存在証明

チョコタロウ

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美男と野獣

木漏れ日のアイスブレイク(2)

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「もう……無理……」
 静かな森の中で、ムトの情けない声が響いた。
 歩き始めてかれこれ数時間。いや、時間の問題ではない。
 ムトが今まで生活していたのは整備された街の中だ。険しい自然の道は別世界で、柔らかく起伏のある土の道は、容赦なくムトの体力を奪っていった。
「はあ、しょうがない人ですね。少しむこうに開けた場所があります。そこで一度休みましょうか」
 アミはまだ余裕そうな顔で言う。どうやったら、こんな育ちのよさそうな体力お化けが生まれるのか、甚だ疑問である。
「ごめんよお……」
 情けないムトをよそに、アミは足早に開けた場所へ。ムトも少し遅れながら追いつく。
「つーかーれーたー」
 ムトはその場にあおむけになり、指先ひとつ動かす気力もない顔をしていた。
「ほんとに、情けないですね。昔はこれくらいでへばる人ではなかったのに」
「……ああ……俺はここで朽ちる……森の養分になるんだ……」
「縁起でもないことを言わないでください。森がかわいそうです」
「えっ、俺より森優先!?」
 アミは無言で水筒を取り出し、ムトの顔の横に置いた。
 その瞬間、ムトの目がぴくりと動く。
「……飲んでいい?」
「どうぞ。ただし、自力で起きられたら、ですが」
「鬼か」
 ムトは必死に上体を起こそうとする。途中でぷるぷると震え、再び地面に倒れる。
「ほら見てください。昔はこの程度、片足で――」
「盛るな! 絶対盛るな!」
 アミはくすっと笑い、腰に手を当ててムトを見下ろす。
「文明に甘やかされた俺をなめるなよ……コンクリートと自転車が俺をこうした……」
 ムトはその場に転がったまま、静かに目を閉じる。
「……アミ」
「なんですか」
「俺、前世で何か悪いことした?」
「さあ。少なくとも日常的にトレーニングをする文明には生きていなかったでしょうね」
「ぐうの音も出ない……」
 余りの情けなさに、アミは笑いをこらえきれない。
「ふふ、あのムトがこの程度で倒れるなんて。でも、まだ動けるだけマシですよ。森の中で止まったら、あなた、土に還りますから」
「いやーっ、そういう例えやめろぉ!」
 息も絶え絶え、足もバタバタ、その様子を面白いものを見るように彼女は笑いながら静かに見つめる。
「……立ちます。立ちますから、その笑顔やめてください」
「ふふ。では五秒以内に」
「条件きつくない!?」
 舗装路も、街灯も、案内板もない森で、間の抜けた悲鳴が響いたその時だった。
 ――――ぐう~~~~
 突然、アミのおなかから、森の静けさを破壊するほどの大きな音がした。
「はっ!」
 彼女は思わずおなかを抱え、身体を縮める。頬は赤く、瞳は必死にそらされていた。
「今のは……違います!」
 声も少し裏返るほど必死の言い訳。ふだん真面目で聡明な彼女が、こんな無防備な瞬間を見せるとは――そのギャップにムトは笑いをこらえられなかった。
「あはは、そういえば、昨日の夜から何も食べてなかったね」
 ムトは小さく笑いながら観察する。体力はあっても空腹は誤魔化せないらしい。
「飯にしようか」
「はい……」
 顔がトマトのように赤くなったアミは、ばつが悪そうに頷き、カバンから乾パンを取り出した。
 手つきは、さっきまでの凛とした姿勢とは別人のようで、ぎこちなく、でも必死に見える。
「あはは、ほんとにおもしろいなよーし、俺も少しだけ……」
 乾パンに手を伸ばすムト。二人の間に、ゆるやかで和やかな空気が流れた。

 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

「もう……今日は、のどがよく乾きますね」
 アミは水筒を手に取り、軽くなったそれを手のひらで転がす。
 ふたを開け、中を覗く仕草は、まるで宝探しのように慎重だ。
「水の残り、大丈夫そう?」
 ムトは自然に声をかける。紳士たるもの、女性の状況には気を使うべきだが、正直言うと、からかいすぎてこうなったのは自分のせいだろうと思う。
「これ、俺の水筒、まだ半分くらい残ってるけど……飲む?」
 ムトは少し笑みを浮かべながら差し出す。
「すみません、管理がずさんで……」
 アミは小さく笑い、水筒を受け取る。しかし口をつけようとした瞬間、手が止まった。
「やっぱり……いいです」
「え、ほんとに?」
「ほんとにいいです!」
 アミは水筒をムトに押し返し、少し距離を取りながら振り返る。
 その顔は少し赤く、なんだか焦っている。
「うーん、謎の羞恥プレイか……」
 ムトは小さく呟き、くすくす笑う。
「でもさ、水筒を押し返されるって、ある意味新しい経験だな……」
「だから、何を言ってるんですか!」
 アミは怒り口調だが、笑いを含んでおり、反抗しているようで実は楽しんでいる。
「この先すぐ、大きな川があります。上流なら飲み水も取れるはずです。そこまで我慢します」
「なるほど……それはつまり、俺に水を奪われる心配はないってことか」
 ムトは少し寂しそうに冗談めかす。
 アミはくすっと笑い、「そういうことです。……ほら、歩きますよ。川まではまだ距離がありますから、立ち止まらないでください」
 ムトは困惑しつつ、少し小走りで彼女の後ろをついていく。
「歩きながらツッコミを入れるのも一苦労だな……でも、まあ、面白いからいいか」
 森の中に、二人の笑いと掛け合いの声が軽やかに響いた。

 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 歩き始めてから少しすると、二人は川辺にたどり着いた。水は透き通り、日差しにきらきらと反射している。ムトは息を整えながら、地面に座り込む。
「はぁ……やっと川か……」
「はい。ここなら水も飲めますし、少し休めますね」
 アミは水筒に水を足しながら、川面を楽しげに眺める。
 ――その瞬間。川上から、ふと異質な気配が流れてきた。
「――おや、こんなところで」
 低く澄んだ声。森のざわめきの中で、まるで別世界から降りてきたように響いた。二人が顔を上げると――
 川のほとりに立っていたのは、とても整った中世的な顔立ちの男だった。
 長く黒い髪は背に流れ、光を受けて青黒く輝く。身のこなしは無駄がなく、歩くたびに川面に小さな波紋を描く。
 その視線は柔らかくも確かで、静かに二人を見つめていた。まるで森の中に立つ自然の一部のようで、しかしそこだけ光が差しているかのように目立つ存在感だ。
 この世に「美女」という言葉があるなら、世界はきっと彼を「美男」と表現するだろう。そんな人だった。
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