様々な日常を描いていく

和泉響

文字の大きさ
4 / 12
少し不思議な話

終電

しおりを挟む
 午前零時の手前、私は今宵の最終列車に乗るべく、ホームへと降りる階段を疾走していた。渇いた喉に唾液を飲み込む余裕もなく、その場を離れようとしている列車に飛び乗る。直後、ピンポン、ピンポン、と私を待っていたかのように扉が閉まった。
 会社員になって三年目、月末は忙しくなるため、終電で帰ることが多くなっていた。まだ慣れていないのか、よくこうしてギリギリで乗車してしまう。珍しく人が少ないようだ。いつもは泥酔した女性や、仕事終わりの男性がいるのに、今日は座席に一人、女性が座っているだけである。
 女性の右斜め向かいに座って、大きく深呼吸をした。瞼が重ったるくて、頭も冴えない。ふと女性に視線を向けると、彼女はどうやら寝ているようだった。その顔の美しさと言ったら、この世のどこを探しても見当たらないような、圧倒的な美。百人が百人、思わず「美しい」と声を漏らすだろう。パズルのピースが、全てあるべき場所にあるようで、ぞくぞくして目が離せない。それは、女の私ですら、見とれて惚れてしまうほど。
 瞼を閉じて眠る、美しく麗しい彼女を見ていると、私も疲れが滲んできたのか、睡魔が襲ってきた。彼女をまだ見ていたいのに、瞼がその視界と思考を遮っていく。やがて、闇になった。

 ――列車が鈍い音を軋ませながら、一定のリズムを踏んで走っている。一度も狂わせることなく。そのリズムを、一度も止めることなく。
「……え?」
 普段の私なら、列車が駅に到着した時や、車内アナウンスで意識を戻す。しかし今の時刻は零時四十分。これは深い眠りに入ってしまい、起きなかったのだろう。完全に乗り過ごしてしまった。結局タクシーを拾う羽目になり、無意識に財布の中身を確認する。
 情けなさに思わずため息が出た。あの美しい女性の姿はもう何処にも無い。
 とりあえず、この列車は今何処を走っているのか調べなければ。鞄の中からスマートフォンを取り出し、乗ったはずの列車の経路を検索した。

*****

 二十三時四十五分○○駅発△△行き(終電)
 終点△△駅零時三十分着(運行終了)
 
