存在証明

チョコタロウ

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証明された一日目

存在証明

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 風が止まり、
 血が空中で形を保ち、
 倒れゆく彼女の髪が、重力を忘れる。
 音が、消えた。
 動けたのは、ムトだけだった。
 いや――
 動いているというより、
 世界から切り離された感覚に近い。
 左手の指輪が、静かに光る。
 眩しくはない。
 ただ、底の見えない暗さを帯びていた。
(……そうか)
 なぜか、分かってしまった。
 これは願いじゃない。
 救済でもない。
 契約の履行だ。
「――俺が、払うんだな」
 声は、世界に届かなかった。
 それでも指輪は応えるように、ひとつ脈打つ。
 その瞬間。
 ムトの胸の奥から、
 何かが、引き抜かれた。
 痛みはない。
 叫びも出ない。
 残ったのは、確信だけだった。
 ――ああ。
 ――俺は、もう。
 自分が倒れる未来を、
 自分の死体を見る結末を、
 失った。
 それは映像でも、記憶でもない。
 もっと根源的なもの。
「死ぬ可能性」という、
 世界に許されていた余白が、消えた。
 代わりに、
 その“終わり”は――
 外へ、押し出された。
(……最悪だな)
 なぜか、苦笑が浮かぶ。
(でも)
 ムトは、凍りついた世界の中を歩き、
 アズミのもとへ向かった。
 彼女の身体は、
 今にも岩に叩きつけられようとしている。
 ――違う。
 正確には、
 そうなるはずだった未来だ。
 ムトは、手を伸ばす。
 指輪が、
 ひび割れるような音を立てた。
 その瞬間、
 世界の“結末”が、書き換えられる。
 衝突は、起きなかった。
 岩は、そこにある。
 彼女も、そこにいる。
 だが、その間にあるはずだった
「死に至る因果」だけが、消えていた。
 彼女の身体は、
 岩の手前で力を失い、
 静かに地面へ落ちる。
 血は、流れない。
 致命傷は、
 最初から存在しなかったことになる。
 次の瞬間。
 時間が、再び動き出した。
 音が戻り、
 風が流れ、
 世界は何事もなかったかのように続いていく。
「……?」
 赤い鎧たちが、ざわめく。
 アング中将だけが、
 ゆっくりとムトを見る。
 いや――
 見ているのは、ムトの“未来”だ。
「なるほど」
 低く、確信に満ちた声。
「君は――
 自分が死ぬ結末を、捨てた」
 ムトは、答えない。
 答えられなかった。
 胸の奥が、異様なほど静かだ。
 恐怖も、安堵も、
 どこか遠い。
 ただ一つ、はっきりしている。
 ――俺は、もう死なない。
 だからこそ。
 この先、誰かが――
 代わりに死ぬ可能性を、
 世界は必要とする。
 アング中将は、かすかに笑った。
「おめでとう。
 君は今、この世界で
 最も厄介な存在になった」
 足元で、
 彼女が微かに息をする。
 生きている。
 それだけで、
 ムトには十分だった。
 今は、まだ。
 ________________________________________
 彼女の呼吸が、わずかに整っていく。
 生きている。
 それだけで、
 場の空気は一度、緩んだ。
 だが。
「……よく見ておけ」
 アング中将の声が、森に落ちる。
 赤い鎧たちが、自然と距離を取った。
 誰も、もう襲おううとはしない。
 彼らは理解している。
 ――触れてはいけない段階に入ったと。
 アングは、馬から降りなかった。
 高みから、ムトを見下ろす。
「君が支払った代償は、単純だ」
 一本の指が、立てられる。
「君はもう、
 自分の死に辿り着けない」
 ムトの胸が、微かに軋む。
「勘違いするな」
 低く、落とされる声。
「君は“不死”になったわけじゃない」
 ムトが、顔を上げる。
「傷は負う。
 血も流す。
 絶望も味わうだろう」
 一拍。
「だが、君が死ねば――」
 さらに一拍。
「代わりに、誰かが死ぬ」
 短い言葉。
 だが、森の空気が一段、重くなる。
「君の心臓が止まるはずだった瞬間。
 君の首が落ちるはずだった刹那。
 君の存在が、ここで終わるはずだった結末」
 アングは、淡々と続ける。
「その“死”は消えない。
 ただ、行き先を変えるだけだ」
 ムトの指先が、わずかに震える。
「君が死ぬとき、
 世界は必ず、こう判断する」
 ――この死は、別の誰かで代替可能か?
「答えが“是”なら、君は生き残る。
 そして――」
 視線が、ゆっくりと彼女へ落ちる。
「最も近く、
 最も因果が強く、
 最も“意味のある誰か”が、死ぬ」
 ムトの喉が、鳴る。
「……じゃあ、俺は」
「俺は、死なないほうが……」
「違う」
 即断。
「君は、死んではいけない」
 その言葉は、刃だった。
「君が死を選ぶたび、
 世界は“誰を殺すか”を選ぶ」
「だからこれは、祝福じゃない。
 呪いでもない」
 一瞬の沈黙。
「存在証明だ」
 胸の奥が、静かに軋む。
「君が生きているという事実を、
 この世界が認め続ける限り――」
 アングは、最後に言った。
「誰かが、
 自らの血で
 その証明書に署名する」
 ムトは、理解してしまった。
 自分が生きている限り、
 世界は問い続ける。
 この男の命は、
 誰の命より重いのか。
 それに答え続けること。
 それが――
 死ねなくなった自分の、生き方なのだと。
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