている近所の人たちは、僕のことを華ちゃんと呼ぶ。自分の名前が嫌いな訳では無いが、流石にこの歳になると少し恥ずかしい。
 十七時になり、空も少し暗くなり始めた。閉店時間である。外に出してあった立て掛け看板をしまい、エプロンを外す。裏庭の向日葵と、店の中にある菊の花を手早くまとめて花束にすると、店の鍵を閉めた。これから母への報告をしに行くのだ。
 自転車で墓場に向かって急いで漕ぐ。到着した時には十七時半を少し過ぎていた。十八時半には霊園の門が閉まる。迷惑をかけないように、早く報告しなければ。
 母の墓石まで行くと、墓石の前で一人手を合わせている男がいた。そう、再開店初のお客様の、あの紳士だ。何故か隠れて様子を伺ってしまう。彼は独り言のように母に語りかけている。ここでは彼が何を言っているのかわからない。
 少しだけ近づいて分かったが、彼は泣きながら何度も何度も謝り続けていた。母の名を呼び、頬を濡らし、合わせた手と肩を震わせながら。
 僕は驚いて、花束をかさりと動かしてしまった。その音に素早く反応した彼は、赤く充血した目を大きく開いた。
「……」
 二人で目を合わせたまま、硬直する。お互いに動けぬまま、口を開けぬまま時間が過ぎる。……先に口を開いたのは、僕だった。
「母の墓参りに来てくださったんですね、ありがとうございます。母の好きな花も、覚えてくれていたんですね」
 早口でそう告げると、彼は悲しそうな顔をして目を閉じた。そうだ、彼は再開したこの店のことを知って、わざわざ買いに来てくれたんだ。昔の友人の墓参りに、来てくれたんだ。
「昔からの友人、なんですよね?」
 そうに違いない。そうに……違いない。
 頭の中でそう唱える度、何故だか涙が溢れ出る。眼球の奥からじわりじわりと滲んで湧いてくる。
「……大きくなったな」
 彼が口を開く。違う、絶対に。彼は母の友人だ。
「華輝にも謝らないとな」
 彼は昔、母から、息子の名前を聞いていたんだ。だから僕の名前を知っているんだ。
「すまなかった」
 謝らないでくれ。あなたには何も謝ることは無いはずだ。だって、赤の他人なんだから。
「本当にすまなかった、華輝」
「名前なんて呼ばないでください」
 後半の声は嗚咽でかき消される。憎しみを込めて睨みつけたはずなのに、視界が滲んでよく見えない。
「……言い訳は、聞いてくれなさそうだな」
 あなたはそう言ってまた涙を流した。
 一番会いたくて、一番会いたくなかった人。
 一番憎らしくて、一生恨むと決めた人。
「僕の父は死にました。母より先に、ずっと前に」
 きっぱりと大声で言い、花束をそっと墓に供えた。手を合わせ、目を瞑る。脳裏に浮かぶのは母の笑顔なのに、耳には自分が鼻をすする情けない音が入ってくる。
 母さん、僕は華祭りを継いだよ。見守っていてね。
 
 報告を終えて振り返ると、まだその男はそこにいた。心の中でも、あいつを父と呼ぶつもりは無い。
「帰らないんですか。もうすぐ霊園が閉まりますよ」
 ずずぅっと、男が大きく鼻をすすった。気品のある、あの紳士の影も形もない。
「元気で、やれよ。応援してるからな」
 朝よりもずっと小さく見える背中を丸め、涙を静かに流しながら、男は帰った。時計を見ると、十八時二十分だった。僕も帰って、明日の準備をしなくては。ふと目をやると、供えられた二つの向日葵に、どこからか飛んできたモンシロチョウが優雅に羽根を休めていた。
「……父さん」
 そっと向日葵に手を添える。黄色い花弁に二つの涙が落ち、モンシロチョウが羽ばたいていった。
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