*****

 その画面に示された表示に、私は目を疑った。終点にとっくに到着しているはずなのに、この列車は車庫に入る様子もなく、ただ規則的に車体を揺らしている。
 この列車が一体何処へ向かっているのか、全くもってわからない。窓の外は鬱蒼とした暗い森が広がっており、とてもこのような場所に線路があるのかと思う程である。
「人……私の他に、誰かいないの」
 そうだ、この列車の運転手がいるはずだ。話を聞きに行き、一刻も早く降ろしてもらわなければ。これ以上遠くに行ってしまったら、タクシー代も馬鹿にならないだろう。
 ゆっくりと座席から立ち上がり、バランスを取りながら一歩ずつ前方車両へ向かう。どこまで歩いても、人一人乗っていない。……まあ、終点を過ぎて運行しているのだから当たり前なのだろう。先頭車両に到着するまでの間、誰にも会わなかった。
 運転室は夜間のためか、水色のカーテンで遮られていて、中の様子は確認できない。運転室の扉にカーテンは無いが、こちらが明るく中が暗いのでよく見えない。何となく嫌な予感が胸の内側にこびりついていた。しかし、緊急時なのでなりふり構っていられない。ひたっと冷えた運転室の扉のバーを握る。
 それがまるでスイッチだったかのように、突如ばちんと音がして、電車内の電気がすべて消えた。列車は減速も加速もせず、何事も無かったかのように走行している。
 暗くなった車内からは、電車の前照灯に照らされた運転室内がうっすらと見え、私は目を凝らした。心臓がやけにうるさく騒いでいる。
 運転室には、人がいなかった。いや、人ではない何かがいた。「それ」をどう呼んで良いか分からない。化け物としか言いようがなかった。
 化け物は人型で、人間で言うところの頭部がもげて無くなっている。全身は粘度が高そうな液体――おそらく血液なのだろう――に塗れていて、ぬらぬらと光を反射していた。足元には真っ黒なボールのようなものが転がっていて、それが何なのか理解した瞬間、強烈な吐き気に襲われる。口内に溢れ出た胃の内容物をぐっと飲み込んだ。
 ぬったりと汚れた運転台に手を乗せていることから、この列車をあの化け物が操縦していることが分かる。目を離したいのに、離せない。涙がとめどなく頬を伝っていく。心臓はこの身体を飛び出そうと暴れている。
「け氣餉ケ懸」
 そのおぞましい声を聞いた瞬間、まるで金縛りが解けたかのように私は走り出した。頭部が無いにも関わらず、あの化け物は間違いなく私のほうを振り向いて、笑ったのだ。
「誰かいないの!」
 悲鳴にも近いような声で叫びあげた。誰もいないことは分かりきっていたはずなのに、そう声に出すしかなかった。
 ぬちゃ。
 後方から聞こえた音に向かって振り向くと、化け物は運転室から出て、ゆっくりと私を追いかけてきた。一瞬冷静になった脳内に、漢字一文字が思い浮かぶ。
 死
「気袈ヶ祁ケ」
 たすけて、と乾いた喉が空気を漏らす。車両へのドアを開け、走り、また開けては走る。この繰り返しの終点は、私自身の終焉。
 ぬちゃ、ぬちゃ。
 耳障りな足音は歩いているリズムなのに、耳のすぐそばから聞こえてくるようで、一向に距離が縮まらない。私は全力疾走なのに、なんで、どうして。そんな疑問なんかどうでもいい。逃げなきゃ、逃げなきゃ……死ぬ。
「あ」
 こんな状況でなんて間抜けな声だろう。ふっと顔がほどけ、私は笑ってしまった。それも仕方ない、見てしまったのだ……この命の、最期を。
 二両先に微かに見えた壁。それはこの列車の最後尾だということに他ならない、確かな証拠だ。あの壁を超えることはできない。走っている間に必死に頭を働かせる。
 窓を蹴って、何度も何度も蹴って、割るしかない。そこから外へ飛び出すのだ。
「はあ、はあ……」
 とうとう最後尾車両まで来てしまった。後ろを振り向かないようにして、左の窓ガラスに体当たりする。ガン、ガンとうるさい悲鳴を出すだけで、窓ガラスにはひび一つ入らない。
「助けて!割れてよ!!」
 ぬちゃ。
「お願い!!」
 ぬちゃ、ぬちゃぁ……。
「誰か!!」
 耳にこびりつく異音が、頭の中に響くような音に変わったとき、私は後ろを思いきり振り向いた。刹那、電車の照明がかっと全て点いた。暗くてよく見えなかったあの化け物の姿がよく見える。首より上は無く、赤黒くぶくぶくと腫れあがった身体。背格好は華奢で、女のようにも見える。
 眼球が飛び出さんとする勢いで眼を見開く。声にならない甲高い叫び声が喉元から溢れ出た。
 ぐにゃりと、関節が感じられない腕がこっちに伸びてくる。足の力が抜け、へなりと床に座り込むと、化け物が脇に抱えていた、血濡れたボール――生首の顔が下から見えた。
 見慣れたほくろの位置に、コンプレックスだった歪な目の形。誕生日プレゼントであるお気に入りのイヤリングが生首の耳から光を反射した瞬間、確信に変わった。
 それは間違いなく、私の顔だった。

*****

 じっとりと張り付いたワイシャツの不快さに、はっと目を覚ました。吐き気を覚えるほどの眩暈に襲われる。斜め前には、あの美しい女性が居眠りをする前と同じようにすやすやと眠っていた。今のは……夢、なのだろうか?
 スマートフォンを急いで確認すると、まだ乗車してから二十分しか経っていなかった。まるで熱いシャワーでも浴びたように、大量の汗が身体中を濡らしている。
「間もなく……××、××……お出口は、左側です……」
 自分が下りる駅のアナウンスを聞き、ほっとため息をつく。疲れていたのだろう。かわいた眼をこすりながら、ぼんやりとした頭で考える。あんな気持ち悪い悪夢……グロテスクで、思い出すのも気が引ける。
 まだ減速する気配のない車内で、重くなった腰をのっしりと上げた。ドアの前に立ち、黒い窓に映る自分の顔を見つめる。覇気がなく、口を半開きにしながら、はあはあと肩を上下させている。眼は驚くほど真っ黒になっていて、ひどく疲れているように見えた。
 ふっと自分の顔の後ろに人影が映り込み、慌てて振り返ってみると、真後ろにぴたりとくっつくようにして、あの美女が立っていた。背中にぞくりと寒気が走った。美女は俯いていて、長い髪が顔を覆い隠している。表情は確認できない。
 窓に視線を戻すが、右から左に流れる景色は一向に遅くならないどころか、寧ろ加速しているように思える。
「え……」
 そして、最寄り駅を最速のスピードで通過していった……。
「ちょっ、どうなってるの!」
 窓を拳で叩き叫んだ。先程の悪夢が、あの怪物が、あの生首が、脳裏によぎる。乗った列車を間違えたんだ、と願うように震える手でスマートフォンを操作するが、画面上部に浮かぶ「圏外」の二文字がそれを阻止する。
「降ろして!」
 その時、私の視界が宙を舞い、ごとんと地に落ちていった。最期に俯いている美女と眼が合うと、
「袈ケ華気け」
 と嗤った。私はその聞き覚えのある声を聞くと、痛みなど感じる間もなく意識を手放したのだった。



*****



「やばい、このままだと終電乗り過ごしちゃうかも!」
 飲み会の帰り道に、一人の女がそう言った。
「じゃあ今日は私の家に泊まってく?あの都市伝説もあるし怖いでしょ」
「いいの?ありがとう、助かる!ていうか都市伝説って何?」
 もう一人の女は煙草に火をつけながらにやりと笑う。
「知らない?最近有名じゃん、『終電の首無しさん』ってやつ。終電に乗るとめっちゃ綺麗な女の人に首ぶった切られるんだって」
「うーわ……怖いね。遭遇したときどうすれば助かるの?」
「それがわかんないのよ、だからなるべく終電は避けておこうって話。よくあるじゃん、雷さんにへそを取られるぞ、みたいな教訓。あれと同じじゃないかな」
 二人の女は夜道を大声で話しながら歩いていく。
「ああ、雷が鳴ると気温が下がって、お腹を出したままだと風邪ひいたりお腹壊したりするから、ちゃんと服を着なさいってやつね」
「そうそう。最近急に行方不明になった人多いからさ、いろいろ関連付けて終電の首無しさんが生まれたんじゃないかな」
 急にホラーな話かと思ってびっくりしたじゃん、と女たちは笑って帰っていった。
 今日も終電は通常通り運行するだろう。その列車に、首無しさんと呼ばれたあの女性は、果たして……。


「卦仮祁け家」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…

しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。 高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。 数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。 そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…

BL 男達の性事情

蔵屋
BL
漁師の仕事は、海や川で魚介類を獲ることである。 漁獲だけでなく、養殖業に携わる漁師もいる。 漁師の仕事は多岐にわたる。 例えば漁船の操縦や漁具の準備や漁獲物の処理等。 陸上での魚の選別や船や漁具の手入れなど、 多彩だ。 漁師の日常は毎日漁に出て魚介類を獲るのが主な業務だ。 漁獲とは海や川で魚介類を獲ること。 養殖の場合は魚介類を育ててから出荷する養殖業もある。 陸上作業の場合は獲った魚の選別、船や漁具の手入れを行うことだ。 漁業の種類と言われる仕事がある。 漁師の仕事だ。 仕事の内容は漁を行う場所や方法によって多様である。 沿岸漁業と言われる比較的に浜から近い漁場で行われ、日帰りが基本。 日本の漁師の多くがこの形態なのだ。 沖合(近海)漁業という仕事もある。 沿岸漁業よりも遠い漁場で行われる。 遠洋漁業は数ヶ月以上漁船で生活することになる。 内水面漁業というのは川や湖で行われる漁業のことだ。 漁師の働き方は、さまざま。 漁業の種類や狙う魚によって異なるのだ。 出漁時間は早朝や深夜に出漁し、市場が開くまでに港に戻り魚の選別を終えるという仕事が日常である。 休日でも釣りをしたり、漁具の手入れをしたりと、海を愛する男達が多い。 個人事業主になれば漁船や漁具を自分で用意し、漁業権などの資格も必要になってくる。 漁師には、豊富な知識と経験が必要だ。 専門知識は魚類の生態や漁場に関する知識、漁法の技術と言えるだろう。 資格は小型船舶操縦士免許、海上特殊無線技士免許、潜水士免許などの資格があれば役に立つ。 漁師の仕事は、自然を相手にする厳しさもあるが大きなやりがいがある。 食の提供は人々の毎日の食卓に新鮮な海の幸を届ける重要な役割を担っているのだ。 地域との連携も必要である。 沿岸漁業では地域社会との結びつきが強く、地元のイベントにも関わってくる。 この物語の主人公は極楽翔太。18歳。 翔太は来年4月から地元で漁師となり働くことが決まっている。 もう一人の主人公は木下英二。28歳。 地元で料理旅館を経営するオーナー。 翔太がアルバイトしている地元のガソリンスタンドで英二と偶然あったのだ。 この物語の始まりである。 この物語はフィクションです。 この物語に出てくる団体名や個人名など同じであってもまったく関係ありません。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

まなの秘密日記

到冠
大衆娯楽
胸の大きな〇学生の一日を描いた物語です。

処理中です...